-後始末-
* * *
喉に何かがつかえている。浮いた思考とひどい息苦しさが抜けない。肺がそれを受け入れるのを拒否している。ダメだ、まだ生き延びなければ。続く呼び声に瞼を抉じ開ける。色を取り戻した世界が視界に飛び込んできた。
「――牙雲少佐ッ!!」
跳ね起きて手を伸ばす。あるだけの力で目の前にある蒼を抱き留める。だが、水圧の抵抗がない。とん、と背中を叩かれる。何かがおかしい。
「……紅葉君。熱烈な抱擁はとても嬉しいのですが、今は具合を確認させていただけませんか」
「あ、え……?」
すっと肩を押さえられ、身体が離れていく。目の前で安堵の表情を見せていたのは、紫紺の眼差しを持つ上官だった。
「なんで、亜久斗さん……? オレ、さっきまで水の中にいたんじゃ、」
「そこで記憶が止まっているのですね。無理もありません。君は溺死寸前で、丸一日は意識がなかったのですから」
返す言葉もなく、紅葉は額を押さえた。周りは見慣れた石畳に囲まれている。ノーバディの施設から最も近い拠点に運ばれていたのだろう。節々は痛むものの、手当はされていたので大事には至っていない。だが、この場にいることがまだ現実には思えなかった。暗闇で大渦に巻き込まれた状況から、どうやって助かったのか――
「ッ、そうだ! 牙雲少佐は!? 流された途中で紐が切れて、それで、」
「その点はご安心を。君と一緒に救出されて、今は他の部屋で休んでいます」
「意識が戻ったんですか?」
「ええ。短い間ですが、会話もできました」
水神池の水に触れたことで、精神が現へ戻ってきたのだろう。亜久斗の話では、押し流された自分を牙雲が出口付近まで引っ張ってくれたらしい。先に外に出ていた者たちが、土砂の狭間にいた自分たちを見つけ、助け出したというのが事の顛末だ。
「ただ、牙雲少佐の経過は思わしくありません。楼玄に劇薬を使われた上、精神干渉を受けていたそうです。最も望まない光景を繰り返し見続け、今も穏やかな眠りにつけないと言っていました」
「……少佐は、どうなるんですか」
「白銀大佐と相談した結果、一度、水神家に帰すことを検討しています。十分な休息が取れなければ、心身の回復も見込めません。迎えを送ってもらう方向で、蓮雲殿と調整を進めているところです」
今の話は牙雲自身を慮っての対応だったのだろう。あれだけの傷を負っていては、前線に立つことも難しい。だが、家に戻るつもりはないと言っていた彼がそれで納得するのだろうか。
「あの、オレも少佐の顔を見に行ってもいいですか」
「明日の午前中に経過観察がありますので、体調に問題がなければ、以降で面会の時間を設けましょう。牙雲少佐も君の容態を案じているでしょうし、安心させてあげてください」
「ハイ!」
「それと、ある方から君宛てに伝言を預かっています」
「伝言? 誰っスか」
「ノーバディのシェリルさんです。『意識が戻ったら、私の虫にちゃんとお礼を言いなさい! 忘れたふりしないでよ!』とのことでした」
亜久斗がゆっくりと掌を差し出した。黒革の上に乗っていたのは、透ける翅を持つ羽虫だった。暗がりで交わした些細な約束を思い出し、ふ、と笑みがこぼれる。この分では、寝ている間に「勝手に死ぬんじゃないわよ、バカ!」と頬でも叩かれていたかもしれない。
「みんなを助けてくれて、ありがとう。シェリルにもオレは大丈夫だって伝えてくれ」
言い終えると、羽を休めていた虫がゆっくりと動き出す。言付けをしかと聞き留めた小さな伝令役は、朝日の差し込む窓辺から飛び去った。
「そういえば、威吹さんや他の人たちはどうしたんですか?」
命こそ救いはしたが、共に窮地を乗り越えた者たちの今後まではさすがに考えていなかった。シェリルや威吹をはじめ、ノーバディから見限られた者は行き場を失っている。
「それについては、仁殿から残った者たちを匿うという申し出がありました。ノーバディの人員は定期的に各拠点を移動しているため、しばらく誰も立ち寄らない施設へ身を寄せるようです。ただ、その先は各人と協議をした上で、組織に戻る者や抜ける者を整理したいと。また、ドラーグド以外の捕虜も途中までは彼らに同行し、それぞれの経路で軍へ戻ると言っていました」
「仁さんも義理堅いっスね。そこまで頼んでなかったのに」
「彼はノーバディへ入る前に小さな集落の自警団を率いていたそうですから、適任でしょう。それに威吹殿の頼みでもありますし」
威吹は『ノーバディの人員に示しをつけるため、自分を撃った罰としてしっかり働いてもらう』と仁に話したという。自身を害しかけた者をたった一言で庇った辺り、彼らしい懐の広さだ。
「仁殿からは直近の滞在場所や、組織を介さずに密書をやり取りする経路を教えてもらっています。もしノーバディからドラーグドへ移りたい、竜人の集落へ戻りたいという者がいれば、秘密裏に連れ出してほしいそうです」
一度は刃を交えながらも、協力してくれた者たちに別れの挨拶ができなかった。しかし、今はそれで良かったのだとも思う。もしあの場で意識があったとしたら、彼らの処遇で亜久斗や白銀を困らせたかもしれない。
「もし何かあれば手伝わせてください。丸一日は休んでたんで、その分は働かなきゃ」
「無理をさせるつもりはありませんが、状況が状況ですからね。必要なら君にも声をかけます。牙雲少佐を無事に送り届けるために、僕も残された懸念を解消しなければなりませんので」
「それって、地下に突然流れ込んできた水の件ですか」
亜久斗が小さく頷いた。当時、当主と約束した時間よりも早くに浸水が起きたことを、彼も訝しんでいたのだ。
「君たちを救出し終えた後、明け方になった途端に施設全域が一瞬で水没したのです。まるで池の水がそのまま湧き出てきたかのような、自然現象としては信じ難い光景でした」
「んー、それを聞く限り、少なくとも当主さんはオレたちとの約束通りに動いていたと思います」
「僕もそう信じています。ただ、水神家を訪れた際に気になった点があり、それについて既に調査を開始しました。そのうち報せが来るでしょう」
「亜久斗さん、脱出してから絶対寝てないですよね?」
隈さえも見せない綺麗な微笑みを浮かべている彼は、仕事中毒の鑑だ。ただ、彼の方でも水神家や当主の動向を良く知る何者かが、最初の流水に関与していると考えている。候補が絞れているのなら、真実が導き出されるのは早いだろう。
「それと、今回の救出作戦によって僕も他の軍と様々な情報交換ができました。今後の有益なつながりも得られています。また、水神家の協力で例の施設を破壊でき、結果的には大きな利となりました。これまで率先して動いてくれた君の働きに、改めて感謝します」
首を垂れた上官に、紅葉は何も返せなかった。当初の目的だった牙雲の救出は達成している。自分が望んだ通りに多くの命も助けられた。だが、それと引き替えに失ったものは、どんな成功でも埋め合わせることができない。
「……実は、澪の件で報告があって」
紅葉は実験室で起きた出来事を亜久斗に伝えた。なぜ澪がドラーグドを裏切ったのか。楼玄とどのような関わりがあったのか。良心と組織の命令で板挟みになって苦しんできたことや、いずれ感情を失ってしまう恐怖を抱いていたことも。
たどたどしい説明を、亜久斗は決して遮らなかった。否定も肯定もしなかった。それが余計に心の《棘》を蘇らせる。
「オレは、助けられなかったんです。話を聞いてくれるだろうと思って会いに行ったせいで、逆にアイツを追い詰めた」
「すべて過ぎたことです。死者は帰りません。そして、個人にどのような事情があったとしても、組織は彼を謀反人として処理します。これまで聞いた話を軍紀に照らせば、どのみち極刑は免れないでしょう」
事実、澪は多くの味方を殺した。楼玄の指示であったとしても、本部を壊滅にまで追い込み、牙雲や水神家を利用して要求を通そうとした罪は重い。
だが、それは自分や牙雲、天音を守るためだった。彼が罪を負うのなら、行動の発端となった自分もその一端を引き受けるべきだという思いもあった。しかし。
「ただ、本人が既に亡くなっているのであれば、それ以上の罪には問えません。そして、君が個人の立場で友の死を悼むことについては、規程の範囲外です」
「……ありがとうございます」
組織の代弁者である彼にとって、今の言葉が自分にかけられる最大の誠意だったのだろう。紅葉はその場で深く頭を下げた。
「おや、すっかり長居してしまいましたね。君も養生してください」
「わかりました。牙雲少佐のこと、お願いします」
頷いた相手の伸びた背筋が廊下に消えた。しばらくして、また寝台へ身体を預ける。思考すればするほど頭が鈍く痛んだ。目まぐるしく変わる状況に、気持ちが追いついていないこともある。ただ、一番の要因は、自分が何を信じて進めばいいのかを見失ってしまったことだ。
「……楼玄のやってることは許せない。でも、人族が争い続ける限り、誰を責めたところで世界は変わらないんだ」
本部襲撃で多くの味方が傷ついた。牙雲も瀕死に追い込まれた。進められた計画の中で死んだ者は数えきれない。そして、多くの犠牲を目にしてきたスマイリーや、《実験》に巻き込まれた飆は、報復のために楼玄の首を狙っている。自分も含め、彼に抱いた怒りそのものは否定できない。
だが、澪が残した願いには『楼玄も救ってくれ』という言葉が含まれていた。
彼を殺したところで、世界はこのまま緩やかな破滅に向かうだけだ。皮肉なことに、彼の計画が真に正しく完了すれば、この世は武力の消えた平和な世界になる可能性もある。人族は永遠に争いを忘れ、過去にあった栄華を享受できるだろう。
自分たちは本来、平和な世界を目指して戦ってきたはずだ。ここで彼の計画を止めれば、この先に生まれる誰かの未来を変えてしまうかもしれない。
「少佐はどう考えるかな」
広がる選択肢に思考が惑う。今はどうしても道標が欲しかった。




