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慈母

春宮で出会った、高志沼河姫命。


今回は、建御名方神の母として、一柱の神として、澪が胸に抱え続けてきた想いと向き合います。

普段の澪のことを考えると、今回の動きは珍しい、初めても同然の行動だった。

ただ、澪は逡巡しているようにも見受けられる。

何か引っかかるものがあるが、それを言葉にすることが難しいのだろう。

それを分かったうえで、高志沼河姫命と話をしようとする、弱くも強い女性がそこにいた。


「貴女は建御名方神のお母さまという理解であっていますか?」

「ええ、建御名方神は私の子です。」


澪が瞳を閉じて、一つ息を整える。

事実を確認し、次の質問を整理しているのだろう。

かなりの緊張感が見て取れる。


「建御名方神は、人を護る為に傷ついたと伺っています。」

「ええ…。」

「私には…傷ついてほしくない人がいるんです。」


澪が顎に手を当てるようにして考え込み、次の言葉を紡ぐ。


「護るということは、自らは傷つくものなのでしょうか…?」


澪が瞳を閉じ、微かに震えながら質問する。

過去の出来事を知っている、自分もその関係者であるだけに、澪の言葉は重かった。

その重みはかの女神に確かに伝わっていると信じたかった。


高志沼河姫命もまた、瞼を伏せたまま、しばらく考え込んでいた。

神とはいえ、子を持つ親であることは確かである。

この問いに対する答えを出すことが難しいのは間違いなかった。


「そうですね…何かを護る為には、傷つくことを厭うことは難しいでしょう。」


瞼を伏せたまま、うつむいた状態で答え始める。

その声は、難しさを示すような苦しさとともに、間違いない強さを感じさせるものだった。


「ですが、その想いを止めることは私にはできませんでした。」


母は強しとはよく言ったものだ。

この時の高志沼河姫命は一柱の女神であり、母親であるという姿を示していた。

子の想いを汲み、それが茨の道であっても、それを止めることはできない苦しみ。

止めることそのものはできたとしても、それが子の心に傷を残してしまうであろうという葛藤。

結論として、子が傷ついても、その想いを遂げさせることを選択した勇気。

色々なものを、この一言が物語っていた。


澪はその言葉に驚き、言葉を失っていた。

傷ついてほしくない相手が、傷つくような選択をする。

今の澪には、まだ理解しがたい選択、感情であろう。

しかし、高志沼河姫命が答えたことについて、自分には何となく理解できるものがあった。

肉体のダメージよりも、決意を持つ心のダメージのほうが大きいというのは、自分にもわかるからだ。


高志沼河姫命は、言葉を失っている澪に言葉をかける。


「貴女は優しいのですね…、ですが、想いを止めるというのは、治り得ない傷を残します。」

「…どういう…ことでしょう?」


澪は、高志沼河姫命にかけられた言葉を量りかねていた。

確かに、澪の経験上、あの時止めておけば失うことはなかったという思いがあるだろう。

ただ、止めていたら、治り得ない傷を残すということを言われているのだ。

その存在を失わないことよりも、大切なこととは何か、澪にはわからなかったのだ。

いや、分かってはいるのだろうが、認めたくないといったところだろう。


「貴女が自分の選択を悔いているようなことを、大切な人もすることになるのです。だからこそ、止めずに支えるのですよ。」

「支え切れるのでしょうか…、私には分からないんです。」


自信のなさそうな澪に、高志沼河姫命は近づいてきて肩に手をかける。

思ったよりも小柄で、澪よりも少し小さいと思われる高志沼河姫命は、母親らしい優しい表情をしていた。

その表情を見て、澪は泣き出しそうな表情になる。

優しさがまた、辛さになることがあったのだろう。


「支えるというのは、帰ってきたときに受け止めてあげることです。」


その一言で、澪の涙腺が崩壊した。

嗚咽という感じではないが、声もなく、ただ開いた瞳から涙が零れ続けていた。


「でも、傷つくことが分かっているのに、見送るなんて…怖くて…。」


もうこれ以上、失いたくない。

その気持ちがあふれていることは見て分かった。

過去のことを知っている自分だからわかるが、静流には分からないのではないかと思う。

一方、その様子を優しい眼差しで見守っていた野乃花ちゃんについては、こういったことを受けて理解できる、非常に高い感受性があるのだろうと思った。


高志沼河姫命は母親が子供を宥めるように、澪のことを包み込んでいた。

しばらく涙が止まらなかった澪だが、落ち着きを取り戻し、もう一度、高志沼河姫命と視線を合わせる。


「私も子を見送る時は恐怖しました。そこは神も人も変わらないものですよ。」


澪が小さくうなずく。

神であっても、同じような気持ちを持つことがあることに安心したのだろう。

少し、ほっとしたような表情を浮かべたように見えた。


「最後に一つ教えてください。」

「私にわかることであれば。」

「私にも、護りたい人が、支えたい人がいるんです。」


言葉を選ぶように悩んでいる澪に、高志沼河姫命が助け舟を出す。


「ええ、その人を、どのように支えたいのですか?」

「並び立ちたいんです、でも、遠くて、どうしたらいいのか分からなくなってきたんです。」


高志沼河姫命は立ち上がり、自分のほうに少しだけ視線を向けた。


「天原と神代の関係性は存じていますが、今代に限っては例外です。」

「どういうことでしょう?」

「私はあなたのことはある程度分かります。ですが、今代の神代については理解できずにおります。」


澪がハッとした顔をして自分のほうを向く。

それとシンクロするように高志沼河姫命もこちらに視線を向けた。

最近の神様は、こっちを見るポーズが決まりすぎていて少し怖かった。


「私の知っている、神代とあなたは大きく違うのです。」


高志沼河姫命は自分に向かって言葉をかける。

今までの神様と同じような内容ではあるが、少し違っていた。

知っている神代、うちの家系と、自分そのものは違ったものとして映っているという話だ。


「それはどういうことだ?」


思わず、素のままで質問をしてしまう。

高志沼河姫命は首を振りながら答える。


「建御名方神から伝え聞いておりましたが、私も伝えるべき言葉を持ち合わせていません。」

「ではどうすれば…?」

「建御名方神とも縁の深い、事代主神に尋ねてみなさい。」


またもたらい回しかと少し思ってしまったが、他の神様も同じようなことを言っていたのを思い出す。

特定の一柱が確定したような話をすることが難しいような状況なのかと少し推測してみた。

ただ、それを聞いたところで、同じように事代主神に聞くという話にしかならないのは分かっていたので、それ以上深堀するのはやめておいた。


「わかった、秋宮のほうに行けばいいんだな?」

「ええ、あの子も答えるかはわかりませんが、前には進めるはずです。」


そう言葉を結び、ご神木の前まで下がっていった。

そこで澪とアイコンタクトで何かを伝えたようだった。

澪にとっても、何か大きな収穫というか、区切りをつけることができたようなことがあったようだ。

それだけでも、高志沼河姫命と話ができたことは大きかったと思える。


「ありがとうございます。」

「貴女のその辛さは、あなたの優しさです。忘れずに進めば、道は拓けます。」


そう言葉を残して、ご神木のはるか上空に上っていく。

その姿を、澪も満足そうに眺めており、その様子を満足そうに見つめる野乃花ちゃんがいた。

女性二人には色々通じるものがあるのだろう、そこについては触れずにそっとしておこうと思った。


「境さん、秋宮に行きましょう。」


少しすっきりした表情で、澪が自分の手を引く形で進み始めていた。


—— 神の持っていた人間臭さ、それによって一人の女性は救われていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、高志沼河姫命と澪の対話が中心となる一話でした。


建御名方神との対話では、「前へ進む強さ」が語られましたが、高志沼河姫命は対照的に、「帰る場所であり続けること」「支えることの意味」を語ってくれました。


「支えるというのは、帰ってきたときに受け止めてあげることです。」


この一言は、澪という人物の在り方そのものを肯定してくれる言葉になったのではないかと思います。


また、神でありながら、一人の母として「子を見送る恐怖」を語る姿を描くことで、神もまた人と変わらぬ想いを抱えていることを表現しました。


そして最後には、境に関する謎が再び示されます。


建御名方神に続き、高志沼河姫命もまた「今代の神代は理解できない」と語りました。


その答えを求め、一行は次なる地――秋宮へと向かいます。

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