-微笑みの仮面-
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霧の隙間から差し込む斜陽が執務室を赤く染める。既に日暮れを迎えた室内に残っている者はいない。最近は自分が一番遅くまで部屋にいたのもあり、ひっそりと出発の準備を進めるには好都合だった。
牙雲が拉致されたことまでは皆にも伝わっている。しかし、詳細については誰がどう伝えても悪い方向にしかならない状況だ。そんな中で、彼を助け出す重要作戦を任された自分がしっかりしなければ――
「紅葉クン、まだここにいたんだね」
軽いノックの後で、金の癖毛を持つ上官が扉から顔を覗かせていた。
「どうしたんスか」
「キミに伝え損ねたことがあって。準備を急いでいるところに悪いけど、少し話せるかい」
近くの椅子にスマイリーが背を預けた。自分が二度とここに戻って来られないかもしれないと理解していたので、わざわざ顔を出しにきたらしい。
「キミの家族全員の保護を完了したと、時平少佐から連絡があった。それについては安心してもらっていい」
「ありがとうございます! 準備が終わったら聞きに行こうと思ってたんで」
「約束はちゃんと守るさ。ボクにできることは限られているからね」
襟元の留め具を緩めた相手が深い溜息を零す。彼が纏っている軍服は裾が擦り切れていた。血を滲ませた右袖も破れたままだ。平静を装ってはいるが、己の身に構っている暇すらなかったのだろう。
「正直、今回の作戦はキミが引き受けてくれなければ、手も足も出ない状況だった。ボクの力で牙雲少佐を救い出せず、本当にすまないと思っている」
「悪いのはノーバディじゃないですか。こうして声かけてくれるんですし、スマイリーさんが少佐のことを見捨ててないのはわかってますよ」
「はは。ときどき、ボクはキミのことが羨ましくなるよ」
薄く開かれていた眼差しが、ゆっくりと自分の顔を覗く。
「ココを襲撃されるまで、ボクはキミを内通者だと疑っていた。その命を使って楼玄を試すことまでした。それなのに、キミはボクに不信も抱かず、手を貸してくれている。何も信用できない自分がどうにも不甲斐なくて」
その横顔には薄らと頬の鱗が覗いていた。長く眠らせていた感情が、ふとした瞬間に花開くかのように。浮かんだ隈ごと目元を覆った相手が静かに告げる。
「ボクはキミにたくさんの隠し事をしている。でも、それはキミに余計な心配をさせたくないからだ。ただ、楼玄がキミにも接触してくる可能性があるから、必要なことは今のうちに伝えておこうと思う」
繕っていた笑みが解ける。楼玄と彼の間に一体何があったのか。長い沈黙の後、その唇が過去の出来事を紡いでいく。
「――あの人と会う前のボクは《出来損ない》だった。これは軍の内部で使われていた蔑称だ。主に身体的にも優れた能力を持たず、魔法も扱えない竜人がそう呼ばれていた」
参謀の彼が過去に戦闘部隊に所属していたという話は耳にしている。彼の体格は自分よりも華奢だった。鱗もそう硬い種族ではないのも見て取れる。
「けど、魔法は普通に使えますよね? あのぶっそ……いや、チャーミングな植物だって操れるし」
「鈍いのか鋭いのか、キミはよくわからないな。楼玄がやっていた《研究》の詳細は、流れで少し話したと思うんだけど」
「もしかして、スマイリーさんが今操ってる魔力は、その《研究》で付与されたものなんスか?」
はっとした顔を向ければ、相手が静かに頷いた。どうやら天音の聴覚は本当に“正しかった”らしい。聖たちと話していた時、彼は扉の外に植物たちを見張りとして置いていたのだろう。
「ボクは《研究》の初期段階で魔力を付与された、いわば『プロトタイプ』だ。当時、被験体として手を挙げた者は20名いたが、能力に適合したのは片手ほどの人数だった。ボクはその中でも想定以上の適合率を発揮してね。その成功事例として、経過観察も兼ねてあの人の部下になったのさ」
当時、戦闘部隊に所属しながらも弱い立場だったスマイリーは、居場所を探して楼玄の下についた。能力を確認するという目的で、彼も多くの活躍の場を与えられていたのだという。
「中佐まで経験したなら、戦歴だって相当な物だったんじゃないですか」
「ああ、戦場に立てば敵から強く警戒されるまでになったのは事実だ。やっと望んでいた力を得たことで、ボクの世界は変わった」
――ひとたび戦に出れば、花弁を散らすように敵の肉体を屠り、その骨身を手折る。それが心地良かった。芽生えたのは単に緑を操る力だけではなく、己でも驚くような凶暴さだった。望んだ力を使うのは愉しい。もう誰にも蔑まれない。当時浮かべていたその笑みは、まだ本物だった。
「ただ、その後から実験の成功率が上がり、《強化体》が次々と生み出されたんだ。それに比例して、作戦で要求される能力も厳しくなり、無理な出兵で死んだ者も多くいた。さらに、戦地へ投入された被験体の中でも、プロトタイプを遥かに凌ぐ能力を持つ個体も出始めてきてね。気付けば数年のうちに初期の被験体は駆逐され、生き残ったのはボクだけだった」
「……まるで物みたいな扱いじゃないですか」
「当時の上層部からしてみれば、実際にそう考えていたんだろう。でも、あの人だけは悲しんでくれたよ。我が子のようだった隊員が死ぬのは辛いから、次は必ず生き残ってくれる個体を生むんだと言っていたし」
「それでも上手くいかなくて、結果的に《内乱》を起こすしか道がなかったんスよね」
隊員を殺したくないというのなら、研究は止めるべきだった。しかし、彼はそれを止めるどころか、さらに発展させていったのだ。結果として争いの火種が大きくなったことを考えると、楼玄は成果に行き詰まっていたのだろう。
「キミの言う通り、途中から楼玄も《強化体》を作り続けたところで犠牲を増やすだけだと、ボクにこぼしていたのは事実だ。当時、あの人が望んでいたのは、《脅威》となる力量を持ちながらも、自分の思想を理解してくれる存在だった。軍の実権を握ることはあの人でも一人では難しかったから、どうしても協力者が必要だったんだ。その時、あの人は打開策として新しく《大佐》となった輝月サンを見染めた。彼は未知の属性――『重力』を扱うことができたんだ」
この世の理をもたやすく覆す絶対的な力。他の誰もが持たぬ唯一無二の《脅威》。輝月はそれを持って生まれてきた。腕の一振りで多くの軍勢を数秒で圧殺できる上、骨すらも残らない。炎や水のように実体がないために、挙動すら掴ませない圧倒的な力が軍の中で彼の地位を押し上げた。
組織の頂に君臨する者が、そうした稀有な力を持っていることは自分にも理解できる。だが、腑に落ちないのは、今の軍の窮状を見ても輝月が沈黙し続けていることだ。
「大総統のことはよく知りませんけど、ドラーグドで一番強いんですよね? だったら、どうしてスマイリーさんばっかり前に出して、何もしてくれないんですか。今回の襲撃でもその人が力を発揮してくれさえすれば、少佐や天音ちゃん、他のみんなだって無事だったかもしれないのに……!」
己の持てる力を正しく振るうことは、この世界にいる強者の責任だと思っていた。少なくとも牙雲は自分にそう示していたはずだ。だが、スマイリーは首を横に振る。
「力を使うなというのはボクの頼みだ。責めるならボクにしてくれ」
意図を理解できずに怪訝な顔を返せば、相手は糸目をすっと伏せた。




