-戦う理由-
* * *
翌日の昼下がり。亜久斗から牙雲の経過観察が終わったと聞き、急いで彼の元へ向かった。廊下を歩いている間は、彼の顔を早く見たくて仕方なかった。しかし。
「来たのはいいけど、なんて声をかければいいんだろ」
ふと、引き戸にかけようとした手を止める。望んで訪れたものの、心身を追い詰められた彼にどう切り出すべきか。身体の状況は聞くまでもなく悪い。が、心情を問うのは論外だ。いきなり楼玄の話を持ち出すのも気が引ける。
「――何をしている。入れ」
扉の前で悶々としていると、中から自分を呼ぶ声が聞こえた。留まっている訳にもいかず、紅葉は一呼吸置いてから引き戸を開けた。
微かな消毒液と薬品の匂いが鼻先を掠める。身を起こした上官は、包帯で覆われた腕を組みながらこちらを見つめていた。予想はしていたが――完全に目が三角になっている。
「ええと、その……顔色、ちょっとマシになりましたね」
「そんなことよりも、他に言うべき話があるだろ」
「いやぁ、ホントに少佐が生きて帰ってきてくれて良かったなぁって?」
「どの口が言えた台詞だ。目を覚ました途端、溺れ死にかけた部下を見た俺の気持ちになってみろ!」
「アハハ、この度は大変なご迷惑を、」
「まったく、どこかで聞いた返しだな」
「へへ、また守ってもらっちゃいましたね」
変わらない小言にへらりと笑えば、牙雲は呆れた顔で首を横に振っていた。これまでお互いによく無茶をしたものだ。そこに居座るつもりで丸椅子を引っ張り出していた時。ふと、牙雲が自分の左耳を物憂げに見つめていたことに気づく。
「危険だからお前だけは来てくれるなと思っていた。だが、来るとしたらお前だろうとも思っていた」
「さすがは少佐、勘がいいじゃないっスか」
「お前が本部を発つ前に、その耳飾りの真実を伝えなかった理由も知らされた。まさか、命の恩人が奴だったとは」
彼の顔を見ていたつもりが、いつの間にか視線が床へ落ちている。何か言おうと口を開くも、上手く言葉が出てこない。
「……ずっと黙っててすみません」
「スマイリー大将から事情を聞いたゆえ、責めるつもりはない。驚いたのは事実だがな」
「けど、今はあの人を恩人だって思いたくないです。少佐だけじゃなく、澪や他の人族にしたことも許せない」
「彼にも会ったのか」
紅葉はゆっくりと頷いた。声を震わせながらも、起きた出来事はすべて伝えた。自らができる精一杯の救済を、澪が果たそうとしていたのだと。
「アイツは楼玄の計画が動き出した時点で、オレたちや天音ちゃんを、一人で全部守り切る覚悟だったんです。でも『死ぬよりも不幸なことはない』って言ってたのに……どうして頼ってくれなかったんだろうって」
「本来は俺の手でけりをつけるべきだったのだが。お前に辛い役目を負わせることになってしまい、すまなかった」
固く握り締められていた手に、牙雲がそっと触れた。鼻を啜る自分の隣で、棘となって残された痛みを彼も感じている。どれだけ時間が経っても、澪の最期を思い出すたびに己を責めたくなった。
「当時、澪は楼玄から俺の魔力を奪うように命じられていた。だが、監視の目が外れた隙に、魔力を元に戻していたらしい。それ以外でも俺を庇って罰を受けていたから、楼玄に抵抗していたのだろう」
「けど、アイツからは『楼玄を救ってほしい』とも言われました。オレは《ゲノム・グレース》を使った計画を認めたくない。でも、世界から争いをなくすためには、今のままじゃダメだってことも理解できます」
「――俺も楼玄自身から計画について聞かされた。それに、ドラーグドで過去に起きた《内乱》についても聞き及んでいる。奴が最初から戦争を止めるために動いているのは事実だろう。長く問題視されていた資源枯渇も、人族の交易の分断によって発生したもので、武力組織を解体すれば恒久的な平和を叶えられると信じているらしい」
「だったら、オレたちは何のためにここまで戦ってきたんですか……?」
漏れた問いに、牙雲の口からも深い溜息が落ちた。
「実は、楼玄が俺の見張り役だった時に、こんな話をされたんだ」
『――もし、貴殿が澪のことを案じてくれているのなら、もう彼を惑わせないでくれ。彼には幸せになってほしいんだ』
頬に生えた鱗がひどく逆立つ。その言葉からは、他者の感情を奪うことへの罪悪感が微塵も感じられなかった。それどころか、それが本心から救いなのだと考えている。ただ、澪が真に望んでいたのは、自分たちと共に歩む未来だった。それを歪んだ思想で覆い隠した楼玄の行いは度し難い。しかし。
「楼玄が俺に交渉を持ち掛けてきた時、奴は『当面は領地内で水神家の自治も認め、何かあればノーバディが戦闘を担う。必要なら周辺の民間人に限って水資源の提供も許す』と言った。ただ、条件は俺が《ゲノム・グレース》を受け入れることだった。俺たちの内側にある争いの火種を、取り除くのだと」
「ッ、そんな話を呑めるはずないじゃないですか!」
「俺も最初は拒んだ。だが、今思えば、楼玄は俺以外に手を出すつもりは本当になかったのだろう。争いに関わらなければ、心を失うことはない。本来の形で水神池の守り人としての務めを果たせるのなら、俺の願いも成就したことになる」
「だったら、楼玄のやり方を認めるっていうんですか? 少佐を拉致して、水神家を盾に従わせようとしたことが正しかったとでも?」
「……仮にこの救出作戦が失敗していたら、俺は当時の選択を後悔したはずだ。あの場では、皆を信じて待つことしかできなかった。いや、全てを守ろうとした結果、俺は力を奪われただけでなく、軍の皆を傷つけ、お前や水神家まで死の淵へ追いやった。一つでも間違いがあれば、逆に何もかもを失っていたかもしれない。そうなれば、俺自身が争いの火種になったも同然だ」
「それは違う! 悪いのは楼玄です、あんなヤツはオレが――」
牙雲の顔を見て、紅葉は出かかった言葉を飲み込んだ。
「お前の憤りは理解している。しかし、楼玄を殺したところで世界は何も変わらない。そうした報復が憎しみの連鎖を生み出しているのなら――何のために戦うべきなのか、俺も分からなくなってしまったんだ」
彼が見続けていたのは、この戦火が引き起こす最悪の情景だ。何百人、何千人、いや、それ以上の数の死を、絶望と共に脳裏へ焼き付けられていたのだろう。そして、楼玄は幻を通して彼にこう示した。
――今起きている争いの火種を全て消し去らない限り、この結末を避けることはできないのだと。
「でも、感情をなくしてまで世界を平和にしたいだなんて、少佐は思ってないですよね?」
「当然だ、そんなものは決して平和とは言わない。だが、そのためにどうすればいいのかを問われた時、俺には奴の方法を否定する術がなかった。それどころか、望まぬ戦いから手を引くべきだと言われ、一瞬気持ちが揺らぎすらした。奴の行動原理は他でもない、俺自身が持つのと変わらない《慈悲》なんだ」
牙雲がぎゅ、と胸を押さえる。家の者や民たちを守ろうと必死に戦ってきた彼の心臓に、楼玄は深々と刃を突き立てた。聞かされた真実は、慈悲を根源としたその戦意を奪うには充分過ぎる。
「この先、今の立場で戦火の中を進み続けるべきなのだろうか。進んだところで、待つのが破滅だけなのだとしたら、」
「……ちょっとだけ待っててもらえますか」
俯いた牙雲を残し、紅葉は病室を飛び出した。




