-守るべき望み-
* * *
がらがらと崩れていく岩壁を見て、群衆から歓声が沸き上がった。白銀が突き破った場所にあったのは、自分たちが閉じ込められていたのと同じような通路だ。乾いた地面を目にして、ようやく安堵の空気が満ち溢れていた。
「仁殿、ありがとう。逃げられる道が見つかって本当に良かったわ。協力してくれた獣人たちにも感謝を」
「我々だけでこの厚さがある壁を突き破るのは難しかっただろう。こちらこそ貴殿に礼を言いたい」
「あとはこの道から外に出られることを祈りましょう」
統率者の二人が今後の算段を立てている横で、兎の獣人がへたりとその場に座り込んだのが見えた。長く水に浸かっていたせいもあるだろう。だが、それ以上に、絶えず続く恐怖や緊張が全員の心身を消耗させている。
「大丈夫? これ持っておけば、少しあったかくなるから」
「……うん、ありがとう」
炎を移した松明をそっと差し出すと、力なく垂れていた相手の白い耳がぴんと立った。他の人族たちも濡れた身体を乾かしたり、暖を取ろうと篝火の近くに集まっている。休息を挟めれば良かったのだが、悠長にしている時間はない。
「排出口が決壊してからかなりの時間が経っている。堰き止めた水が滞留している場所は、水分を含んで脆弱になっているはずだ。時間が経てば、新たな通路にまで染み出して来る可能性がある」
「外に出られるか確かめるにしても、崩落の危険がある道を往復させるのは躊躇われるわね。ただ、最初に浸水箇所が見つかったのが施設の最下層だとすると、現在の居場所は地表付近のはずよ。だから、このまま全員で行くべきだと思うわ」
貯水槽は本部の三階になるほどの高さだった。彼女の言う通り、排出口を抜けた先にあるここは外に近いと推測できる。
「残っているのは十数名か。使える明かりの数も少なくなっている以上、そこに賭けてみるしかないな」
「なら、その方針で皆に声を、」
「――白銀大佐、大変です!」
ようやく手筈が整った時だった。連れていく者たちを呼び寄せようとした白銀の元に、牙雲を運んでいた一人が蒼白な顔をして駆け寄って来る。
「落ち着きなさい。何があったの?」
「牙雲少佐を寝かせていた場所に水が集まってきています! そのせいで、先ほど築いた堰が壊れかけていて、」
振り返ると、牙雲が身体を横たえていた場所がぬかるみ始めている。炎を反射する水溜まりが徐々に広がっているのも見て取れた。白銀が淡い瞳を伏せる。しばしの逡巡を経て、彼女が口を開いた。
「仁殿、すぐに他の者たちを連れて出口へ向かってちょうだい。わたしたちは少しだけ時間を置いてから行くわ」
「しかし、」
「可能なら、外に出られた段階で羽虫を送ってほしいの。そうすれば人を寄越さないで済むはずよ」
仁がずっと険しい表情を向けていた。しかし、顎髭に添えていた手をすっと下ろす。
「……承知した。シェリルに会えたら、急いで遣いを送ろう――全員聞け! 水が迫ってきている。すぐにそこの通路を進み、外へ通じる道を探せ!」
群衆が次々と新たな道に向かう。連なる松明や洋灯の炎が岩肌を照らす。次第に足音が聞こえなくなった。この場に残ったのは自分と白銀、そして牙雲を運ぶ人員だけだ。
「牙雲少佐を移動させる準備をしておいて。仁殿が道標として松明を置いてくれるはずだから、通路の突き当たりで明かりが灯ってから動くわ。とはいえ、こちらも視界を確保しなければならないわね。紅葉隊員、予備の明かりを用意してちょうだい」
人が消え、薄暗くなった通路が目の前で口を開けていた。白銀たちから預かった洋灯の火を確認しながら思う。もしも、ここから出られなかったら――
「っ……!?」
屈んでいた足元へわずかな水の筋が伸びた。次の瞬間、付近の岩壁に亀裂が走る。驚いて固まっていると、垂直の割れ目から澄んだ水が空間へと吐き出された。白銀が飛沫を弾きながら、鋼鉄の板で裂けた場所を塞ぐ。洋灯の炎はどうにか無事だ。
「皆、向こうの通路に退避しなさい! 早く!」
乾いていた地面がまた湿り気を帯びていく。白銀の指示で、担架に載せられた牙雲が自分の隣を通り過ぎようとした時。目を閉じたままの彼の頬に、青い鱗が薄く浮かんでいたのが見えた。
『俺が力を振るう理由は――俺にとっての大切な者を守るためだ』
本部で行われた《覚醒》訓練で、彼の残した誓いが鮮明に蘇る。今、この瞬間に取れる選択肢の中で、何が一番望まれているのか。意識する前に、己の導き出した答えをそのまま口にしていた。
「――待ってください!」
「どうした? すぐに逃げないと水が、」
「悪いんスけど、少佐の身体をオレに括り付けてくれますか。両手が塞がってたら、さすがに泳げないんで」
「急に何を言い出すんだ」
「少佐が水を呼び寄せている以上、どこへ逃げても水没の危険があります。代わりにオレが少佐を預かるんで、先に脱出してください」
その申し出に隊員たちが顔を見合わせた。だが、この状況ならば、牙雲もきっと同じ判断をするだろう。そんな確信が自分の中にあった。
「だからって、危険なのは君も同じじゃないか!」
「こう見えて修羅場の一つや二つは潜ってきてるんで、大丈夫っス。オレたちのためにも、早く逃げてもらえませんか」
できることなら、ひどく傷を負っている彼を一刻も早く運び出したかった。だが、呼び寄せた水で誰かの命が奪われたと知ったら、苦しむのは牙雲自身だ。
とうに限界を迎えている彼が必死に意識を呼び戻そうとしている理由。それは守るべき者たちを残して逝けないからだ。ずっと一人で重荷を背負い続けてきた彼の覚悟を、その先にある望みを、ここで潰したくはない。しかし。
「わたしには、あなたたちを連れて帰る義務がある。地盤がどれだけ持つかも分からないのに、置いて行けないわ!」
決壊した壁面に鋼を打ち付けると、白銀が自分の腕を掴んだ。ただ、紅葉は静かに首を横に振った。
「だからこそ、オレが残るべきなんです。もしも白銀さんがいなくなったら、今後の作戦に影響が出ます。そうなったら本部を立て直せません。最悪、このまま道が水没したとしても、少佐のことは水神家の人が助け出してくれますし」
瀑布の飛沫を背にした彼女の瞳が見開かれる。当然、白銀も状況を理解している。何が最善かも分かっている。そして、望む未来へつなげるために、自分が譲れない覚悟を示したことも。
「……あなたを失って一番悲しむのは、間違いなく牙雲少佐よ」
「そうなったら『小言はしばらく聞きたくないんで、天国には当分来ないでください』って伝えてもらえれば」
呆れと、わずかな痛みを抱えた吐息が漏れる。だが、自分の肩へ手を伸ばすと、彼女はきりりと上がった眉尻を和らげた。
「何があっても諦めないで」
触れていた銀の掌が離れる。白銀に促され、佇む隊員たちがぐったりとした身体を自分に渡した。手早く牙雲の身を背中へ括る彼女たちからも、まだ葛藤が伝わってくる。ただ、ここで主戦力を失えば、ドラーグドにとっては取り返しのつかない損失だ。
「これまでずっと少佐を守ってくれて、ありがとうございました」
彼を運んでくれた二人にも頭を下げる。物言いたげな彼らの前で、白銀が濡れた軍服の裾を翻した。仲間たちが何度もこちらを振り返りながら、新たな道へと消えていく。
「……この判断、間違ってないっスよね」
先を読んで、最も多くを救える方法を選べ。牙雲ならきっとそう言ってくれるだろう。大丈夫だ、白銀たちなら逃げ切れる。彼女や外で待つ亜久斗たちがいれば、この状況を打開できる確率も上がるだろう。正しいと思った道を選んだのなら、もう迷いは断たなければ。
――喧騒が去った。足音が消えた。
「……さて、と。この先どうしますか、少佐? ちょっと相談したいんで、目ぇ開けてくれたりしませんかね」
返事を期待した訳ではなかった。ただ、今は直面した危機を考えたくないだけだ。退路が吞み込まれていく事実を見たくないだけだ。水を吸った全身が重い。ざあざあと無慈悲に水面を叩く飛沫の音だけが、今の聴覚を支配していた。




