-答え合わせ-
「あれが、楼玄……?」
容貌を覆うのは、複雑な文様が描かれた異形の仮面だ。存在を感知した刹那。ばん、と大きな破裂音を伴う気弾が、佇む影に叩きつけられた。
「死ねッ!!」
急速に拡散した殺気が肌を刺す。次の瞬間には、床を蹴った協力者が相手に肉薄していた。空を切る靴先が人影を捉える。しかし、狙い澄ました一撃は硬質な腕に弾き返された。
「はっ、そう簡単にゃいかねぇか」
翻った裾から即座に追撃の気弾が連射される。張り詰めた魔力が床を抉った。立ち昇る煙に紛れ、協力者が死角から異形の面を強襲する。
「――!」
硝子の割れる音が連続した。気流を纏った彼の動きは、亜久斗にも引けをとらない速度だ。それでも攻撃が通っていない。
「一人でなんて無茶ですよ! あれが楼玄だったら、」
「だったら何だって言うんだ? 邪魔するならテメェから殺すぞ」
肌で感じたのは痛み、いや、それよりも鮮烈な憤怒だった。血の香を巻き上げた風に身を竦ませていると、協力者が大きく前へ踏み込んだ。
「俺はその首を落としに来たんだよッ!」
憤怒の咆哮が轟く。追い風が広い背へ吹きつける。腕の一振りから、嵐を凝縮した魔力が異形の仮面に放たれた。着弾地点で暴れ回ったそれが、張られていた透明な障壁に亀裂を刻む。しかし。
「クソが、」
悪態をついた協力者が横へ跳ぼうとした。だが、既に薄氷がその足を捕らえている。
「燃えろ!」
吹き荒れる気流と氷杭が白霧に飛び交う中で、紅葉は炎熱を走らせた。床を這う紅蓮が辛うじて氷を溶かし切る。協力者が退避した直後、その場が一瞬で氷柱の先端に埋め尽くされた。息を呑んでいると、白く煙る視界の奥で、異形の仮面が自分を見据えていた。
「――どうして来たの」
溢れた吐息が震えたのは、冷気のせいではない。
「……澪、なのか?」
聞き馴染んだ声に、紅葉は白磁の面を投げ捨てた。霧の漂う狭間で濡れた床を一歩ずつ進む。それに応じた黒衣の裾が、ゆっくりと自分へ歩み寄ろうとする。
「ッ!?」
たん、と軽い爪音と共に、頸部を狙った氷刃が前を薙ぎ払った。咄嗟に身をかわすも、着ていた黒衣の肩口が破られる。
「澪、やめてくれッ! オレは戦うつもりなんて、」
「このバカ! さっきの話をもう忘れたのかッ」
怒号と共に身体が突き飛ばされる。今度は自分を狙った氷杭が気弾で弾かれた。壁へ深く突き刺さったそれに血の気が引いていく。その時、間に入った協力者がわずかに息を呑んだ。仮面の奥にある双眸が、ぎらりと蒼い焔を宿す。
「ッ、やめろ――!」
自分の叫びを掻き消すように、目の前が蒼く染まった。絶対零度の焔が襲い来る。焼けるような肺の痛みが一瞬。
「ちっ、やっぱり“ハズレ”を掴まされたか」
聴覚を支配していた風音が止む。吐き出された悪態と同時に、防壁となっていた乱気流が白く霧散した。
「あの人を探しているのなら、諦めた方がいい。おれは《内通者》を始末するために、残っていただけだから」
剥がされた異形の仮面を踏みしだくと、黒染めの軍服を纏った刺客――澪が、鎌のように弧を描いた氷刃へ指先を添える。彼は楼玄のふりをしてこちらの目を欺いていたのだろう。だが、淡々と語る姿には妙な安堵を覚えた。
「一度だけ、アイツと話す機会をくれるって言いましたよね」
呆れた溜息と共に、制止を諦めた掌が肩から滑り落ちた。向かい合う相手の表情は、凍結した世界そのものだ。それでも、群青の双眸だけは確かに自分を捉えていた。
「澪、ここで会えて良かった。オレ、預かりっぱなしだった物を返しにきたんだ」
「……何のこと?」
「お前の姉ちゃんの形見だよ」
歪な銀盤で佇む友を前に、紅葉は懐から藍の房を取り出す。澪は動かなかった。近くで剥き出しの殺意を放つ協力者を警戒しているのもあるだろう。だが、しばらくして、彼が構えていた腕の刃を下ろす。
「それは、おれがやってきたことを知った上で言ってるの?」
「ドラーグドで起きた話は色んな人から聞いた。でも、オレの中では、まだぜんぶ夢みたいなんだ。自分で見ても聞いてもないことは信じられない。だから、直接話したかった」
「それでも人質がここでされたことは理解したはず。おれが、それを止めなかったことも」
「オレはお前が悪いヤツじゃないって知ってる。でなきゃ、オレの宝物を返しに来るはずがない。なあ、今までのことは、楼玄に命じられて仕方なくやっただけなんだろ?」
「……紅葉、きみは本当に馬鹿だね。これまでやってきたことは、全ておれの“意思”だ」
ぽつりと溢れた本音。紅葉はそれに首を横に振った。
「澪、お前は楼玄に利用されてるだけだ! だってアイツがお前の姉ちゃんにしたことは、」
「――全て知っている。ドラーグドでその足取りを見た時に、誰が彼女を殺したのかを理解した。あの人と別れる前に、答え合わせもしている」
「ッ、だったら、どうして……!」
仇の計画へ加担する理由を、彼は淡々と口にした。
「あの人は、おれがこの世で一番望んでいたものを与えてくれたから」
* * *
外界から断絶された無機質な室内には、血潮の香りが充満していた。既に屍同然の人質を見て、楼玄が深い溜息をつく。
「彼も憐れなものだね。本来ならば救えるはずの命だったのに、今はそれさえ争いの道具に成り果てている。悲しきことだ」
それは素直な彼の想いだったのだろう。ただ、傍観者然とした語り口に聞こえたのは、手を下すのが彼自身ではなかったからだ。
「この施設を出られる前に、一つだけ聞いてもいいですか」
「構わないよ」
穏やかな声が自分に応じた。それでも懐へ埋めた手がずっと震えている。幾重にも折り畳んで、縮れてしまった一枚の経歴書を開くことに、途方もない時間がかかった気がした。
「……彼女に見覚えは?」
「さあ、見たことがないな」
「本当にありませんか」
「――ここに来る敵の兵は、そうそう“綺麗な”顔などしていないだろう?」
ぞく、と背筋に悪寒が走る。ドラーグドで手に入れた証拠を見せても、相手は変わらぬ笑みを浮かべたままだった。それをきっかけに、ずっと見ないふりをしてきた感情の火種が内側で燻り出す。
「なぜ、彼女を、おれの姉を殺したのですか……!」
「この女は我々の機密を盗み出し、ドラーグドへ持ち帰ろうとしていた。逆の立場なら、良からぬ企てを考える鼠を見逃す道理などないだろう」
「ッ、」
「しかし、最も悲劇的なのは、偶然にも彼女がお前と深く関わりのある者だったという事実だ。その女がお前と同じ孤児院の出身であり、お前が彼女に可愛がられていたという話は後から知った。拷問の間も彼女は懇願していたようだからね。『あの場にいた弟は関係ない、何も知らない、だから殺さないでくれ』と」
「……それなのに、あなたは……!」
空々しく響く言葉に、大きな情緒の起伏を覚える。臓腑が脈打つ。ひどく動悸がしていた。これまで血の通っていなかった場所にまで、煮えたぎる熱が回る。しかし。
「ああ、澪。そんな顔をしないでくれ。お前を傷つけたくなかったから、これまで黙っていたんだ。それについてはすまなかった。誰よりも悪いのは、全てを隠し通せなかった僕だ」
差し出された掌を前に、澪は拳を握り締めた。耳鳴りの中で、持つべきではない理性が首をもたげる。
「だが、これだけは伝えておく。あの時、僕に縋りついてきたお前を救いたかったのは、本心からだ」
楼玄の慈悲に救われたのは事実だ。そして、彼の傍に立つのは自分以外でも良かった。だが、彼は自分を選んだ。それは価値のないモノ(おれ)が、世界に望まれているのだと示してくれたのに他ならない。
「……ですが、結果として、おれは仇がいる組織に加担することになりました。あの選択の時に今の事実を知っていれば、」
「――知っていれば、お前は僕の手を取らなかったかい?」
嗚呼、本当に。本当にこの人は、優しくて、残酷だ。
「いいえ。たとえそれを知ったとしても、おれは同じ道を歩んでいました。彼女を、姉さんを殺したのはこの『戦争』なのですから」
姉の死に関わったこの男から命じられた行いは、ひどく己の精神を摩耗させてきた。だが、無力でいれば、自分自身が次の犠牲者となるだけだ。そして、こうして真実を知ることができたのは、全てを犠牲にして手に入れた力があったからだ。
「どうやら再教育は不要だったようだね。さあ、おいで」
頑なだった腕を引かれる。彼がどんな表情でいるのかを知りたくなかった。それでも、そっと肩へ触れる慈悲の掌を、どうして拒むことができるだろうか。
「彼女の出自やお前との関わりを聞いた時は、僕も心苦しかった。澪、お前を迎える時に与えた贈り物を覚えているかい」
「あなたが与えてくれたのは、炎を操る力でした」
「そうだ。お前のために残しておいたこの力が適合したことに、僕は心からの喜びを感じたよ。もう二度と悲しい別れをしないで済むよう、きっと彼女の《核》が応えてくれたのだろう」
消えた温もりが恋しくて。少しでも近付きたいと、仮初の炎に手を伸ばした。ただ、結局この手に掴んだのは、冷え切った心が具現化したものだけ。それでも――
「あなたがくれたこの力は、おれがこの世で一番望んでいたものです」
これは嘘ではない。でも、きっと、本音でもない。慰めの抱擁を受け入れる。その人は、今もまだ冷たい身体のままだった。




