-呼び声-
* * *
他の姿が見えなくなってから、どれだけ時間が経っただろうか。膝まで迫る水位を見ながら、探り探り地面を踏み締める。壁際へ置かれた松明の炎が飛沫で掻き消されていく。道すがら白銀の手で補強された岩肌が、また崩れかけていた。
「さすがにこれ以上待つのはムリだよな」
背後で壁の崩れる音が響く。先まで立っていた通路には、雪崩れ込んだ土砂が堆積していた。背中を伝ったはずの冷や汗も、濡れているせいで分からない。
新しく造られた道に足を踏み入れると、天井から滴る水が頬を濡らす。いつの間にか行き先が真っ暗だ。腕の鱗を乾かすついでに、掌へ小さな炎を灯す。
暗い色の岩肌が視界に戻ってくる。そこで呼吸がひどく浅くなっていたことをようやく自覚した。長く水気を纏っていたせいで、熱を奪われた全身が強張っている。それでも浸水に恐怖心を抱かなかったのは、きっと牙雲のおかげだ。
「昔、訓練で全身ずぶ濡れにされて風邪ひいた時は、少佐のこと恨みましたけど。慣れといて良かったっス」
水資源が豊富な地域でもなければ、どの人族もあまり泳ぐ機会がない。だから、牙雲は水辺を見つけるたびに、隊員たちに泳ぎを訓練させていた。元は彼自身の魔法による被害を少しでも減らす目的だったはずだ。それがこんな形で役に立つとは、思ってもみなかった。
「身体、冷えてないですか。帰ったらオレも温泉ってヤツに入りたいなぁ。少佐の実家近くに湧き出してるって言ってましたもんね」
声をかけながら、やっと水位の減った道へ辿り着く。緩やかな登りだが、この先も湿気がひどい。弱まる灯火に、忘れようとした焦りがまた募る。
「……本当にこのまま出られなかったら、」
歩を進めるたびに裾を濡らす泥水が、後ろに迫る水面を思い出させた。入り組んだ道は出口を押し隠したままだ。どこかに希望を見出そうにもあまりに状況が悪い。
「いや、深く考えちゃダメだ。諦めるなって白銀さんにも言われただろ」
うつむきかけた顔を上げる。壁に映った二人分の影に気持ちを奮い立たせる。視界に蘇ってくるのは、いつも己を導いてくれた蒼い背中だ。牙雲はどんな困難に遭っても仲間を守ってくれた。だから、今度は自分の番だ。
「あれ、決壊が収まったのかな。ちょっと水が引いてきた」
彼の身体を背負い直し、耳をそばだてる。貯水槽から離れたせいもあり、流れ込む水も減っていた。正面を見れば、目印となる松明が遠くの壁に打ち付けられている。他の物よりも高い位置に置かれていたので、そこが出口までの中間地点らしい。その先は道なりに松明が焚かれている。
「オレたちのために、みんなが置いていってくれたのかな」
希望の炎を目に、息を弾ませながらぬかるみを辿る。出口も近いはずだ。牙雲を一刻も早く外へ運び出さなければ――
「何だっ……!?」
唐突な地鳴り。靴裏が感じ取った違和感に下を見れば、踏み出した場所から次々と水溜まりが滲んでいく。
止めていた足元にちょろちょろと細い水の筋が流れてきた。地面が緩んでいると分かった途端、さっと顔から血の気が引く。全身で感知したのは、生命の危機に瀕する前兆だ。
「ヤバい、もうこの道まで水が来たのか!」
直後、地層から土塊を抉り取る轟音が迫ってきた。泥水を踏みしだきながら走ると、並走する瀑布の音が聞こえてくる。落ちていた小石が振動で跳ねた。道端で泡立つ泥が増え出した。
――水が引いたのではない。これまで分散していた流れが、一か所に集まり出したのだ。
「少佐! 今回ばっかりはシャレにならないんで! 早く起きてくださいよ!」
相変わらず返事はない。牙雲の力で水脈が生み出されているのだとしたら、自分たちとは岩肌一枚を隔てている状況だ。訓練だと思い込むのもさすがに限界だろう。じわじわと増えていく水量に、跳ねるようにして前へ向かった。その時。
「ウソだろっ……!」
激しい地鳴りに次いで、天井から湿った土砂が降り注いできた。行く手を塞ぐ黒土が奥の明かりを遮っていく。顔を庇おうと出した掌の炎も掻き消された。暗闇の中、水の音だけが四方で響いている。
「ッ、どうにか、しないと」
土石流に巻き込まれたら本当に終わってしまう。留まっていてはダメだ。咄嗟に放った紅蓮の灯火と共に、紅葉は再び駆け出した。
考えるよりも先に火球を放つ。爆ぜた軌跡を追いかける。消える前に、流される前に。足が泥に食われかけた。息が上がる。吸っても吐いても、湿った土くれの匂いが充満している。とにかく前へ、前へ行かなければ――
「……外だ!」
鱗の生えた頬へ乾いた空気が触れた。細く差し込む松明の炎が、地面を覆う水溜まりに反射している。先にある小路が出口に通じているのだろう。自分を導く輝きに思わず手を伸ばした。しかし――
「が、はっ……!?」
掴んだのはあまりに冷たい質感だった。直後、全身が何かに叩きつけられる。不意に襲ってきた暴威の中、正常な視界が最後に捉えたのは、激しく白波を立てる水の壁だった。呼び寄せられた水脈の一部が、出口直前にある分かれ道から流れ込んできたのだ。
圧倒的な質量に、全身が見る間に押し戻される。続く言葉がごぼごぼと水に飲まれた。澄んだ水に押し潰され、足元が渦へ巻き込まれていく。マズい。牙雲の身体を括っていた紐が切れた。後ろから迫る土砂がその体躯を吞み込もうとしている。
「牙雲少佐ッ!!」
鉄砲水が過ぎた。わずかに浮き上がったところで、肺に空気を溜め込む。水中で深い青の鱗が淡く光っている。切れた紐を全力で手繰り寄せれば、確かな手応えが残されていた。
「どうすれば、……どうすれば、外に、」
煌めいた鱗の掌をどうにか引き寄せる。前から来る水流が堆積していた土砂を押し流した。背後の障害物が消えた代わりに、出口が遠ざかっていく。逆巻く激流を人の手で掻いたところで、なすがままに流されていくだけだ。それでも牙雲の身体だけは手放さない。
こんな場所で諦めたくなかった。しかし、その覚悟さえ嘲笑う大きな白波が自分を飲み込んでいく。抗うように岩盤を掴んでいると、無作為に暴れる水流が手足に絡んだ。辛うじて淵へ引っかけていた指先にも力が入らなくなってくる。
「っ、うぅッ……!」
波濤が次々と全身を襲う。無数の泡と共に、とうとう四肢が水底へと引きずり込まれた。どれだけもがいても、上から圧し掛かる白波のせいで浮き上がれない。
落ちてきた土砂で、完全に光が消えた。真っ暗だ。沈んだ水底からは音すらも失われている。否応なしに身体が闇へ落ちる。前後不覚。思考するだけの酸素が回っていない。ああ、もう、息が――
「――、……――、――!」
瞼へ触れる青い光。わずかに開いた視界で泡沫が過ぎていく。脱力した身体に何かが寄り添った。ぐい、と前に引っ張る力。それと呼応するように、水の流れが一瞬にして反転する。
『……紅葉っ、絶対に死ぬなッ!』
聞きたかった声が耳の奥で鮮明に蘇る。音の消えた世界で、続く咆哮が谺している。波動が自分の身体を底から押し上げた。ああ、どうしたって水を飲むばかりなのに。言葉になんてならないのに。澄んだあの呼び声に、応えずにはいられなかった。




