-二つの炎-
「どうしても戦わなきゃならないんだな」
「――これが、おれからの答え」
群青の双眸がぎらりと光る。背中へ感じた追い風と共に、紅葉は歪な銀盤を蹴った。厳冬の息吹に紛れた氷杭が頬を掠める。腕を覆う紅蓮で打ち払った次に来るのは、足元へ走る氷結炎だ。
「っ、そう簡単にはいかないか」
距離を詰め切る前に、結晶化した氷が足元から競り上がる。じゅ、と焦げついた音が滲んだ。凍結した床を踏みしだくと、紅葉は炎熱と共にそこを駆け抜けた。纏った炎のおかげで四肢の凍結は免れる。だが、空間が冷え切っているせいで、周囲はすぐに霜で覆われた。
「逃がさない」
鏡面のような床を滑走した澪が、白い吐息を溢す。浅葱色の鱗が見る間に氷の鎧と化した。扉へ向かう進路に重量の乗った一撃が振り下ろされる。伝う振動。分厚い氷に亀裂が走った次の瞬間、砕けた表層から氷の棘が吐き出された。
「早く下がって!」
「こっちは構うな! さっさとケリつけねぇと、このトカゲが持たないぞ!」
硝子片となった氷杭が赤い鱗へ突き刺さる。業火で先端を炙ったつもりが、貫通力はほとんど衰えていない。黒い装置を盾にした飆が風圧で応戦しているものの、脱出できなければジリ貧だ。
漏れる呼吸に焦燥が混じる。静かに肉体を蝕む冷気に、瀕死の牙雲を長く晒してはおけない。何層にも重なる氷を破るには、もっと多くの熱が必要だ。
「だったらコイツで溶かし切ってやる」
ごう、と灼熱が躍る。渦巻く熱源が自らを囲んだ。戻ってきた指先の感覚を確かめる。内側が焼き切れそうになるまで熱を溜める。凝縮された最大出力の紅蓮が、凍った横顔の隣を抜けた。バチバチと火花を散らすそれが着弾したのは、澪の背後にある壁面だ。
「そうはさせない」
辺りを白く煙らせた火の手に、冷徹なる蒼焔が覆い被さる。急激な温度差に壁ごと造りが軋んだ。混じり合うことのない炎。絶対零度の空間で、赤き篝火が弱まる。
だが、まだだ。群青の双眸が動いた自分を一瞥した。跳んだ靴裏を氷の棘が追う。背中にも蒼の尾を引く氷杭が迫っていた。それでも傷を顧みず飛び込んだ自分に、澪がわずかに眉をしかめる。
「こんなもんで終わるかよッ!」
凍てつく焔が喉の奥を焼いた。抗うように出力を上げる。臓腑が煮立つ。赤く燃え盛る炎熱が、己の内から溢れ出す。四肢から噴き出す火花に、牽制の氷杭が次々と蒸発した。しゅうしゅうと立ち上る煙の奥、到達した透明な壁に纏う炎を押し付ける。
「――爆ぜろッ!!」
集中砲火。至近距離から叩き込まれた灼熱の拳に、澄んだ表面へ大きな亀裂が入る。事前に放っていた炎のおかげで、氷に閉ざされていた扉が透けてきた。しかし。
「無駄だ」
きん、と空気の質が変わる。途端に世界から音が消えた。
見えていたはずの扉が、眼前から立ち上る蒼い焔で焼かれていく。瞬く間に視界一面が吹雪に戻った。打ち付けた右腕が氷へ食われた。薄氷を踏む足音に、四肢へ熱を籠める。だが、びくともしない。マズい、このままだと――
「ッ、ぐ……!」
「本当に、紅葉はいつもやることが真っ直ぐだ。だからとても読みやすい」
白霧から伸びた巨大な氷の掌が、不格好な指先を開いた。目の前から来ると分かっているのに抜け出せない。肺に伝わる圧迫感。潰そうと思えばきっと一瞬だ。それを示すように、背中を壁に押し付けられ、じわじわと圧力がかけられていく。
「早く投降してくれ。おれたちが殺し合うことは、少佐も望んでいない」
「っ、そこまでオレたちを気にかけてるくせに、どうして少佐の救出を邪魔するんだよ!」
「――邪魔をしているのは、紅葉の方だ」
凍りかけていた頬の鱗がぶわりとさざめいた。抗う熱と共鳴して、澪の顔にも薄く情動の色が浮かぶ。
「これは救済だ。おれがこれまでやってきたことは、おれが叶えられる唯一の“救い”なんだ」
「意味がわからない。本部の人たちを殺して、少佐を傷つけて、天音ちゃんまで手にかけたことが! それのどこが“救い”だって言うんだ!」
「……おれは姉さんのような目には遭いたくなかった。それと同じぐらい、大切な誰かを犠牲にしたくなかったから、ここまで耐えてきた。あと少しでそれも終わると思っていたのに」
かかっていた圧力が弱まる。澪の表情は変わらなかった。だが、彼の後ろで蒼い焔が激しく燃えている。あれが彼の心そのものだ――いつか燃え尽きる日を待つだけの、《感情》の灯火。
「紅葉、よく考えてくれ。牙雲少佐は水神家の後ろ盾があるから、軍を出ても問題ない。天音中佐も声を失えば、これ以上の争いに巻き込まれずに済む。紅葉だって、家族を殺されかけた時点で軍を抜けていれば、こんな場所にまで来る必要はなかった」
「ノーバディにオレの集落を襲わせたのは、お前だったのか?」
こく、と小さな頷きが返ってくる。何も聞きたくない。しかし、普段は寡黙な白い唇が先を続ける。
「あの人が滅ぼそうとしているのは、あくまで軍事組織だけ。軍から抜けさえすれば、誰も死なずに済む。長の犀臥と対峙すれば、紅葉も身の危険を覚えて軍を去ってくれると考えたんだ。紅葉はおれたちの計画について、その時は何も知らなかったはず。だから、要求に従えば見逃すようにと頼んだ」
「ッ、それで何もかも助けたつもりかよ! たとえオレが軍を抜けたとしても、少佐の方は魔力を奪われて、身体だって元に戻るかわからないんだぞ!」
「……おれも手は尽くした。水神家にまで情報を流して、何度も軍から去るように働きかけた。だけど、最後までドラーグドと手を切らなかったせいで、この人を生かすには軍人として再起不能にするしか術がなかったんだ。天音中佐も、このままドラーグドにいれば、いつかあの聴覚の良さに目をつけられる。そうしたら、牙雲少佐よりも悲惨な目に遭うかもしれない」
慕っていた存在が誰かに嬲られ、四肢を砕かれ、血肉が干からびていくのを、ただ横で見ているだけ。それどころか、命じられれば自身がその役を担うのだ。それでも彼が冷静でいられたのは、皮肉にも《感情》の喪失が進んでいたからだった。
だが、すべてが消えた訳ではない。彼の中には、確かな灯火がまだ残っている。
「ここへ来る前に、天音ちゃんがオレに伝えてくれたんだ。澪は、自分の声を“奪わなかった”んだって」
「……彼女が? 喉は潰したはず、」
「少佐のホログラムを倒せなかった時、澪はオレに言ってくれただろ。それは『本当に自分がやるべきことなのか』って。それと同じで、お前は天音ちゃんの声を奪うことを望んでいなかったんだ」
「あれは彼女を守るために必要だった」
「天音ちゃんはお前が心にもないことをしようとして、苦しんでたのをわかってた。自分の声を届けられなかったって悔やんでた。澪、誰かを助けようと必死だったのは、お前だけじゃない!」
紅葉は自らを押さえつける氷の掌を掴んだ。ぱきり、と亀裂が入る。次第に溶け出していくそれに、澪が後ずさる。
「おれはこれから起きることを知っていたから、皆が軍を離れるように促した。なのに、結局は誰も去らなかったのか――ああ、もう、何もかもが手遅れだ」
彼の瞳には明らかな動揺の色が浮かんでいた。だが、次の瞬きの後には、その双眸がすっと冷めた眼差しに入れ替わる。あの淡々とした声音が、一切の感情を捨てた。
「顔を見れば戦うことになるから、紅葉には来てほしくなかった。でも、ここで立ち止まれば、おれが失ってきた何もかもが無駄になる。そんなのは絶対に認めない」




