-最悪の選択-
* * *
周囲の壁は岩肌から無機質な鋼に変わっていた。電灯の色は仄白く、消えかけそうな薄暗さだ。入り組んだ長い廊下の先で、重厚な扉が待ち構えていた。反響する靴音が二つ。異様なまでの静寂で、呼吸すら耳障りに思える。
「さっきからうろちょろしやがって。ビビってんのか」
「澪を探してるだけです」
「使える手下ならココに残してねぇだろ。仮にいたとしても、俺らを誘き寄せたら後で、あの野郎とトンズラするつもりだったと考えるのが自然だ。それだと俺は骨折り損だが」
「まさか、楼玄自身に用があるってことですか」
「……先に俺が入る」
ぱたりと靴音が止まる。気付けば突き当たりにあったはずの扉が目の前にそびえていた。錠前はあるが、鍵はかかっていない。
「誰も、いないっスね」
協力者がゆっくりと扉を押し開ける。がらんとした室内で、奥の部屋から伸びた一筋の光芒が中央の円卓を照らしている。辺りを探りながら進んでいると、不意に洋灯の炎が揺れた。
「どうしたんですか」
「あのカマ野郎との交渉材料を拾っただけだ」
「ちょっと! 隠さなくてもいいのに」
「……もしも探してた人質がこの場で生きてんなら、そいつは幸運だ。だが、死んでいたとしても、ある意味では幸運だろうな」
天板に散乱していた資料に描かれていたのは、黒い椅子のような装置だ。しかし、覗き込む前に協力者がそれを懐へ押し込んだ。黒衣の背がそのまま壁際へと向かう。よく見れば、そこには壁と同化した色の暗幕がかかっていた。首を傾げていると、協力者がおもむろに口を開く。
「《実験》だなんて体のいい言葉を使ってやがるが、この先にあるのは特殊な拷問部屋だ。他にも、魔力や《ゲノム・グレース》とやらを埋め込まれた被験体を格納する空間がある。そして、もう一つが――ココだ」
「……ッ!」
前触れもなしに暗幕が引かれた。篝火に浮かんだのは、一面に血飛沫がこびりついた硝子面だ。後ずさった自分とは反対に、薄ら暗い空間へ目を凝らした協力者が先を続ける。
「この処分室には、失敗作になった被験体が送り込まれてくる。単体なら毒殺か銃殺が多い。だが、複数体いるならソイツらをこの部屋に閉じ込めて、互いが死ぬまで殺し合わせる」
「同じ人なのに、そんなことをさせるなんて」
「言っただろ。暴走した化け物になっちまった時点で、ソイツは“人”じゃなくなる。“物”の処分に余計な手間はかけられねぇってことだ――だが、見える範囲で生き物の気配はしないな。そうなると、残ってんのは実験室か」
暗幕を戻し、さらに奥へ向かって歩き出した彼の後を追う。わずかな光を覗かせる扉を押し開けると、人工的な強い輝きが視界を白く染めた。
暗がりから抜け出したのに、ぞわりとした冷気だけが変わらず肌の上を這う。無機質な白い壁と天井。広く開けた空間に、等間隔で置かれた異質な黒い椅子が並ぶ。武骨な造りをしたその一つの足元に、何層にも重なる血潮が溜まっていた。
「……あ、」
拒絶した視界を忘れたい記憶が上書きしていく。背反する色彩に眩暈がした。ひどく擦り切れ、血に塗れた蒼い軍服。最も死に近づいたあの日の情景が、眼前を駆け巡った。
「ッ、牙雲少佐!」
硬直が解ける。椅子へ磔にされた痩身に、紅葉は震える手を伸ばした。
「少佐っ、助けに来ました! お願いです、返事を――う、わ……、」
腕に触れた途端、ぐちゃりと生温かい質感が襲う。怯んでいる間に、協力者がどす黒くなった袖を小刀で破った。傷口を広げられ続け、防衛本能から一部の鱗が戻らずに肌を突き破って生えている状態だ。
「落ち着け、まだ息はある」
「……生きて、るんですか? それなのに、こんな状態で、置き去りにされて……!」
呆然とする自分の前で、協力者が血糊で固まった銀の髪を掻き上げた。轡が外される。水すらまともに与えられずにいたのだろう。乾き切った唇は裂け、血のこびりついたそれに新たな紅を重ねていた。
「身体的な拷問を受けたにしちゃ、鱗が出てる場所以外は傷が少ない。だとすると、限りなく最悪に近い目に遭ったのかもしれねぇ」
「ノーバディは、少佐に一体何を?」
尋ねる声が勝手に震える。しばらく黙り込んでいた相手がやっと顔を上げた。
「この椅子は人族から魔力を引っこ抜いて、別の人族へ移植するための装置だ。状況を見るに、コイツから短時間で魔力を搾り取ろうと、限界まで心身へ負荷をかけたってところだな」
青ざめた自分の横で、協力者が血溜まりから空のアンプルを拾い上げた。その中身が何だったのかは想像に難くない。
「アイツらは少佐を強制的に《覚醒》させてたのか! だから鱗が戻らなかったんだ」
「ただ、そこまで手をかけたコイツごと施設を潰すんじゃ、割に合わねぇ気もするが」
その時、病巣に侵された当主の抱いていた懸念が不意に脳裏を過ぎる。膨大な魔力を持つ彼を失えば、水神池の守り手の証となる『水移しの術』が継承できなくなる。しかし、軍に属していない彼らは、楼玄が進めてきた計画のことを知らない。その魔力だけが奪われるとは考えてもいなかったはずだ。
「ノーバディは、少佐の身柄を引き渡すという約束を形だけ守るつもりなんだと思います。でも、次期当主の少佐から魔力を抜き取って、水源の統治ができなくなったら、水神家は存続できない。ここで将校と水源を失うことになれば、軍の求心力も一気に下がります」
「ふん、手をかけた分は取り戻すって魂胆か」
狙い通りにスマイリーが出て来なければ、楼玄が次に標的にするのは資源だ。水神家が水源を守れなければ、ノーバディによる実質的な支配と同義だろう。
「なら、ヤツはまだココにいて、俺らを始末した後にコイツを運び出す準備をしてたのかもしれねぇな。だが、この傷の具合じゃ四肢がほとんど潰れてやがる。歩かせんのは無理だ」
「それならオレが背負ってでも連れて行きます。けど、ちゃんと元に戻るんですよね?」
「抜き取りや移植ができるのを見る限り、魔力を戻す方法はある。ヤツらがコイツの力を利用するつもりなら、どこかに魔力の《核》が保管してあるはずだ。ただ、仮にそれができたとしても、おそらくは“爆弾”を運び出す羽目になるぞ」
「爆弾?」
「さっき回収した資料の一番上には、魔力を移植する方法が書かれていた。だが、魔力を抜き取った上で、同じ力を移植するような無意味な真似はしない」
「少佐には別の魔力が移植されてるかもしれないってことですか。けど、何のために?」
「移植された魔力が身体に馴染まない場合、拒絶反応で本体が発狂する可能性がある。簡単に言えば、与えられた魔力に適合しない失敗作だってことだ。コイツを目覚めさせた途端に、俺らを襲わせることが目的だって線も考えられる」
「ッ!」
紅葉は爪が食い込むほどに拳を握り締めた。楼玄は意図的に牙雲を壊すつもりだったのか。最後まで抵抗した彼の意志を踏みにじり、全てを滅ぼす引き金とするために。
「運良く正気を保ったとしても、コイツの魔力や身体が完全に戻る保証はできない。常に発狂しかねない存在を抱えて動くのも非現実的だ。身も蓋もねぇ話だが、これまで持っていた全てを失ったら、コイツはどのみち壊れるだろうな」
本部襲撃の様子を聞く限り、牙雲は深手を負っていたはずだ。そして、楼玄からも水神家の存続について脅しをかけられている。その状況下で拷問を受け、仲間を守るための術が、人としての尊厳と共に失われていくのを目の当たりにしたら。心臓を握り潰されるような痛み以上のものを、彼はたった一人で耐え忍び続けていたに違いない。
「だったら、どうしろって言うんだよ」
返事の代わりに足元へ寄越されたのは、相手が持っていた小刀だった。拾い上げた柄を握り締める。協力者が導いたのは、この身に冷水を浴びせ掛けるまでの最適解だ。
「アンタの言いたいことは理解できる。たぶん少佐も、そう願うだろうと思う。だからこそ聞かせてくれよ――どうしてアンタは、“答え”を知ってるんだ?」
「時間が惜しい。できねぇなら俺がやる」
吐き出した問いへの解はなかった。だが、このやり場のない感情を相手にぶつけたところで意味がない。
顔を見せれば、自分を叱り飛ばしてくれると思っていたのに。返ってくるのは途絶えてしまいそうな呼吸ばかりで。自分に許されたのは、与えられた刃を彼の胸に突き立てるか、変わらない運命に身を任せるだけ。
「ッ、こんな終わらせ方しか、選べないなんて」
鈍く光る刃の色。乾かない血と、鉄錆の匂い。目の前にあるこの身体は、故郷の水へ帰ることも叶わないのか――
「……来やがったな」
深い憎しみを籠めた嗤いが、横にいた白磁の面から漏れ出した。その途端、ぞわりと四肢の鱗がさざめいた。遠くから床を踏みしめる音。白く塗られた扉がぎぎ、と軋んだ。床へ乗った靴先へ、長い裾がふわりと重なる。黒く染め上げられ、蒼の面影を失った人影がそこへ現れた。




