-例外事項-
視界から大柄な相手が消える。からん、と白い面が転がった。音を頼りに床へ視線を移すと、倒れた相手に別の黒衣が覆い被さっている。
「まさか、僕が敵を庇うことになるとは、ね」
呆れを帯びた自嘲が色付いた唇から零れた。黒衣の兵は説得になびきかけた味方を狙ったらしい。だが、直前で亜久斗がその射線に入ったのだ。彼の肩口には、薬液の容器と針が生えている。
「すぐにそこを離れてッ!」
白銀が血相を変えた。青みを纏う深紫の鱗が、秀麗な笑みを形作る横顔へと広がる。そこまで見て、撃ち込まれたのが《劇薬》だとようやく理解した。もしも亜久斗が暴走すれば、彼女が止めるしかない。そして、それは楼玄と渡り合うための札を失うことを意味していた。
「……ッ!!」
結果を考えるよりも先に身体が動いていた。《劇薬》を受けた亜久斗を、倒れた黒衣から咄嗟に引き剥がす。自分よりも小柄な相手をどうにか組み伏せた。だが、開かれた瞳孔の奥では《覚醒》の兆候が色濃く出ている。
「これ以上動くな! 動いた者から撃つぞ!」
発砲した兵が声を荒げた。歯噛みした白銀が生成した盾を構える。しかし、武力制圧に舵を切ったと思われれば、この先の交渉も成り立たない。
「亜久斗さん! お願いだから耐えてくださいッ」
押さえつける手に汗が伝い落ちた。覗いていた人肌に、濡れた光沢を放つ紫の鱗がじわじわと広がっていく。体術に秀でた相手が反発する力は想定以上だ。
「紅葉隊員、これを使って!」
隙を見て、懐へ忍ばせていた鎮静剤を白銀が床へ滑らせる。ようやく救いの手が差し伸べられた。転がったそれは、手を伸ばせばどうにかに届く場所に――
「うわッ、!」
拘束が緩んだ途端、華奢に見えた四肢の鱗がぶわりとさざめく。低い唸り声の直後、隆起した背が自分を跳ね除けた。投げ出された身体を起こすよりも先に、短い悲鳴と複数の発砲音が鼓膜を貫く。
「当たれッ! くそ、あのトカゲ、まだ動けるのかっ……ぐ、うぅッ!?」
遥か後ろにいた兵を床へ薙ぎ倒したのは、乱射された針が刺さった腕だ。《覚醒》が引き起こす身体能力の向上が仇となったらしい。複数の兵の間を縫い、獲物の喉元を狙った竜の爪を、辛うじて銃身が留める。
禍々しい殺気にぞわりと悪寒が走った。白銀の右手には既に大振りな鉄槍が生み出されている。迷っている時間はない。
「まだ、間に合うはずだッ!!」
置き去りにされた鎮静剤を引っ掴む。凍りついた空間の中で、投擲の構えを取った白銀が制止を命じていた。それでも立ち止まれば後悔する。
「届けッ……!」
鱗の腕に叩き落された銃身が足元まで転がった。右手に鎮静剤を握り締める。標的に注意が向いている隙を狙い、背中へ針を突き立てる直前。振り返った亜久斗が、開き切った瞳孔を細める。
「――そこまで必死な顔をされては、僕の方が仇になった気分ですね」
ふつ、と呼吸が戻ってきた時には、秀麗な横顔から全ての鱗が消えていた。目を瞬かせていると、握っていた針を黒革の手がやんわりと下げさせる。
「鎮静剤は温存しておいてください。僕は、この《劇薬》で引き起こされる《覚醒》を無効化できます」
「どういう、ことですか? これまで暴走してたんじゃ、」
「すみません。薬液の中和に時間を要したせいで、先ほどはつい”本音”を見せてしまいました」
――目には目を、歯には歯を。言葉とは裏腹に、彼は本性を繕うでもなく、色づいた唇から赤い舌を覗かせていた。
「馬鹿な! この薬を数発も打たれて、無事でいられるはずが、」
「お言葉ですが、“打たれた”つもりはありませんよ」
彼があえてその身に引き受けた針を見て、身体を起こした黒衣の兵が首を横に振る。
「これを投与された者は全員狂う。捕虜のトカゲで何度も試した。耐性など存在しない」
「本当にそうでしょうか。たとえば、僕が事前にこの薬の《原液》を摂取していたとしたら?」
亜久斗が腕に刺さっていた針を引き抜いた。黒衣の袖を破り捨てると、肌から浮き出たわずかな血の玉を指先で掬う。その手で相手の仮面に触れた直後。じゅ、と焼けるような音がした。剥がされた白い表面には風穴が空いている。
「猛毒の体液を持つ存在――お前、《毒殺者》だったのか!」
「諜報や暗殺を主とするこの組織で、あらゆる毒や薬物を扱う専門家を知らぬ者はいないでしょう。どんな毒でも己の糧にすることこそが、僕たちの至高の楽しみですから」
破れた左袖から覗く毒蜘蛛の刺青を見て、人間の兵が掠れた声を上げた。《毒殺者》たちは毒や薬物に耐え得る体質を強化し、己しか扱えない毒を生み出すために、あらゆる毒を口にする。猛毒となった自らの血を掬うと、亜久斗が恍惚とした表情でそれを唇へ添える。
「実は以前、ある拠点で隊員が不審死を遂げた事件を調査していた際に、首謀者が有していたこの薬の《原液》を食らったのです。僕も様々な毒を血肉にしてきましたが――あれは命を差し出す覚悟を持つほどに、刺激的な味でしたねぇ」
ノーバディの扱う《劇薬》も、元を辿れば毒の一種だ。たった一滴で死を運ぶ蟲毒の主を前に、周囲にいた黒衣たちが一斉に後ずさった。
「例の事件前から、僕は独自に《覚醒》を抑える鎮静剤の開発を進めていました。ただ、幸運にも原液を口にできたことで、《覚醒》の一因となる成分まで特定が叶ったのです。現時点でも、貴方たちの扱う《劇薬》の効能が、この鎮静剤で無効化できることが証明されています」
針を握ったままだった自分の手から、細い指先が薬液の入った容器を掠めていく。飆の襲撃から少し経った頃。救護部隊の廊下で亜久斗と出会った時に「新薬の治験結果を報告しに来た」と言っていた記憶が蘇る。この鎮静剤は彼の血肉から得た知見による産物だったらしい。
「そういえば、ドラーグド本部の襲撃では、鎮静剤を預けた救護部隊が最初に狙われたと記憶しています。少なくとも、そちらの上層部は鎮静剤の存在を認知していたはずですが――”捨て駒”には知らされていなかったようですね」
「なっ、」
「現実を信じられませんか? 物証が必要ならこちらをどうぞ」
亜久斗が懐から取り出したのは数枚の紙切れだ。鼻先へ突き出されたそれを、相手が引っ掴んで目を凝らす。しばらくして顔を上げた彼は、随分と白い顔をしていた。
「ノーバディの兵はほとんどがこの施設を去り、残った者は捕虜と我々だけになっていると?」
「その状況で僕たちと戦ったところで、貴方たちが生き残る確率は限りなくゼロに近いでしょう。ただ、そこの彼が貴方たちと共に施設を脱出する案を提示したので、我々はそれに賛同しています」
「事が終われば、こちらを始末する気だな」
「――最初からそのつもりなら、こんな話を持ち掛けずに殺しているはずだ。この者がお前さんの撃った針から、おれを庇ったりもしなかっただろう」
背中から響いた声の持ち主はノーバディにいた竜人の彼だった。立ち尽くしていた自分に、素顔を晒した人間が視線を向ける。そこに含まれていたのは困惑に近い色だ。
「どうして敵に対してそこまでする? お前は、一体“何”のために戦っているんだ」
食堂にいた当時、朧げに思い出されたその問いが、鮮明な輪郭を帯びていく。あの時、自分は何の答えも持ち合わせていなかった。だが、今なら確かな言葉として伝えられる。
「オレは、オレ自身や他の誰かが持つ選択肢を、可能性を、その先にある未来を守りたい。でも、オレたちの未来が閉ざされかけている状況を切り抜けないと、それもできなくなる。だから、この場にいる全員に生き残って欲しい。それがオレの戦う理由です」
いつか戦場で向き合うことになるのだとしても、自分たちの判断で、誰かの可能性を閉じたくなかった。鼻で笑われるような理想論かもしれない。滑稽にすら見えるかもしれない。それでも、この言葉が届いて欲しいと思っていた。
「――お前はそう言うが、我々にも信念がある」
仮面の奥で、深い黒の瞳がこちらを睨んでいた。だが、しばらくして頑なだった唇が綻ぶ。
「だが、生き残らなければ先に進めないのは、その通りだ」
頷いた自分の前で、竜人の兵も口を開いた。
「おれもそう思っている。死ぬまでの覚悟があっても、成し遂げられなければ無意味だ。まあ、お前さんたちに裏切られたところで、死ぬ時間が元通りになるだけさ。それなら善意の”可能性”ってやつに賭けてみようじゃないか。どうだい、他に意見のある者は?」
その問いかけに、黒衣たちがつけていた面を次々に外し出した。状況を見守っていた白銀が、静かに武器を足元へ置く。
「これは交渉成立ということでいいかしら?」
「ノーバディ側は異論ない」
「ありがとうございます! じゃあ、すぐに全員を最下層へ集めましょう」
「待って。全体の指揮はわたしだけでなく、ノーバディのあなたたちにもお願いしたい。名前は?」
促された竜人と人間の二人が、互いに頷き合って口を開く。
「おれは『威吹』と呼んでくれ」
「私は『仁』だ」
「ありがとう、よろしく頼むわね」
一時的な停戦の証として彼らと握手をかわす。ただ、亜久斗の手を取った仁は、まだ強い警戒の色を示していた。
「今は協力するが、状況が変わればこちらの動きも変わる。この先どうなるかの保証は確約できないぞ」
「条件は我々も同じです。ただ、貴方は彼のおかげで命拾いしたことをお忘れなく」
細められた紫紺の視線にも、まだ冷徹な色が含まれていた。本能を刺激する恐怖さえあれば、相手を従わせるのには事足りる。あの場で自分が動いていなければ、亜久斗は仁に“報復”していた。
今は白銀の命令が唯一の抑止力になっているだけだ。全員が救われる未来のために、ここを脱出するまで均衡を保たなければ。すると、きつく唇を結んでいた自分に仁が掌を差し出した。
「……命じられた作戦以外では、道義にもとることはしたくない。仲裁には礼を言っておく」
「ありがとうございます。ひとまず信用してもらえれば、オレはそれでイイっス」
真っ直ぐにこちらへ向けられた黒い瞳に、紅葉は頷いた。次いで自分の手を握った威吹が声をかけてくる。
「甘いこと言って、いつか足元を掬われそうで心配だよ、お前さんは」
「かもしれませんね。ま、その時は威吹さんたちを信じたオレが悪かったってことで」
「ハハ、言うねぇ」
髪と同じ白みがかった灰の鱗を頬に浮かべると、威吹は肩をすくめていた。




