-棘と引き金-
「おれは、紅葉が優しいことを知っている。知っていたから、一つだけ嘘をついてしまった」
「……わかってる。本当は止めて欲しかったんだろ」
「口にすれば皆を危険に晒すから、誰にも言えなかった。ただ、紅葉が来なければ、おれが望んでいた最低限の願いは叶う。もしそうなったら、牙雲少佐や天音中佐はおれが救うつもりだった」
『死ぬのが怖い』。澪は前にそう言っていた。その上で、自分が来ても来なくても、彼は望みを果たすためにあらゆる手を尽くしていた。
「はは。自分だけが頑張ればいいなんて、考えなくていいのに。そういうとこ少佐とそっくりじゃん」
「違うと思いたかったけれど。最後まで抵抗していたあの人が、未来の自分かもしれないと思うと、苦しかった。おれは違う、全部救えるんだと否定したかった。最後までおれを案じてくれていた少佐のことを、その時は愚かだとしか思えなかった。でも、今なら理解できる。あの人には強い信念があったから、その背中を見ていた紅葉たちがこうして動いてくれたんだと」
「……澪、」
「紅葉。おれは、謝りたい。紅葉や牙雲少佐、天音中佐がこれまでに教えてくれた《気持ち》を、失いたくない」
――だから、助けて。
抑揚を奪われた叫び。凍った肉体を中心にして、ごうごうと燃え盛る蒼が渦を巻く。高く火柱を上げたそれが天井にぶつかった途端。縦横に拡散する無色透明の結晶が、鋭利な氷柱となって降り注ぐ。それは明確な干渉の拒絶だった。彼の中に巣食う歪みが、《感情》の発露を許さないとでもいうように。
「ずっと耳鳴りがしている。力を使い過ぎた。これ以上使うのは嫌だと思ったけれど、使わないと紅葉に勝てない。守れないと思ったから……でも、今は抑え方が、わからなくなって。勝手に魔力が出てきて……でも、これがないと……ああ、嫌だ、死にたくないッ! 殺したくもないッ! 失いたくないのに、助けて、たすけて……!!」
身体が無数の氷柱に押し戻される。伸ばした掌が届かなくなる。空間を覆い、結晶化した氷山が悲鳴にも似た音を立てて崩落した。破片が全身に突き刺さる。その後ろで、ひどく苦痛を訴える咆哮が何度も耳朶を打っていた。
「もう澪に力を使わせたくない! 止められる方法はないのかッ!」
忙しない呼吸の狭間で、紅葉は佇む黒衣に叫んだ。だが、後ろで牙雲を抱えていた彼の表情は、ひどく凍りついたままだ。
「――ああなったら、手遅れだ」
かけられた言葉の意味が呑み込めず、紅葉は箔のついた彼の横顔を見た。
「そんなはずない。何か方法があるはず、」
「前に言っただろ。この《怒り》が胸にあるだけ、俺は恵まれてんだって。それを忘れた時点で、“俺”は“俺”じゃなくなる。だから、他の何を犠牲にしてもこの《怒り》を保った。それと同じように、ソイツが自我を保つために縋りついていたのが《守る》という感情だったんだ」
「……っ、」
「ソイツは誰かを《守る》ことで踏み止まってたのに、テメェはそれを認めてやらなかった。自分の正義を押し付けた。その一線を踏み越えちまったせいで、壊れたんだ」
嫌な動悸がしている。返せる言葉がなかった。《守る》という感情そのものが、彼の生み出す蒼焔の燃料だということを理解したくなかった。同時に、自分の言葉が最後の引き金になったことも。
「あのままだと精神を使い潰して廃人になるしかない。本当のダチならどうしてやるべきか、分かるだろ」
彼がここで起こる出来事の答えを知っていた理由。決断を自分に委ねた理由。憤怒を燃やす山吹の双眸に宿っていたのは、彼が目にしてきた全ての時だ。自分と同じように、彼もここで全てを失った。しかし。
「それでも諦めたくない」
再び閉ざされた氷の幕と対峙する。きん、と鼓膜をつんざく甲高い咆哮が上がった。溶かし切れない量の氷塊が吐き出される。細かな礫が全身を襲う。痛い。抑圧された魂の慟哭が響くたびに、肉体へ受ける以上の苦痛を覚える。だが、取り残された世界にいる彼の元へ、一歩でも近づきたかった。
「澪、もういい。もう、頑張らなくていいから」
共鳴する紅と蒼が燃え盛り、入り混じる。ボロボロになった鱗の手を伸ばす。蒼い焔が拒絶を示すように腕に絡みついた。その焼けるように冷たい色へ、紅葉は己の紅蓮を触れさせた。
「……こんなに温かいんだね、本当の炎は。それとも、おれが忘れていただけ、か」
氷柱が塞ぐ空間の向こうで、澪が鱗に覆われていた顔を上げた。炎熱が次第に銀盤を溶かしていく。生み出された祈りの炎が澪の前へ広がった。ほんの少し、躊躇うように彼の指先が曲がる。ただ、温もりを求めた浅葱色の掌が、それにゆっくりと触れた。
「でも……今、やっと、戻ってきたんだ」
冷たい掌へ自分の手が届いた。閉じ込められていた《感情》の機微が、彼の面に浮かぶ。燃える炎が呼び起こした記憶の断片が、その口から溢れ出した。
「……姉さんの子守唄……そうだ、こんな歌だった。他にも聞きたかった音、まだたくさんあったな。天音中佐の歌は、一度も聞こえなくて……でも、あの人はいつも楽しそうだった。おれも聞きたかったけれど、彼女の歌が流れ出すと、全ての音が止まってしまうんだ。《心》を揺さぶられてしまうから」
「ッ、聞けるさ! 天音ちゃんも澪が戻ってくるのを待ってる」
「……紅葉。おれは、おれのままでいたい」
しんと静まり返った空間で、澪が首を横に振った。物になる前の証――人としての彼が望んでいる選択は、すべての終わりなのだ。それでも失いたくない。くだらないエゴだとしても、彼と歩むはずだったこの先の可能性を、自らの手で握り潰したくはない。
「最後に、わがままを言ってもいいか」
「最後とか言うな。元に戻る方法はきっとある」
澪がまたゆっくりと首を横に振る。白炎に包まれたそこで、か細い声が漏れた。
「おれが、おれでいるうちにしか、おれの気持ちは伝えられない――これからおれは、紅葉の一生の《棘》になる。ずっと抜けない《棘》。茨のように絡みついて、紅葉を苦しめるんだ」
「……そんなこと言われなくたって、忘れられるはず、」
「この痛みは、紅葉に《心》がある証。それを覚えていてほしい」
まるで呪いのように、その言葉が肉体へ染み込んでいく。雪融けを待つ儚い灯火が握った掌へ翳された。微睡みながら群青の上へ瞼が落ちる。寄り添う白炎を抱くと、澪の焔がそこへ呑まれていった。
「あと、ね――あの人も、本当はおれと同じなんだ。出会った時から《棘》だらけで、こんなふうにずっと冷たいままだった。どうしたら救ってあげられたのかな。おれには、できなかったけれど、……っ、」
「澪ッ!」
「……喉、動かな、く……なってきて……ああ、きっと……天音、中佐も……こんなに、苦し、かったんだ……」
「ダメだ、しゃべるな!」
「紅葉、どうか、救ってあげて……皆のことも、あの人のことも……」
「ッ、約束する! オレが全部救うから!! それをお前にも見てて、……イヤだ、なんで、待ってくれよ……ちゃんと見ててくれなきゃ、約束守れないだろ……!!」
「……」
「起きろ、もう脱出するんだぞッ! こんなところへ置き去りになんてしたくない! ……いいから立ってくれ、一緒に帰るんだろ! 天音ちゃんにも会って謝らなきゃダメだ! それに、少佐だって絶対に戻ってくるからっ、だから、これからもみんなで過ごして、それで……それで、……!」
ぱん、と氷の弾ける音がした。はっと前を向けば、歪な氷の棘が澪の心臓を貫いていた。灯っていた蒼焔が消える。掴んでいた掌だけに、消えゆく熱を宿して。
* * *
天井から溶けた雫が幾筋も頬に落ちていた。周囲を包む白い炎は既に消え、残ったのは冷たくなった友の骸だけ。
「――そのぐらいにしておけ。まだやること残ってんだろ」
苛立つ声音が耳朶を打つ。だが、今はどうしてもその場から立ち上がれなかった。
「オレは、何を間違ったんだ。どうして救えなかった? どんな言葉をかければ、どんな行動を取れば、」
どんな選択ならば、澪を失わずに済んだのだろうか。とうとう渡せなかった藍の房をぎゅ、と握り締める。すると、項垂れた背中越しに答えが返ってきた。
「テメェはテメェが思った通りに動いた。死んだコイツも自分が望んだ通りに動いた。互いに何もしなければ、ここでは何も起きなかった。それだけだ」
「だけど、」
「どうせ結果を知ってたところで、テメェもコイツも今と同じように足掻いただろうな。なら、一緒に心中でもするのが望みだったか?」
「違う。でも、オレはそういうつもりじゃ、」
「『でも』じゃねぇ。このままだとコイツは単なる反逆者だぞ」
「澪はオレたちを守ろうとしてたんだ……!」
澪は目の前で自らの命を燃やし尽くした。完全に暴走してしまったら、自分が手を下す可能性もあった。もっと言うなら、自分が声を上げていなければ、彼は会話をする間もなく飆に殺されていたはずだ。結局、何をしてもその死が避けられなかったという事実は理解している。
だからこそ、復讐しか頭にない相手に、この胸の痛みが理解できるとは思っていなかった。しかし。
「――だったらいつまでもこんな場所で燻ってんなよ。真実を伝えられるのは、部外者の俺でも《組織》でもない。テメェの言葉だけだ」
ふと顔を上げた先で、飆が相変わらず不遜な表情を浮かべている。
「もしもコイツの選択を変えた自覚があんのなら、託された遺志を勝手に曲げんな。何があってもそれをやり遂げろ。それまでは死ぬ資格もない」
彼から渡されたのは、友と交わした“約束”の一つだ。
「……少佐、」
「ベソ掻いてる暇があるなら、これから伝える話を冷静に聞け。まず、テメェらがやり合ってる間に目につく場所を探ったが、このトカゲの《核》らしきものは見当たらなかった」
「じゃあ、やっぱり少佐の魔力は二度と、」
「見当たらねぇってことは、監視の目が外れた隙に、コイツがそれを戻してたとも考えられる。ちょっとは頭使え」
「そうか、澪が少佐を水神家に帰すつもりだったとしたら、その可能性もある!」
「だが、体温が前より低くなってやがるのは確かだ。脱出まで本体が持つかは分からない」
受け取ったその身体は、もうほとんど熱を残していない。だが、微かに感じる鼓動だけが、彼とこの世界のつながりを辛うじて保っている。消すべきではない灯火に、紅葉は黒衣の背中を臨んだ。
「亜久斗さんと会えれば、傷の処置をしてくれるはずだ。それに捕虜の人たちを助けてくれって頼んだのはオレだし、そっちの対応もしなきゃ」
「ならソイツごと持ってけ。俺の荷物じゃねぇからな」
緩衝地帯で衝突したあの日。飆から与えられた傷は、これまでずっと心に暗い影を落とし続けていた。彼の行動に善悪の区別はない。正しさも誤りも、倫理や道徳さえも。ただ、不条理な世界の中で、彼は己の成すべきことを自ら選択し続けている。
「俺は逃げ道を確保しに行く。他と落ち合うつもりなら、テメェがこの階層まで誘導しろ」
「……あのさ、」
「んだよ、泣き言も文句も聞かねぇぞ」
「アンタがやってきたこと、オレは全部許した訳じゃない。でも、今は、今だけは――ありがとう」
返事は鼻を鳴らす音だけだった。その間に目尻を拭う。先へ進むために、滲んだ視界を捨てた。
背負った上官へ自分の軍服を羽織らせる。突風が溶けかけた氷を扉ごと抉じ開けた。佇む飆が背を向ける。砕け散った装置の残骸を乗り越えると、紅葉は振り返らずに廊下へ駆け出した。
fin.




