-引き継がれた証-
息を切らせて廊下を走る。向かったのは、本部から抱えてきた荷物を置いていた部屋だ。その隅にひっそりと立て掛けられていた、鈍く光る誓いの証をぎゅ、と握り締める。
初陣で見た蒼い背中が蘇る。このハルバードは牙雲がずっと持ち続けてきた想いの結晶だ。彼の刃はいくつもの困難を切り開いてきた。これを見れば、牙雲もきっとやるべきことを思い出してくれる。
「――少佐!」
信念が詰まった武器を携え、上官の待つ病室へ戻る。鈍色を抱えた自分に、牙雲は澄んだ瞳を見開いていた。
「どうして、これを」
「聖大佐がこのハルバードをオレに預けてくれたんです。少佐に会えたら返すつもりだったんで、ちゃんと手入れも教わって、いつでも渡せるようにしておきました」
差し出した武器に牙雲がゆっくりと手を伸ばした。欠けた刃と傷の入った柄を、包帯の巻かれた指がなぞる。彼が築いてきた誓いと覚悟は、ここに確かな形として残っている。
「少佐がこれまでやってきたことで、無駄だったことなんて一つもない。少佐がドラーグドにいなかったら、オレはここまで生き延びてません。だから、」
「――今の俺は、この武器を握るに相応しくない」
下ろされた掌に思考が固まった。こんな場所で彼が折れるはずがない。嘘だと叫びたかった。しかし、口から出てきたのは、自分の物とは思えないようなか細い声だけ。
「本当に、オレたちと、来ないんですか」
「楼玄の計画が進んでしまえば、取り返しのつかないことになる。だが、この身体では皆の足手まといだ。それに、たとえ武器を振るえたとしても、今は己の行いに大きな迷いがある」
元々、牙雲は水神家を守るためにドラーグドへ来た。今回のように敵から身内を出しにされた時、正しい選択ができなくなる恐怖が、冴えた太刀筋を揺らがせている。
「俺には身内とお前たちの双方を守り切る力がなかった。努力ではどうにもならない、自分の限界というものを思い知った。それでも己ができる役割を、しかるべき場所で精一杯果たしたい。このように無様な姿だったとしても、家に戻れば、身内の心の支えになることぐらいはできるだろう」
「けど、約束したじゃないですか! オレが少佐の背中を守るんだって。傍にいてくれなきゃ、約束果たせませんよ」
今の自分はまるで駄々をこねる子供だ。この気持ちを押し付けたい訳ではない。ただ、ここで彼がいなくなったら、自分が共に歩んできた道まで消えてしまう気がしていた。しかし。
「お前はいつまで俺の後ろにいるつもりなんだ」
その一言が、滲んでいた瞼を抉じ開けた。心のどこかでは、永遠に彼の背中を追いかけ続けるものだとばかり思っていた。だが、静かに崩れ去った幻の先には、これまで見えなかった景色が続いている。
「今回、お前は俺にとって大切な者たちを守ってくれた。命懸けで俺の救出に臨んでくれた。この背中を守る以上に難しい挑戦を成し遂げたんだぞ」
初陣の時のようなまぐれではない。これは己が掴み取った結果だ。絶望に抗い続けた証だ。その言葉を噛みしめていると、牙雲が傷ついた身体を引きずりながら寝台を降りる。そして、立ち尽くす自分の肩へ手を添えた。
「紅葉。まだ迷っているのなら、引き受けなくてもいい。だが、もしも次の戦いに向かうのならば、この武器をお前に預けたい。今のお前の方がこれを握る資格があるはずだ」
牙雲は志を折った訳ではなかった。ただ、彼が本来進むべき道を行く時が、思っていたよりも少し早まっただけだ。
「――少佐がそう決めたんなら、オレは何も言いません。ただ、これは借り物にしておきます。絶対返しに行くんで、後でちゃんと受け取ってください」
「分かった、身体が元に戻れば軍に復帰する。あとは時間の許す限り、扱い方も教えてやろう」
「いいんスか? そのうちオレのが上手く使えるようになっちゃうかもしれませんよ。少佐の戦い方はずっと後ろで見てきたし、結構自信あります」
「それならそれでいい。俺も安心してドラーグドにいる皆のことを任せられる」
硬かった牙雲の表情がやっと綻ぶ。背負い続けていた両肩の荷を、ようやく降ろせたのだろう。牙雲の意志を継ぐなら、これまで以上の困難が自分を襲うはずだ。だが、この背中を支え、前に押し出してくれる掌がある。彼の選べなかった道を行くのが、今の自分の役目だ。
「そういえば、澪の遺体は回収できたのか」
「……いや、施設が水没する前に逃げなきゃならなかったんで、できませんでした」
「ならば、家の者に彼を探させ、連れて帰るように命じておく。水神家の次期当主を救った《英雄》は、こちらで供養せねばな」
軍紀の中では彼の死を深く悼むことも、亡骸を連れていくこともできなかった。だが、水神家を通せば、彼を故郷の土へ帰すことぐらいはできるだろう。同時に、彼との約束を守るために先へ向かう意志を固める。
「お願いします。アイツも、ずっと冷たい水の中にいるのは寂しいと思うんで」
「ああ、できる限りの弔いをする。本部の襲撃で亡くなった者たちにも弔花を手配しよう。頼んだ手前、お前には懸念があるまま戦に出てほしくない」
「だからって無理しないでくださいね? 復帰が遅くなるじゃないですか」
「……そうだな。家に戻ったらしばらくは養生する」
「やっぱり心配だなぁ。少佐のお父さんやお母さんにこれ以上、心労かけちゃダメですよ」
「それこそお前が言えた口か? 白銀大佐からは『家族のことも考えろ』という聖大佐の制止を振り切って、お前が俺の救出を志願したと聞いたぞ」
「ま、そこはお互い様ですね」
「はあ……上官に対するお前の態度を躾け切れなかったのが、俺の唯一の心残りだ」
とうとう寝台へ座り込んだ彼は頭を抱えていた。だが、その瞳には穏やかな水面の色が湛えられている。もう、彼が悪い夢を見ることはない。そう確信した時、やっと自分の視界を覆っていた霧も晴れる。
目指してきた背中を越えた先で待つ、黒衣の影を臨む。なぜ楼玄は今の道しか選べなかったのか。何が彼をその道へ向かわせたのか。それを問い質すためにも、次は彼の背中を追うべきだ。
「今日はこの辺りで帰って休め。話では白銀大佐が楼玄の動向を追って、近日中に中央区画へ移動すると聞いた。それゆえ、武器の稽古は明朝から開始する」
「げっ、マジでやるんスか? オレはともかく、少佐は武器なんか振れないんじゃ、」
「馬鹿者、振るのはお前だ。俺の背中を見ていたからできるんだろ? 自分で言ったんだぞ」
「鬼上官だなぁ、ホント。オレも一応ケガ人なのに」
まさか病み上がりでそんな話になるとは。ただ、片腕に抱えたこの武器は、上官が背負っていた重圧の一端だ。今はその重みを一人で支えられるまでになったことを証明したい。
「ハイハイ、わかりましたよ。手入れもサボりませんから、ちゃんと稽古つけてください」
「遅刻は許さないからな」
「デートだったら早起きもがんばれるんスけどねぇ」
叩いた軽口と共に部屋から追い払われる。それでもやっと耳にできた小言の数々に、どこか悪い気はしなかった。
fin.




