-隠れ処-
* * *
かすかに湿った風が頬を撫ぜる。通用門を出た先で空を見上げると、日暮れの空を夜の帳が包み始めていた。
「少し冷えてきたな」
軍服の袖をさすりながら、紅葉は洋灯を片手に薄暗くなった外へ向かった。多少は動けるようになったこともあり、他の隊員たちに混じって食堂で食事を摂っていた時。任務の後始末で動いていた亜久斗から、ちょっとした頼みを受けたのだ。
「うーん、この辺にいるって聞いたんだけど」
敷地の裏側にある雑木林へと靴先を向ける。茂みの奥へ入れば、そこはしんと静まり返っていた。枯草を踏む音がやけに響く。長い獣道を前に、懐に収めた物を取り出そうとした時だった。
「ッ……!?」
びょう、と鳴いた旋風が木立を吹き抜けた。その狭間に紛れた影に身体が薙ぎ倒され、落ち葉の積もる地面に押し付けられる。
「んだよ、テメェか」
唸るような低い声が耳元へ落ちた。短く呻いていると、肘で押さえ込まれていた身体が解放される。暗がりの中で光る山吹の双眸が自分を見下ろしていた。
「アンタ、いきなり何すんだ!」
咳き込みながら起き上がり、懐にしまっていた鈴を相手に投げつける。ちりん、と鳴ったそれに飆が不遜な台詞を返した。
「報せもなく近づいた方が悪い」
「だからって急に襲うことないだろ」
「敵陣にいる上、恨みを買ってる自覚もある。いつ誰に寝首を掻かれたって不思議じゃねぇ」
身を隠している立場とはいえ、悪びれもしていない。ついでに言うなら、亜久斗のことは鈴の音がしなければ気づかなかっただけだろう。
「で、何の用だ」
「亜久斗さんから、これをアンタに渡すのを頼まれたんだ」
抱えていた麻袋を差し出せば、飆が遠慮もなく中身をその場でひっくり返す。
「シケてんな、また同じ缶詰かよ」
「こっちだって食料が余ってるワケじゃない。分けてるだけありがたいと思ってくれないと」
「食い扶持のために周りをうろつかれると、面倒になるってことだろ。別に俺が要求したんじゃねぇ」
亜久斗の頼みは、敷地に匿っている飆へ食事を届けることだった。彼の存在を認知している者の中で、忙しい上官が気軽に雑用を頼めるのは自分ぐらいだ。それでも釈然としない思いはある。
「冷や飯だと食う気が起きねぇな。どうせならそっちに火でも起こしてけ」
「はあ、どこまで図々しいんだよ、アンタ」
溜息交じりに掌へ燃える色を焚き木に移す。良く見れば、奥に風雨を凌げるように耐水性のある布が張られた寝ぐらがあった。食事を湯煎する道具も置かれている。そうした日用品の横で、無造作に放られている古びた鎖鎌だけが異質な存在だった。自衛のために例の施設からくすねてきたのだとしたら、もっと質のいい武器を拾ってくれば良かったのに――
「終わったならとっとと帰れ」
薪を焚べていた自分を押しやると、相手がそこで暖を取り始めた。亜久斗に命じられた仕事はこれで終わりだ。しかし。
「『帰れ』って言ったのが聞こえなかったのか」
「聞こえてるよ」
「じゃあ何で居座ってやがる」
非難の視線を無視して、薄い藁の敷物へ腰を下ろす。ねめつける瞳には臆せず、紅葉は口を開いた。
「亜久斗さんから聞いたんだ。施設から脱出する時、アンタがいなかったら、オレと少佐は助からなかっただろうって」
当時、流水に巻き込まれた自分は完全に意識を失っていた。途中で目覚めた牙雲が引っ張って地表にまで連れてきたが、瀕死だった彼の体力では自分を引き上げられなかったらしい。しかし、増水や堆積物で出口付近が狭まっていたのが災いし、翼で面積をとってしまう竜人では近づけなかった。
その時、濁流の狭間にいた自分たちの身体に、飆が紐を括りつけてくれたおかげで、どうにか引き上げに成功したのだ。
「あの時、少佐を助けてくれたお礼だけは言っておきたい。ありがとう」
「敵に礼ばっかり言って、恥とは思わないのか」
「アンタに借りを作りっぱなしなのはすごく嫌だ。でも、何かしてもらったら感謝するのは当然だろ? 相手がどんなに悪いヤツだったとしても、オレがそうしたいと思ったらそうするよ。まあ、アンタは『ありがとう』も『ごめんなさい』も言わなそうだけど」
「今は言う相手もいねぇからな」
飆が吐き捨てるようにそう告げた。苛立ちを募らせた武骨な横顔を、炎だけが静かに照らしている。
「『今はいない』ってことは、昔はいたんだろ」
「何が言いたい」
「ノーバディの長と会った。アンタたちが友人だったって話も知ってる」
「……犀臥のヤツがそんな話を?」
伏されていた山吹の瞳が見開かれる。初めて刃を交えた時には、禍々しい覇気を纏う鬼神の姿がそこにあった。だが、こうして近くで捉えた容貌は、ひどくやつれている。これまで追手から逃れるために戦い続け、長く心身を摩耗させていたのだろう。しかし、両の眼に宿る憤怒の炎だけは、異様なまでにぎらぎらと瞬いていた。
「緩衝地帯でアンタとやり合った直後に、全軍円卓会議へ呼び出されたんだ。その時に関係者の前でオレがアンタと戦ったことを話したら、直接声をかけられた」
「くだらない昔話を聞かされたようだな」
「実力を持つ者同士で、アンタたちがノーバディの長を巡る争いをしてたって聞いてる。でも、犀臥はそこでアンタを見逃したんだろ? その時も『自分と会うまで生き延びてほしい』って言ってたぐらいだし」
「はっ、余計な世話だ。あの野郎をブッ殺してから、ちゃんと会いに行ってやるさ」
「……犀臥は本心からアンタの生存について知りたくて、オレに尋ねてきたんだと思ってる。ただ、アンタを殺すのは自分だとも言ってた。もし本当にアンタたちが友人だったとしたら、向こうは何が目的で楼玄に付き従っているんだ? それに、どうしてアンタはそこまで楼玄を殺したがってる?」
飆は自分たちと手を組んでまで楼玄の首を獲ろうとしていた。しかし、その深い事情までは聞けていない。すると、獣の唸りに似た笑いが相手の口から漏れる。
「テメェには命に替えても守りたいヤツはいるか」
「……いるよ」
「その守りたいヤツにも、別で守りたい者がいたとしたら?」
「どっちも守るさ。オレの力の限りを尽くして」
「なら、テメェが命懸けで守りたいヤツのことを、ソイツ自身が大切にしていた者が殺そうとしたら、どんな選択をする?」
火の粉の爆ぜる音だけがその場に満ちていた。沈黙を鼻で笑うと、飆がふつふつと沸いた湯に缶詰を放る。煮え立つ泡を見つめていると、不意に彼が口を開いた。
「俺は選択を誤った。ただ、他に取れる選択肢が本当にあったのかは分からねぇ……いや、どうせ答えが見つかったところで、起きた結果は変わらない。考えるだけ無駄だ」
がらんどうの言葉が地面に転がる。どこか遠くを眺めるようにして、飆が灰の天蓋を仰いでいた。
「そう言いながら、アンタは楼玄へ復讐することばっかり考えてるじゃないか」
「だったらお涙頂戴の作り話でもすりゃあ満足か」
「そういう器用なことができるタイプじゃないだろ? でも、澪と戦った時、アンタは最後まで手を出さなかった。追手を撒くためだけに緩衝地帯であれだけの人数を殺してたのを見たから、正直それが信じられなくて。だから、あんな騒ぎを起こしてまで楼玄を殺そうとした理由が気になってたんだ」
彼が本当に何もかもを諦めているのなら、こうして自分と会話することもないだろう。半ば確信を持った言葉に、缶詰を取り出した飆がやっと口を開く。
「コイツが食える温度になるまでの間だけ、話してやってもいい」
風に煽られた灰が目の前で舞う。片膝を着いた相手が、記憶を思い返そうと山吹の瞳を伏せた。




