-雪融け-
――ぱりん。雪華が咲く。宙へ走る亀裂。頬の鱗がまた一瞬で凍りついた。押し出そうとした呼吸が気管で詰まる。尖った空気が喉を突き刺す。
「ッ、がは、……!」
「抵抗するのなら、無理にでも《ゲノム・グレース》を埋め込む。二度と争いの場には行かせない。でも、安心してくれ。あの人にはおれから伝えておく。紅葉はまだ事情がわかっていないだけだから、始末しないでほしいと。そうすれば、おれがいる限り紅葉を守れる」
蒼焔に覆われた掌が重量を増していく。押さえつけられていた胴だけでなく、両脚までもが氷に呑まれた。だが、まだ静かに燃え続ける火種が、言葉を振り絞らせる。
「精鋭になった時、約束しただろ! 『一緒に戦争を止めよう』って。それなのに一人で背負わせるなんて、オレは絶対にしたくない。守られるだけだなんて望んでないッ!!」
一瞬の静寂。薄氷色に覆われた群青が、虚しく叫ぶ自分を捉えた。
「……おれは、やっぱり間違っていたのか? おれのしてきたことは、何もかも誤りだった? ……紅葉、答えてくれ。おれは、何のために戦ってきた? 何のために苦しんできた? 戦争は終わらないのか? おれは、“おれ”から変われないのか? いや、違う……そんなはずはない。おれは守れる。だからこの力を受け入れたんだ。他の何を犠牲にしても――!」
慟哭が轟く。蒼焔がごう、と大きく揺らいだ。双眸に宿る《竜》が牙を剥く。厳冬の息吹が全てを白に染めた。溶けかけていた氷が牙を剥く。裂傷に結晶化した棘が押し付けられ、焼ける痛みに醜い呻きが口をついた。
「大丈夫。おれは、“殺して”でも“守る”から」
その矛盾にさえ、狂った《竜》は気付いていない。禍々しい雪嵐が一帯に吹きつける。氷結した身体が急速に熱を失っていく。震えて掠れた吐息が零れた。逃れようと足掻いた掌が氷の表面を掻く。だが、削れ落ちたのは爪の先だけ。
「……あッ、ぐ……澪、……!」
――ああ、無理だ。半透明な棺と化した分厚い層が、いつの間にか視界を埋めていた。対峙するまで持っていたはずの熱が、こうも簡単に失われていく。《覚醒》した相手は、牙雲や天音まで抑え込んでいるのだ。それこそ彼のようにズルをしなければ、手に入るはずもない強さだった。
力がなければ、己すらも守れない。いつか見た砂塵の悪魔の嘲笑が脳裏を過ぎる。澪は自分よりも早くに“正解”まで辿り着いていた。そして、自らの意思で“正解”を選んだのだ。途方もない代償を支払う覚悟で。
どうやっても剥がせない桎梏が選択肢を奪っていく。紅葉は動かない唇で友の名を呼んだ。だが、音にさえならない声は、もうその耳には入らないだろう。ならば、せめて牙雲だけでも――
「ったく。あんな啖呵を切ったくせに、明かり取りにもならねぇとはな」
不遜な声音が閉じた瞼を持ち上げる。埋もれかけた結晶の狭間で、こちらを睨む山吹の双眸と視線が交わる。澪が背後を振り返った。凍りついた装置の裏、死角となったそこからなびいた髪が覗く。
「燃料切れならコイツを返してやるぜ、クソガキ」
投げつけられたのは、彼に渡していた灯油の容器だ。阻もうとする氷礫を飆の風圧が退ける。外れた蓋が放物線を描いた。抵抗していた片手を握り締める。判断は一瞬だった。
「らああァあぁあぁ――ッ!!」
自分を覆う氷雪へ撒き散らされた燃料に、あらん限りの紅蓮をぶつける。氷の表面を一瞬にして膨大な熱量が駆け巡った。
「「爆ぜろッ!!」」
送り込まれた追い風。飛んだ火花の引火。暴発。広がる急激な温度の勾配が、氷の棺へ次々と亀裂を生む。内から、外から、冷気を留める魔力が破壊されていく。
「馬鹿な、」
爆風に乗って天井一帯まで暴れ回った熱が、激しい音を立てて氷を食い破った。重みに耐え切れなくなった氷塊が、澪の頭上へ崩れ落ちる。衝撃で、氷に覆われた体躯すらも壁際まで弾き飛ばされた。
「寝てる暇はねぇぞ!」
「っ、わかってる!」
容赦ない怒号に、降り注ぐ氷柱から逃れる。今の爆発で扉の氷は十分に剥がれていた。あれだけの厚みがあったおかげで地盤にも影響はなさそうだ。しかし、転がり込んだ場所は不幸にも実験室の内側だった。扉の前では澪が額から滴る血を拭っている。
『――失ったら戻らねぇものがある。俺は取るべき選択を誤った。テメェはどうだろうな』
飆がじろりとこちらを睨んだ。以前、彼に問われた台詞が耳の奥で蘇る。牙雲を助けるための最善手は、彼がその暴威を用いて状況を打破してくれることだ。だが、それがもたらす結果は最も認めたくない。委ねられた決断を前に、浅くなる呼吸がどうにも耳障りだった。
「……どうして諦めない? なぜ、おれが差し出した救いを拒むの?」
向けられた虚ろな眼差しに、紅葉は唇を噛んだ。長く腐心していた救済が叶わないと知った以上、彼の嘆きはどこか乾き切った言葉に聞こえる。呼応する蒼焔が壁一面に広がった。歪んだ救済への恐るべき妄執だけが、その命を燃え滾らせている。しかし。
「澪の方法ならみんなの命はつなげる。でも、それはオレたちがこの世で一番望まない生き方だ」
澪の望みと、自分の望み。そして、牙雲や天音たちの想いを理解しているからこそ、互いが命を賭してまで叶えたかった希望に、優劣などつけられない。
「このままだと、牙雲少佐はずっと家の中に閉じ込められる。天音ちゃんも大好きな歌が二度と歌えなくなるんだぞ? それに、オレだって家族と同じぐらいドラーグドのみんなを守りたいのに、できなくなるのは辛い」
「それでも、死んだら二度と戻って来られない。死ぬよりも悪いことはない。死んだら終わりなんだ」
「……自分で何も選べなくなったら、それは生きていても、死んでいるのと同じじゃないのか」
「――!」
蒼焔がまた激しく燃え上がった。吐く息が凍る。その先を紡がせないとばかりの冷気が吹きつける。だが、自分の中で強く滾る熱がそれを押し返した。
「生きてれば、やり直せることもたくさんある。昔のオレなら、澪の言ってることが正しいと思ったはずだ。ただ、オレたちが何よりも怖いのは、単なる死なんかじゃない。自分で望んだ生き方ができなくなることだ。好きな人と一緒にいたり、弟や妹と遊んだり、仲間でバカやったり、それで少佐に怒られたりさ。だから、オレだけじゃなくて、横にいてくれる誰が欠けてもいけないんだ」
「争いが続く限りは、そんなささやかな願いさえ叶わない。おれと姉さんのような存在が増え続けるだけ。それはとても不幸なことだ」
「だけど、澪が戦争を止めたいって思ったのは、姉ちゃんを奪われて辛かったからなんだろ? 何もできない自分が嫌で、誰かを守るために必死に努力してきたんじゃないのか? なのに、守りたかったはずの彼女の力を使って、お前自身が過去の自分を生み出してることにどうして気付かないんだよ!」
「……紅葉の言っていることも、きっと正しい。ただ、出来損ないから這い上がるにはズルをするしかなかった。あの人の手を取ったことは後悔していない。あの時のおれにとっては、この焔だけが残された選択肢だったから」
悲しみを癒す熱を。いつか見た、あの暖炉で燃える微睡の色を。冷え切った身体を癒す、あの温かな記憶を――全てを失い、真っ暗だった世界を照らす道標がこの蒼い希望なのだと、彼は信じていた。
「でも、この救いが望まれていないのなら……おれにはもう、戦う理由がない」
項垂れた澪がその場へ屈み込んだ。室内を吹き荒れていた寒気がすっと消える。音を吸う雪が氷の上に降り積もる。裂けた銀盤に足を取られながらも、紅葉は蹲る彼に手を伸ばした。
「それなら早く一緒に戻ろう。ドラーグドに帰るんだ」
「無理だ」
「これまでのことだって、やりたくてやったんじゃないんだろ? オレがちゃんと事情を伝えるから、」
「負った責任の話だけじゃない」
差し出した手が払われる。直後、背負った蒼焔が自分の干渉を阻むように、澪の周囲を取り巻いた。
「……今は涙も出ない。笑えもしない。怒りも湧かない。その出し方を、忘れてしまった」
「それなら思い出せるまで付き合う! オレが手伝えばいいだけだ」
「《ゲノム・グレース》を受け入れた以上、消えた《感情》を取り戻すことはできない。姉さんとのことだって、今は思い出さえ曖昧だ」
「ウソだ、オレには色々と話してくれたじゃないか……!」
「その時までは、確かに《心》が覚えていた。でも、彼女の記憶と紐付いた感情の消失が、思った以上に早かった」
白く掠れた吐息だけが、互いの口からしばらく漏れていた。澪が力を振るっていた理由は、誰かを救いたいという願いがあったからだ。ただ、《ゲノム・グレース》は彼の情緒へ深く根付いた全てを引き換えに、力を与えていたのだろう。
「彼女を覚えていたのはあの形見があったからだ。ドラーグドで集めた痕跡を手に入れていたからだ。形のない思い出は、単なる思考の断片に変わってしまう。たとえ記憶があっても、何かに紐づいていなければ引き出せない。そして、姉さんの記憶と同じように、いつか紅葉たちと過ごしたことも思い出せなくなる……あの人から何度も確認されたんだ。でも、おれががんばって、早く戦争を終わらせることができれば、姉さんのことも忘れずに済むと思っていた。自分で理解して、それでもいいと言ったくせに……やっぱり、途中で“抜け殻”になるのが怖くなった」
こんなのは子供のわがままだ。どっちつかずは許されないことだ。彼の群青が自分の左耳にある黒環に目を留める。




