-切り札-
* * *
「この力を扱う限り、感情の喪失という代償は避けられない。いつかおれは、姉さんと過ごした時に覚えた気持ちも忘れてしまう。だから、彼女のことは内側に刻んでおくのが一番いいと、あの人が贈ってくれた。形あるものはもう必要ない」
「澪、目を覚ましてくれ。本当にそれでいいのかよ!」
「まだ夢の中にいるのは紅葉の方だ。おれは戦争を止めるための力を手に入れた。これさえあれば、おれは“望み”を叶えられる」
「《ゲノム・グレース》を使った計画のことだろ? あんなので世界を救おうだなんて、絶対に間違ってる。戦争を止めるために、誰かを犠牲にしていいはずがない」
「おれは二度と何も奪われたくない――それを叶えるために力を求めることは、間違いなのか? だったら、あの時に何もできなかった“少年”は、どうすれば救われたんだ?」
澪の頬にぶわりと浅葱色の鱗が浮かぶ。強い情動を見せたその背で、蒼い炎が揺らいでいる。彼の問いに対する答えを、自分は持ち合わせていない。
「そう、誰かの救いを待っていても、真の救済はない。おれは一足早くにそれを知っただけ」
澪が浅葱色の腕を掲げる。厳冬の息吹に身構えた、その時。
「……!」
銀色に覆われていた空間の四方で、赤色灯が激しく明滅し始めた。撤退の合図だ。
「数時間後にこの施設は水没するんだ。そうなったら誰も生き残れない!」
「残念だけど、あの人からは施設を破壊せよという命令が下っている。主要な出入口は既に崩落させた。ここからは誰も逃がさない」
紅葉は蒼白な顔のまま後ろを振り返った。それを見た協力者が低く呻る。
「まさか、地上に通じる坑道を全て潰しやがったのか!」
「誰かが実験室に侵入した時点で、出入口を塞ぐための起爆装置が動くように仕組んでいた。上の階層ならば音や振動が伝わる可能性はあるけれど、ここまで深い場所では感知できないはず。そして、外へ出られる通路はこの階層にしかない」
協力者が何度目かもわからない舌打ちを返した。今の話が事実ならば、浸水が始まってすぐに脱出口が水没する。さらに、この湿地帯で設備に風穴を開けられているのなら、流水によって基礎ごと崩壊するだろう。
この赤色灯は、退路が崩れた音を聞きつけた白銀たちが、危険を知らせようとして光らせたのだ。
「だったら早く出口を教えてくれ。今から動けば、明け方までにはまだ間に合う」
「できない相談だ」
「このままじゃ全員死ぬんだぞ! そうまでして楼玄に従う理由なんてないだろ!」
「……紅葉は、裏切り者のおれを助けたいと言ってくれた。それと同じように、おれもあの人を裏切れない」
澪が再び氷刃を構えた。躍る蒼炎ときんと澄んだ空気。降り積もる雪華が周囲の熱を奪っていく。彼自身が望んでいたはずの温もりさえも、一緒に連れて。
「他に侵入者がいるならまとめて生き埋めにする。でも、おれと来てくれるなら、少佐と紅葉だけは助けてもいい。少佐は水神家に帰す約束だったし、おれがいれば、あの人も紅葉をむやみに殺すことはしない」
「ドラーグドを裏切れって言いたいのか? 本部の人たちを殺して、少佐をここまで傷つけたヤツらと、オレは手を組むつもりなんて、」
「それなら、どうして“その男”を連れていた?」
氷結した地面がぱん、と割れる。振り返ると、銀盤から競り上がった氷柱が、背後にいた黒衣に迫っていた。虚を突かれた協力者が咄嗟に身をかわす。しかし、澪が狙ったのは大きな隙だ。
「……ッ!」
氷の礫が白磁の面を弾いた。晒された横顔を認識した時、喉から掠れた吐息が漏れる。覗いたのは、箔のついた頬と、憤怒を滾らせた山吹の瞳。
「なんで、アンタが」
乱れた長い髪が頭巾から滑り落ちる。渦巻いた凶風の狭間に佇んでいた存在は、過去に自分の前へ立ち塞がった鬼神――飆だった。
「脱走兵がドラーグドへ情報を流した可能性があるとは聞かされていた。でも、追われていた本人がここに来ていたとは、予想できなかった」
「だろうな。他人に顎で使われるのは癪だと思ってたが、まんまとテメェらを出し抜けたのは悪くねぇ気分だぜ」
呆然とする自分の前で、尖った言葉の応酬が交わされる。なぜ、友だったはずの彼に刃を向けられ、かつての仇敵にこの背中と牙雲の身を預けているのか。その時、過去の記憶がふと脳裏を過ぎた。
――全軍円卓会議で、自分は飆が『楼玄』に強い恨みを抱えているとは明言しなかった。自分以外に彼の怒りの矛先がどこへ向けられているかを知っていたのは、話を伝えたスマイリーと、おそらくは楼玄自身だけ。つまり、不遜な笑みを浮かべるこの仇こそが、二枚目の『切り札』だ。
「アンタの目的は、スマイリーさんと同じだったんだな」
「端から倫理を捨て置いてる狂人でもなきゃ、味方を殺した輩に交渉なんか持ちかけねぇ。ソイツが《組織》にいながら、本気で腹を決めてる野郎だと認めただけだ。それに、ヤツに関する情報を集めるなら、一人で下っ端を撒きながら吐かせるよりも、《組織》の力を使う方が手っ取り早い」
敵の敵は味方。接点のなかった彼らをつなげたのは、楼玄に対する強い憎悪だ。
スマイリーは『楼玄の討伐』を旗印として、飆と共同戦線を張る計画をしていたのだろう。彼は無差別襲撃事件の調査をしていた亜久斗に命じ、飆との接触を図った。そして、戦場における唯一の不確定要素だった彼と、手を組むことに成功したのだ。
しかし、自軍の兵を殺した大罪人を一時的にでも懐へ入れる決断は、相応の負担を伴う。この計画が他の耳に入っていたとしたら、スマイリー自身の立場が危うくなるだろう。
「そうか。スマイリーさんはみんなを納得させるために、この人員で作救出戦を進めさせたんだ」
彼が牙雲の救出に切り札を費やしたのは、賭けに出た覚悟の現れだ。交渉の要であり、戦力でもある飆の立場を活かすには、その存在を楼玄に意識させ続けなければならない。そして、敵の思惑を潰しつつ、飆の存在を一時的にでも受け入れるには、やはり大義を生み出す必要があった。
かつての英雄という強大な存在へ立ち向かうためには、自らも毒を呑まなければならない。それを理解していたスマイリーもまた、暗き復讐の道を歩んでいる。
「長と争えるほどの力があれば、きっと歓迎されるのに。あの人はあなたの帰りを待っているはず。それでもまだ泥船に乗り続けるの?」
「己で舵を切れねぇ生き方なんて反吐が出る。呼び立てされなくとも、こっちからその面を殴りに行ってやるよ」
「それなら確実に始末する」
「組織の犬ごときに邪魔はさせねぇぞ」
ごう、と背中から烈風が吹きつけた。そこに含まれた激しい憤怒が、表皮を破って突き刺さる。ぎらぎらとした山吹の眼光が、身をすくめた自分を睨み据えた。
「くだらねぇ話はもう終わりだ。知った顔に手を下すのが嫌なら引っ込んでろ」
「澪を殺すつもりなのか? そうしたら逃げ道が、」
「俺がどうやってココを出たと思ってやがる」
「……それなら、なおさらアンタを戦わせたくない」
「このガキが、好き放題言ってんじゃ、」
「アンタの目的は楼玄を殺すことなんだろ? 本気で復讐したいなら、すぐにこの部屋から出て退路を確保するべきだ。アンタが死んだら誰も助からない。オレが澪を抑えてる間に、少佐を連れて逃げてくれ」
飆の表情がさらに険しくなった。だが、無言の威圧には退かなかった。牙雲の身柄さえ引き渡せば、彼はドラーグドに対して義理を果たせる。ならば、救える命をつなぐための選択をすべきだ。
「こんな状況じゃなかったらアンタに頼み事なんてしない。ただ、アンタの強さはオレも知ってる。だから、」
「――出口が凍結してやがる。まずは俺がこのトカゲを抱えて蹴破れる厚さまで氷を薄くしろ。話はそれからだ」
真空刃が牙雲の拘束具を断ち切る。凶風が吹きつける冷気を払った。仇を完全に信じ切ったわけではない。だが、これは互いが最も望む結末を引き寄せるための共闘だ。腹は決まった。刃を向ける友を前に、紅葉は鱗の生えた拳を握り締めた。




