入域
大阪での出来事を終え、舞台は諏訪へ。
今回から新章の始まりとなります。
大きな事件ではなく、別荘での掃除や仲間との何気ない時間を描きながら、新たな土地の空気に触れていく導入回です。
諏訪という土地が持つ静けさや空気感を感じながら、ゆっくりとお楽しみいただければ幸いです。
別荘についてまず目に入ったのは、外灯とそれに絡んだ蜘蛛の巣だった。
覚悟はしていたが、本当にしばらく来ていないのだろう。
ホームセンターで箒やちり取り、モップなどは買ってきていたのだが、それだけでは不十分だろう。
せめて高圧洗浄機があれば、と思ってしまった。
「境さん、多分、高圧洗浄機ありますよ。」
澪が建物の横にある隙間を走っていく。
ウッドデッキで囲まれるような作りになっており、建物を回り込むように走って行った感じだ。
澪が戻ってくるまでの間、自分と静流で荷物を降ろし始めておくことにした。
ホームセンターで購入した荷物を降ろしたところ辺りで、澪が戻ってきた。
その手にはケルヒャーの高圧洗浄機があった。
「これでいいですよね?」
「ああ、水道の場所を教えてもらえるか?」
澪に言って立水栓まで案内してもらう。
近くに電源もあったので、立水栓と高圧洗浄機をホースでつないで清掃の準備を整えた。
とはいえ、もう夕方になるので、蜘蛛の巣と入口周りのみ軽く洗浄し、本格的な洗浄は後日に回した。
一先ずは蜘蛛の巣などを取り払った入口を開け、車から降ろした荷物を建物の中に入れる。
奥の部屋に入れるのは後回しにして、玄関付近に色々と置いておくことにした。
玄関に入ってみて驚いたのだが、天原家だけではなく、十数人くらいであれば過ごせる広さだ。
天井は吹き抜けになっており、大きな梁が見える。壁には薪ストーブが据えられ、湖側は一面ガラス張りになっていた。
巨大なリビングに、カウンターキッチンを臨むダイニング。
個室や寝室も数部屋ずつあり、まるで大企業の保養所か何かかと思ってしまうくらいだ。
「こちらに荷物を入れる部屋があるので、大きなものはこちらにお願いできますか?」
ここは澪が詳しいので、荷物の置き場所について指示してもらう。
部屋割りについては適当で良いということだったので、比較的、きれいな部屋を使うようにした。
使った部屋を掃除するという流れにすることで、最終的に部屋を綺麗にして帰ることができる予定だ。
荷物を運びこんだ時点で完全に日が沈んでしまっていたので、今日のところは食事をしてゆっくり休むことにした。
これを見越していたのか、食事については簡単に作れるものを買ってきていた。
そのあたり、澪は抜け目がないので、良い奥さんになれると、皆からからかわれている。
とはいえ、本人も否定する様子はなく、若干得意げにさえ見える気がしていた。
澪と野乃花ちゃんが食事の準備をしている間に、静流が持って来たポータブルSSDをテレビにつなぐ。
最近のテレビはストレージを接続するだけで動画を再生できるので便利だなと思った。
接続が終わると、試験的に入っていた動画を再生し始める。
流石にこのタイミングでホラー映画を再生するようなことはなく、ミステリーものが再生され始めた。
「相変わらず、このシリーズ好きだな。」
「ああ、年代を変えながら続いてるのも人気の証拠だと思うしね。」
テレビを観ながら、食事を摂り、談笑する。
そうして一日目の夜は更けていった。
翌朝、先日はシャワーだけで済ませてしまったことを思い出し、浴場の掃除をしておくことにした。
先に起きていた澪が朝食の準備をしているので、掃除をすることを伝えて浴場に向かう。
その途中で野乃花ちゃんと会ったので、こちらにも掃除に行くことを伝える。
「あ、シャンプーとかもセットしたいから、私も後で行くね~。」
「あ、ああ、分かった。」
まさかこんな話になると思っておらず、少し驚いてしまった。
とはいえ、野乃花ちゃんと二人で話す機会は久しぶりなので丁度いいかなとも思った。
浴場について、明るい中で確認するとやはり汚れが目立っていた。
一部、露天風呂になっているところもあるのだが、そちらの岩などは明らかに汚れている。
近くにあったデッキブラシを取り出し、床から磨いていくことにした。
そうして、椅子や桶を一通り端に寄せた所で野乃花ちゃんが合流する。
予想通りというか、両手にシャンプーやボディーソープなどを抱えた状態だった。
「野乃花ちゃん、一旦更衣室の方にそれを置いてもらえるか?」
「うん、わかったー。」
そう言って更衣室の籠に抱えていたものを入れる。
そのままだと手持ち無沙汰になったのか、シャワーや鏡などの掃除を手伝い始めた。
「境くん、体調はどうなの?」
「ああ、運転の疲れも大したことは無いかな。」
「ううん、そっちじゃなくて、大阪の時の話だよー。」
時々、とても鋭いところを付いてくることがある。
確かに大阪遠征の時の負荷と思われるものが押し寄せて来て、少し疲れが出ているところがある。
遠征から戻ってから、少しずつ回復はしているものの、指摘された通り、十全に回復しているわけではなかった。
「よく気付いたな…。」
「境くんは分かりやすいからねー。無理しちゃダメだよ?」
「ああ、分かったよ。」
「じゃないと、澪ちゃん泣いちゃうからね~。」
そこで澪を出してきてからかうのは彼女らしいなと思った。
しかし、思ったよりも周りに対する配慮ができる娘だなと改めて思った。
普段のふんわりした感じはカムフラージュなのかと思えてしまうくらいだ。
「きゃっ!」
お約束のように、掃除中の床に滑って尻もちをつく。
「あいたたた…」
「さっきのセリフが台無しだな…」
ここまでがセットで野乃花ちゃんらしいな、と苦笑する。一瞬改めた彼女のイメージも、すっかり元に戻ってしまった。
浴場の掃除を終えてリビングに戻ると、朝食の準備が整っていた。
朝食を摂りながら、今日の予定を話し始める。
「さて、どこから行くのが一番だと思う?」
「本丸の諏訪大社だと思うよ。まずはあそこで色々調べてからじゃないかな?」
静流は最初から決めていたようで、話し始めてすぐに結論が出てしまった。
「諏訪大社か。まずは行ってから考えるでいいか?」
「そうだね。細かいところは行ってみないと分からないと思うしね。」
「諏訪大社って四か所あるんですよね?」
言われてみて気が付いたが、確かに調べた限りは四か所に分かれているようだった。
それも人によって回る順番が違うらしい。
「ここは伝統ルートの上社前宮、上社本宮、下社秋宮、下社春宮の順が良いかなと思う。」
静流が間髪入れずに答える。
回る順番の事が話題になるという先読みでの発言だ。
誰もこれに異を唱えることはなさそうなので、その提案に乗ることにした。
「前宮は神域らしさが一番残っているからね。そこからが良いと思う。」
「分かった。じゃあ、その順番で回ろう。車を回すので準備しておいてくれ。」
澪と野乃花ちゃんに準備を促して、自分と静流はそのまま車に向かった。
ここから上社、下社ともに多少の距離はあるので、歩いて回るというのは現実的ではない。
なので、色々と都合の付けやすい車での移動を選択した。
車に全員が乗り込むと、澪が野乃花ちゃんとタブレットを確認する。
諏訪大社の事を調べているようだ。
女性陣からすると、四社に分かれた授与品はグッズのような気分で集められるらしく、楽しそうに確認していた。
途中で買い物や景色を眺めながら移動し、一時間ほどで上社前宮の駐車場にたどり着いた。
少し高台になっており、爽やかな緑のあふれる場所になっている。
最初の鳥居をくぐると、少しひんやりしたような、荘厳な雰囲気を感じた。
「境、何かあった?」
「…何となくだが、こう、背の高い神木みたいなものに囲まれたような感じがした。」
静流が少し気にした様子で尋ねてきたので、先ほどの感触を伝えた。
神木という表現をしたが、それが適していてかはわからない。
ただ、背の高い、神々しいというか、畏れ感じるものに囲まれたような気がした。
しばらく進むと上社前宮に到着する。
前にある鳥居から本殿を臨むと、丁度木々の切れ目から青空が見えていた。
その向こうから、水の流れのようなものを感じる。
何となくだが、先日のダムの時と同じようなものを感じていた。
「境さん、指輪が…。」
澪の着けている、例の指輪を見るとほんのりだが光を放っているように見えた。
光だけではなく、周囲に水蒸気のような、靄のようなものを発生させているようにも見えた。
だが、結の気配は全く感じない。
唐突に現れる少女ではあるが、こういった現象があるのに気配がないというのは不自然に感じた。
「境、本殿の方から何か来る。」
「そう言うことか…。」
詳細についてはわからないが、本殿から何かが来ることを指輪が示唆していたのだろう。
ということは、本殿から現れた、このなにかも結と関係する何かなのだと思った。
澪も同じ方向を向き、本殿から現れたそれを見つめていた。
そうしているうちに、自分たち四人はそれに包まれ、霧中に佇むような形になった。
—— これが、諏訪という土地との最初の邂逅だった。
ここから諏訪編が本格的に始まります。
今回は別荘での掃除や食事、翌朝の準備など、事件よりも「日常」を中心に描いてみました。
旅先だからこそ見える仲間たちの一面や、何気ない会話を楽しんでいただけていれば嬉しいです。
そして最後には、諏訪という土地ならではの"何か"が静かに動き始めました。
大阪編とはまた違った雰囲気になりますが、この土地だからこそ描ける物語を、一つずつ積み重ねていきたいと思います。




