幕間 鬼になった男
先を急ぐ足音が遠ざかる。その残響が連れて来た過去に、飆は自嘲めいた吐息を溢した。
「ああやって安請け合いして、勝手に潰れんのはいつだろうな」
影武者の亡骸を前に思う。最後に交わした言葉は、死んだ彼の本心だったのだろう。だが、死者の願いは、いつの日か生者にとっての呪いになる。次の希望を目指して進む青年は、その事実をまだ知らない。
「テメェが死ぬ時は、背負った全てが次の呪いだ――それを分かってやってんなら、一番救えねぇヤツだがな」
可能性があればいくらでも手を伸ばしてしまう。背負い続けてしまう。その重荷を忘れ、また次を救いに向かう者こそが、この世で最も残酷な存在に違いない。それでも、彼は自分が手に入れられなかった“選択肢”を掴みかけていた。
「バカの一つ覚えみたいに『全て救う』なんて、俺は考えもしなかった」
無機質な白い檻の中にいた当時と違うのは、この手が汚れていないことぐらいだろうか。どれだけ逃れようとしても、この身に付き纏う永遠の咎。あの時に何を選択していれば“正解”に辿り着いたのか。いくら月日が経っても、未だに自分は答えを探し出せずにいた。
「……どうしようもねぇ約束なんかさせやがって。恨めるもんなら恨みたいぜ、冬湖」
立ち込める白い霧と、屍の周囲に飛び散った鮮血が視界を埋める。ひどく既視感を覚える光景に、閉ざしていた記憶の断片がずるりと引き出された。
* * *
「飆、少しだけいいかしら」
白い牢獄のような部屋の隅で、瘦せ細った銀髪の女がそう囁いた。施設に収容される前は長かった髪が、今は短く切られている。何の気なしに理由を尋ねたら「集落にいた時のように、自由に手入れができないからだ」と、冬湖は寂しそうに笑っていた。
「犀臥のヤツならまだ戻ってねぇぞ」
「今日も最後までいるのね」
「どうにも適合率が低いって話だ。魔力は入ったが、扱いが上手くいってないらしい。だから時間をかける必要があると聞いた」
「あの装置に繋がれたままで、本当に大丈夫なのかしら」
生憎、それに気の利いた答えは返せなかった。
ここに集められたのは、同じ貧民窟で細々と暮らしていた者たちだ。自分と犀臥は幼馴染で付き合いも長い。彼はこちらのふてぶてしい態度も気にせず、声をかけてくるほどに気さくで温厚な男だった。少し後になって集落へやってきた冬湖と、いつの間にか恋仲になっていたのも頷ける。
だが、戦火に巻き込まれたせいで、自分たちはノーバディへ徴兵されることになった。ただ、そこで匿われている他の民のために、武器を取ることは厭わなかった。
――しかし、楼玄の目に止まったせいで、今は見知らぬ土地に置かれた地下施設へ投げ込まれている。
例の《実験》により、何もなかったこの掌へ大きな力が宿ったのは事実だ。そして、その力を制御するために、自分たちは黒い椅子に括り付けられ、眼前で繰り返される死の光景を受け入れ続けてきた。だが、脳を直接揺さぶられるような、あの吐き気を催す感覚に慣れることはないだろう。十数人いた仲間のうち、既に三人が発狂している。
「私、自分の手がずっと真っ赤に見えるの。拭っても拭っても、血の匂いがする」
「そんなわけねぇ。それなら、今頃の俺は“鬼”にでもなってるはずだ」
奪われた集落を取り戻そうと誓ったものの、頼る先もない中で、今更逃れることは不可能だ。まだここにいる者は平静を保っている。だが、誰がいつ壊れるかも分からない。横にいる彼女も同じ懸念を持っているとは知っていた。
「で、何を言いに来たんだ」
「……私を殺して」
面食らった顔で相手を見ると、冬湖が胸を押さえながらその場で屈み込む。
「私を、殺してちょうだい。このまま発狂して、犀臥を手にかけてしまうかもしれないと思うと、怖くて堪らないわ! 酷だとは分かってる。でも、あなたにしか頼めない」
彼女が頼みに来た理由は単純だった。ここにいる者たちの中で、最も強い能力を得たのが自分だったからだ。返す言葉を探していると、忙しない呼吸の狭間で冬湖が囁いた。
「最初に投与された《何か》がずっと呼びかけてくるの。それに呑まれたらダメ。何でもいい。たった一つだけでも、強い想いを持っておかなければ、」
「やめろ。お前まで妙なことを言い出したら、犀臥のヤツが心配する」
「飆、あなたもおかしくなる前に、必ず自分を保たせる意識を持つべきよ。その意識が燃え尽きた者からきっと――」
「分かった、何があってもアイツだけは助けてやる。俺もおかしくなったりしない。だから、そんな話は二度とするな」
単なる口約束に過ぎない。それでも、冬湖はどこか安心した顔で微笑んだ。それに心苦しさを覚える。自分と同じように、偶然に高い適合率を得てしまっただけで、彼女自身は他者を害したい訳ではない。集落や犀臥のことを守るために、必要な力を受け入れる意志を示しただけだ。
膝を抱えた彼女が静かに目を閉じた。それを見守りながら離れた場所で時間を潰していると、不意に部屋の扉が開く。黒衣の兵に連れられて、疲弊した顔の友人――犀臥が戻ってきた。
「テメェも生きてたか」
「ああ。もう少しで魔力を扱う感覚を掴めそうだったが、時間が足りなかった。冬湖はどうしている?」
「向こうで休ませた。不安がってたから、声をかけてやれ」
「そうか。情けないが、誰が発狂するかも分からないこの状況では、お前を頼りにするしかなさそうだ」
「いつものことだろ。大した話じゃない」
「……はは、そうして昔からお前には庇われてばかりだな」
笑みのような表情を作った彼は、冬湖以上に落ち窪んだ目をしている。そもそも、自分が犀臥と知り合ったきっかけは、集落の悪ガキが彼に絡んでいたのを追い払ったからだ。強く出られなかった彼に代わって、売られた喧嘩を買ってやることも珍しくなかった。
ただ、彼からは時々そのことを気にする口ぶりも聞いている。犀臥が必死になって自分たちの力に追いつこうとしている理由は、彼の中で冬湖の存在が日増しに大きくなっているせいだ。
「俺の適合率が一番高かったのは、単なる偶然でしかない。とはいえ、いつもはツイてねぇからな。持ったところでどうなんだか」
「どうせ必要な力なら、ないよりあった方がいいだろう。謙遜するなんてお前らしくない」
「るせぇ。そんな面してんだから、口を動かす暇があるなら寝てろ」
「――ありがとう、飆」
頷いた犀臥が、部屋の隅にいた彼女の元へ向かった。戻ってきた彼に冬湖が縋りついている。いくらか言葉を交わすと、冬湖がその傍らでまた眠りについた。
「すまない、冬湖。もっと俺に力があれば、お前を一人で守ることだって、」
毛布を手繰り寄せた彼が小さく呟く。この力を使いこなせる者が戦地へ投入されることは明らかだ。ここで外に連れ出されるとしたら、自分か冬湖のどちらかだろう。施設を去った時点で、互いに二度と会えなくなるかもしれない。そして、今生の別れを迎えるのならば、情の深かった犀臥は己が犠牲になる方を選ぶだろう。
――閉鎖空間の中で、全員がそれだけ追い詰められていた。
今思えば、冬湖も自分たちに埋め込まれた《何か》がもたらす脅威を、察していたのかもしれない。朝か夜かも分からない白い檻の中で、自らの正気を保たせていたものが何なのか。それを問うよりも先に、答えを知る機会が訪れた。
* * *
薄い毛布越しに聞こえてきたのは、ひどく苦しげな呻き声だった。実験室から戻ってきた犀臥の横で、冬湖が静かに寝息を立てていたところまでは見ている。だが、次に目を開けた時にあったのは、これまで見せられてきた悪夢以上に望まない光景だった。
「がああァぁあアあ――ッ……!!」
「ッ、冬湖! どうしたんだ!」
掠れた友人の声が慟哭に交じる。彼が抑えようとしていたのは、獣のごとくに背を丸めた華奢な体躯だ。これまで実験の途中でしか発狂者が現れていなかったせいで、完全に油断していた。
「犀臥、そこから離れろ!」
その叫びは甲高い咆哮で掻き消された。ぱきり、ぱきり、と冬湖の身体を薄氷が覆っていく。言葉にならない声を上げながら、彼女が氷の棘を生み出した。まずい。暴走している上に、魔力まで扱い出しているのだとしたら――
「大丈夫だ、冬湖。何も怯えることはない。だから落ち着いてくれ」
伸ばされた腕に、澄んだ氷柱が振りかざされた。だが、犀臥は避けなかった。防ぎもしなかった。現実の理解を拒んだせいで、発狂した相手をただ呆然と眺めているだけ。
「っ、クソ……!」
咄嗟に凝縮した気弾を放つ。わずかに舞った鮮血に唇を噛む。華奢な身体を弾き飛ばしたが、左眼を押さえた犀臥の頬には、既に縦一閃が刻まれていた。
「冬湖、正気に戻れッ! テメェの前にいる相手が誰だかわからねぇのか!!」
ぐるる、と低く鳴いた化け物に告げたところで、無駄だと知っている。だが、吼えずにはいられない。群青の双眸はまだ犀臥を捉えていた。その強い執着こそが、彼女の正気を保たせたと同時に狂わせもした。
――彼女も“守りたかった”のだ。だが、自分の手で犀臥を失うかもしれないという恐怖が、正気を上回ってしまった。
冬湖がまた唸り声を上げた。凍てつく息吹が床を凍らせる。次の瞬間、動くもの全てを目がけて氷柱が放たれた。迎撃の気弾が間に合わない。鋭利な先端に裂かれた両頬から血が滲む。
「犀臥ッ、行くな!」
伏せた顔を上げれば、背後にいたはずの友人が飛び交う棘の合間を縫っていた。彼方へと手を伸ばした相手に、凍てついた視線が注がれる。ぞわりと悪寒が走った。次の展開を予期した思考が、その身を勝手に動かしていた。
「っぐ、……!」
犀臥を狙った氷柱を鎌鼬で弾き返す。縋ろうとした掌の間に、烈風で押し出した身体を捻じ込ませた。吐き出された氷の棘が半身へ突き刺さっていく。ここで自分が退けば、どうなるかは自明だ。ただ、彼女の動きを止めるだけなら、まだ可能性が――
「飆っ、彼女の元へ行かせてくれ!」
「バカ言ってる場合か! あれはもう、」
「冬湖が、彼女が苦しんでいるのを、俺は見過ごせないッ!」
犀臥が叫びながら自分の肩を掴んだ。その途端、吹きつける氷の息吹がさらに激しさを増す。迫る氷柱の切っ先に判断が揺れた。
「っ、テメェじゃ無理だ! 引っ込んでろッ!」
深くまで思考する暇はなかった。縋る彼の手を咄嗟に振り払い、従えた暴風を吹雪と衝突させる。轟きと破裂音。世界が白く煙る。続いていた喧騒がしん、と静まり返る。
「ああ、嘘だ、冬湖……!」
駆け寄った犀臥がその場で膝から崩れ落ちた。雪煙が晴れた先には、白い壁と床に飛び散った血痕がこびりついていた。全身を叩きつけられた華奢な体躯が、床で無残にもひしゃげている。ぶわりと立ち込める錆鉄の匂い。立ち尽くす自分の前で、今に伏されようとする瞳が緩く弧を描いた。
「ま、もって、くれて……あ、りが、とう……」
かひゅ、と途絶えかけた呼吸の狭間で、白い唇が動く。それが誰に向けられた言葉なのか、自分は最後まで知らぬふりをした。
「冬湖っ、冬湖! なぜだ、どうしてお前がこんな目に……あぁ、早く元に戻ってくれ、冬湖……!」
錯乱した犀臥が、溢れた臓腑をその身に戻そうとしている。それも虚しく、骨身を砕かれた亡骸は次第に熱を失っていった。
全身を血塗れにした友を前に、いやにゆっくりと時間だけが過ぎる。手元が狂った。押さえ込もうとしただけだ。そんなつもりはなかった――言い訳でしかない言葉が浮かんでは消える。
何を言ったところで彼女は戻ってこない。嗚呼、本当につくづくツイていない役回りだ。いつか呟いた自嘲が、凄惨な命のやり取りの中で空々しく響いていた。
「――実験体が暴走した。発狂者は早期に隔離せよ」
色褪せた世界を破ったのは、騒ぎを聞きつけた黒衣の兵たちだ。
「やめてくれ、冬湖を連れて行くな……!」
「暴れて部屋を汚したのはお前か? さっさとコイツを拘束しろ」
残された血溜まりの前で、淡々と遺体を運び去ろうとする彼らに犀臥が叫んでいた。黒衣たちに床へ押さえつけられた友と、そこで初めて視線が交わる。
「この女を殺ったのは俺だ」
そう口走れば、白磁の面をつけた兵が今度は自分を取り囲んだ。だが、腕に枷をはめられていることにも気づかなかった。瞬きすら忘れた砂岩色の瞳から、目を逸らすことができない。
「飆、なぜだ。どうして、どうして彼女を殺した……?」
「そうしなきゃ、テメェが死んでた」
複数の兵が冬湖の遺体を袋に詰めて運んでいく。友だった男は、力尽きたように血溜まりへ沈んでいた。その口からは乾き切った笑いが絶え間なく漏れている。
「そう、か。弱さゆえに、俺は全てを失ったのか。もしも俺がお前と同じ力を持っていたら、お前は俺を退けなかった。お前を凌ぐ力さえあれば、こんな結末も起こり得なかった……なあ、飆。そうなんだろう?」
血の涙と憎悪を湛えた彼の瞳に映っていた自分は、紛れもなく“鬼”そのものだった。
* * *
決してこの終わりを望んだ訳ではない。自分は約束の通り、友人を守ろうとしただけだ。だが、何度も思考の端を過ぎたその言葉を、結局は口にすることができなかった。
狂った彼女が助かる見込みはなかった。だが、自分が彼女に手を下したことで、最も苦しんだのは犀臥だ。友からすべてを奪ったのも、あの恨みの視線を向けられるのも、自分自身――
「それでも、引き受けちまった責任は取るべきか」
頬に刻まれた古傷を押さえる。ふとした瞬間に、人としての理性が戻った時が一番危険だ。下手な情を持てば、おそらく自分は壊れる。己を保たせるには、生へしがみつく“理由”が必要だった。
「テメェが全て救うつもりだとしても、俺は認めない。アイツらが狂う発端になった、あの野郎だけは許しちゃおけねぇ」
足元を渦巻く気流がごう、と床を吹き抜ける。透明な鬼の爪が周囲の瓦礫を次々と引き裂いた。自分と同じように安請け合いした約束を、あの青年はどこまで守れるのだろうか。真実に気付くのはいつになるのだろうか。
「だが、こんなクソったれた世界で、どこまで立っていられるかを見届けてからでも遅くない。どうせならテメェが潰れるまでは待ってやる」
初めて見かけた時から、あの青年はいけ好かない存在だった。どれだけ潰そうとしても這い上がってくる姿には、ある種の恐ろしさすら覚えた。ただ、もしも彼が潰れたら、自分の選択が正しかった証明になる。その時には、彼にかけられた呪いを引き継いでやってもいい。
柄にもなく笑みが漏れる。忌々しい過去ごと切り刻んだ残骸を踏みしだくと、飆はその場を後にした。
fin.
思ったよりこの章が長くなってしまい、配分に悩んでいました。
まだ一章分のストックはあるので、近く更新していきます。
(2026/8/13時点)
--------------------------------
今回は飆の話でした。
4章の登場から随分と引っ張ってきましたが、ようやく紅葉と共闘させられました。
足掻くほどに悪い選択をしてしまう、コイツの人として残念な感じがたまらなく好きです。




