-十字路での対立-
腰に提げた洋灯の明かりが、鋼の壁に不規則な揺らぎを生む。静まり返った空間で、忙しない呼吸だけが耳に入ってきた。これまで見ないふりをしてきたが、全身に受けた傷が今更になって痛む。
「……! 少佐!」
入り組んだ廊下を走っていると、背中にいた牙雲がわずかに身じろいだ。冷たかった身体にも熱が戻った気がする。ただ、傷の具合を考えれば予断を許さない状況だ。救った命を繋ぎ止めるために、歯を食いしばって歩を進めていた時だった。
「トカゲがいたぞッ! 人質も一緒だ!」
ああ、どうりで呼吸がしやすかった訳だ。階段を駆け下りてくるノーバディの兵を見て、仮面の存在を忘れていたことを思い出す。
「マズいな。戦うにしても、少佐をどこかに隠さないと」
赤色灯が光り続ける通路から並走する篝火が見える。完全に挟まれた。まだ逃げるか、立ち向かうか。絞り切れない選択肢が脳内を逡巡していた時。
「――うわっ!?」
突如、十字路から飛び出した影が横を抜ける。突き出された刃先と飛び交う矢尻を銀の鉄甲が弾いた。一拍遅れて振り返ると、黒衣の裾から長い白鱗の尾が覗いている。
「左右の通路に敵影あり! その角に隠れて!」
「っ、はい!」
篝火の一つは白銀だった。割って入った彼女に促され、横の通路へ飛び込む。そこで明かりを携えた黒衣の一団が自分を迎えた。
「紅葉君、無事で何よりです」
「亜久斗さんっ! 良かった……!」
仮面越しの声音を聞き、思わずその場にへたり込む。自分たちを探すため、ノーバディに捕まっていた味方を連れて来てくれたのだろう。
「やっと牙雲少佐を見つけたんです。ひどいケガなんで、早く診てもらえませんか」
背負っていた身体を床に寝かせる。周囲へ漂う強い血の芳香に、亜久斗が小さく息を呑んだ。
「すぐに応急処置を行います。ただ、今は不測の事態が続いている状況でして」
「もしかして、出入口の崩落があったせいですか」
「それを知っているということは、寝返った者に会ったのでしょうか」
「……その、」
「失礼。君の生存によって、例の標的がいなかったことが既に証明されていますね。協力者の彼も無事であれば、作戦全体に支障はありません。よくやってくれました」
言葉を詰まらせた自分の様子から、亜久斗は実験室で起きたことを悟ったらしい。代わりに、彼はこれまでの状況を端的に伝えてくれた。
「我々が対応した誘導作戦も、途中までは上手くいっていました。ただ、出入口の崩落で一部の者がパニックを起こしたのです。そのため、白銀大佐が動かせる人員を連れて、各階に散った者を落ち着かせていたところでした。僕は別で脱出経路を捜索しており、先ほど合流したばかりです」
「出られそうな場所はあったんですか」
「残念ながら。次の手を考えるために、君たちを探してここに来ました。協力者の彼はどこにいますか」
「今は別行動ですけど、協力者さん――いや、飆もこの階層にいます。出口があるから、みんなを連れて来いって言われました」
「……これまで事実を明かさなかったことは謝ります。潜入前に彼の正体を伝えていたら、作戦が失敗する確率が高いと判断しました」
「亜久斗さんの立場はオレもわかってます」
明かりをかざすと、傷ついた牙雲の四肢を確認しながら、亜久斗が先を続けた。
「回収した資料や、説得できた人員に聞いた情報から、この施設にいる兵や捕虜の総数は約50名と見ています。捕虜たちは所属を問わずに作戦室へ集め、説得へ応じた者に預けています。ただ、ノーバディにいる兵の一部にはまだ接触できていません」
「オレたちがここを制圧するつもりだと思って、抵抗してるんですね」
「こちらを簡単に信用できるかと言えば、難しいでしょう。忠誠心の厚い者や、強固な信念を抱いている者ほど説得は困難になります」
ここにいる捕虜は全て非戦闘員だった。謀反を防ぐため、戦える者は事前に始末されたのだろう。全てに救いの手を伸ばすには、あまりに時間がない。理想と現実が違うことはわかっていた。だが、託された選択の証が背中を強く押す。
「できることがあるのなら、オレにやらせてください」
「まだ動けるのであれば、白銀大佐の補佐をお願いできますか。処置を終えたら僕もすぐに向かいます」
通路では鋼を打ちつける音がまだ聞こえている。彼に牙雲の身を預けると、頷いた紅葉は元来た通路へと足を踏み出した。
* * *
「今、あなたたちと争うつもりはない。武器を下ろしてちょうだい」
少し掠れのある声が仮面の裏から響く。角の向こうでは、白銀が前後にいる相手の説得を試みていた。しかし、対峙したノーバディの兵は構えを解かない。
「何を根拠にお前たちを信じる? 出入口は塞がれて、閉じ込められているんだぞ」
「わたしたちを始末するために、あなたの組織が罠を仕込んだのよ。こちらも瓦礫の撤去を試みたけれど、下手をすれば連鎖して崩落箇所が広がる懸念があった。だから、まずはこの施設にいる人員を集めて、脱出経路を確保しようとしていたの」
「敵なら見捨てて逃げるだろ。それとも、出口が見つからなくて聞き出そうって魂胆か」
白銀の尾が波打った。何を守り、何を切り捨てるのか。彼女の葛藤が空気を通して伝わってきた。その時、息を潜めている中で朧げな勝算が浮かぶ。
「――待ってください!」
飛び出した自分の姿に、黒衣たちの視線が集中した。白銀の前に立つ仮面の相手と視線を交える。
「お前さんは、」
「さっきは缶詰、ご馳走さまでした。センパイ」
耳にした声は、食堂で自分を招いてくれたあの竜人だ。仮面の群れから動揺が漏れる間に、近づいた白銀が耳打ちする。
「牙雲少佐を救出できたようね」
「今、亜久斗さんに預けてます。この人たちとは顔見知りなんで、オレに話をさせてください」
「応じてくれる確率は?」
「わかりません。でも、最善を尽くします」
「既に状況を見守る段階を過ぎていることは理解して。必要なら手を出すわよ」
危険があっても、彼女なら必ず背中を守ってくれるだろう。頷いた自分に、白銀が場を譲った。
「お前さんはドラーグドの者だったんだな」
「良くしてもらったのに、騙してすみません」
「気にするな。おれの見る目がなかっただけだよ」
乾いた笑いが通路に響く。十字路の中央で、相手は灰の鱗が生えた掌を握り締めた。
「それで、無条件に降伏しろとでも言うつもりか」
「この組織の参謀は、施設を破壊してオレたちを殺そうとしました。当然、こっちは敵として忍び込んだし、死んでも文句は言えません。でも、アイツらはセンパイたちまで見捨てようとしたんですよ? 戦争とはいえ、オレは無関係の命まで巻き込みたくない。だから、戦いを避けられるならそうしたいんです」
「……敵同士じゃなければ、お前さんとは上手くやれそうだと思ったんだが。残念だ」
「どうして! あの時、センパイも言ってたじゃないですか! ノーバディに来たのは、この戦争を止めたいからだって。オレたちは殺すために戦ってるんじゃない。ここで対立したら、また争いの火種を残すことになる」
「おれはノーバディとして戦うことを選んだ。ここで彼らを裏切ったら、もう行く先がない」
この組織を捨てた瞬間、竜人の彼は自らの生まれと信念の双方に背くことになる。突きつけられた事実に、きつく唇を噛み締めた時だった。
「おい、近くで変な音が聞こえるぞ」
「そこの通気口から湿った土の匂いがしやがる。どこかで水漏れしてるんじゃないか」
「そんな! 浸水したら全員生き埋めよ!」
付近で低い獣の呻り声やか細い悲鳴が上がる。天井付近で点灯する明かりは黄色だ。だが、水神家とは三度目の緑の明かりまでは安全に動ける約束をしていた。
「まさか、もう流水が始まったんですか?」
「考えたくはないけれど、水神家との連絡面での手違いや、楼玄が別の罠を仕込んでいた可能性も捨て置けないわね」
「ッ、だったら説得を急がないと」
ここで白銀に手を出させるわけにはいかない。恐慌状態に陥っている兵を前に、紅葉は叫んだ。
「聞いてください! この施設は数時間もしないうちに水没します! でも、オレたちの仲間が脱出口を探しているところです。だから、全員で逃げるためにどうか協力してくれませんか? 必要なら、オレたちが先に武器を下ろします」
紅葉は敵前で四肢へ浮かぶ赤い鱗を消した。だが、囲む黒衣たちは簡単には頷かない。
「敵に協力しろだって? コイツ、本気で言っているのか」
「きっと裏を掻いて、こっちを利用してから始末するつもりだろ」
「こんな場所に脱出口があるなんて聞いたことがない。それに、組織が我々を裏切ったという話も信じられるワケが、」
「――良いでしょう。そうまでして死にたければ、わたしが望みを叶えるわ」
突如、白銀が被っていた面を床へ投げ捨てた。晒された素顔に、一部がまた引き攣れた悲鳴を上げる。
「なんで《銀翼の女傑》がここに……!」
「冗談だろ? 本物のはずが、」
堅牢な装甲を持つ白い尾が波打つたび、甲高い金属音が通路に響く。白縹の眼差しで黒衣たちを一瞥した彼女が、威圧と共に長槍の矛先を彼らへ向けた。
「あなたたちが武人として一生を終えたいのであれば、この白銀が一人残らず相手をする。ただ、わたしは生き残るために戦う者の命を優先するつもりよ。そこに敵味方の区別はないと宣言するわ。協力の意思があるのなら、この仮面を外しなさい」
戦士としての意思を示すのならば、彼女はその覚悟を決して蔑ろにはしない。ただ、この程度の人数であれば、数分もしないうちに決着がつくことは誰の目にも理解できた。
「あんなのとやり合っても犬死にだ」
「どうする? ここで死ぬぐらいなら、投降した方がマシだろ」
「今は外に出て逃げ延びた方がいいんじゃ、」
「――貴様ら、裏切るつもりか? 投降したところで、これまで我々がしてきた扱いを他で受けるだけだぞ!」
次々と白磁の面に手をかけ出そうとした者たちを、鋭い一喝が留まらせる。振り返れば、背後にいた一人の兵が長銃を構えていた。
「我々の犠牲で敵の主戦力を潰せるのであれば僥倖だ。それとも、死んでも余りある苦痛を味わいたいか!」
数々の非道を働いてきた者ほど、降伏の意味をよく理解している。何人かが下ろしかけていた武器を構え直した。竜人の彼もまだこちらを睨んでいる。白磁の面を挟み、紅葉は再び視線を交えた。
「戦争を止めるなら、センパイは自分の命を差し出してもいい覚悟があるんですよね? でも、ここで死んだところで世界は何も変わりません。死んで終わるような信念じゃダメだ。変えるには生き残るしかない。足掻いて、足掻き続けて、最後に残った選択肢を見つけ出すしかないんです」
差し出した手に、救えなかった友の掌が蘇る。彼との約束をここで放り出す訳にはいかない。
「戦場で会えば、次はお互いに敵になるかもしれません。でも、今だけは一緒に生き延びて欲しい」
灰の鱗を生やした掌が、惑いながら白磁の面へ触れる。背中を押そうと口を開きかけた時。ぱぁん、と乾いた銃声が耳朶を打った。




