波乱の幕開け?
「ヒュー。受けてくれないかね」
帽子を被った小太りの男は額の汗をハンカチで拭いながら、真向かいの銀髪の美しい男に頼み込んでいた。
男はヒューの名前で親しまれる劇団の花形役者だ。
本名はヒューベルト・ホルキーという貴族子息で、道楽で劇団の脚本を書いていた父の影響で劇団に入り浸り、十歳の時に団長に頼んで入団した。
貴族という身分を隠して下積みから始め十二歳で舞台に立って、十八歳からは花形役者として看板を背負い、今年二十二歳になった。
十六歳からは役者業に専念するため家を出て一人暮らしをしており、団長以外は彼が貴族であることを知らないくらいだった。
そんな彼が目の前の男――団長から聞かされた話はトンデモナイもので、内心台本を破り捨てたい衝動にかられていた。
「スラヴィナ王女殿下の主催で興行費用は殿下持ちで、劇団にもお金を回してくれる。今回は一切持ち出ししなくてよさそうな、とてもいい話なんだよ。ただ条件が一つあって、指定された三人を参加させることなのだ。お前がどうにか立ち回って、やってくれないかね」
団長は被っていた帽子を取って、玉のような汗を再度拭った。出会った頃より頭の天辺がかなり薄くなっており、ヒューベルトは彼の苦労を改めて思い知る。また団長には貴族の自身を受け入れてくれた恩義があり、断るという道は選べなかった。
「仕方ない、引き受けるしかないでしょうね。ただし、役者としてしっかり演じてもらいます。私がきっちり演技というものがどういうものが教えてあげますから」
ほほほと花形役者は高笑いをあげる。
それを聞きながら団長は、暑さのためか、はたまたこれから起こる騒動を予想してか、更に滝のように汗を流していた。
☆
「ラダ、本当に大丈夫かい?」
湯あみを終わらせて二階に上がろうとするラダに、母ガリナが不安そうに聞いてきた。
「うん。大丈夫。演技なんてできるかわからないけど、やってみる」
「ラダがやる気ならいいんだけどねぇ。父さん」
「そうだぞ。うちだって少しくらい貯めているものがあるんだ。うちの財布事情を気にすることはないからな」
「父さん。うちのお店のことで決めたわけじゃないから、大丈夫だよ。私はがやりたいから決めたの」
「そうかい?」
「それならいいけど」
昼間納得したと思っていたのだが、やはり二人はラダのことを心配してくれたようで、その優しさに彼女は嬉しくなった。
「大丈夫だって。たまには私も外に出てみようと思って」
これは彼女の正直な気持ちだった。
今まであまり人とは関わらないようにしてきたのだが、少しずつ変わらなければと思いつつあった。
(これもアレシュ様のおかげかな。前はヤルミルのようになりたくなくて人と関わるのがちょっと怖かった。でも、きっと大丈夫)
二階に上がって、そのままベッドに寝っ転がると、部屋の温度が少し下がり、ぐっと闇が濃くなる。
「闇の精霊?」
『そうじゃ。元気そうだな』
「うん。元気。あの、あの時闇で覆ってくれてありがとう。まさかケンネル様の願いを聞くなんて思わなかったけど」
『ラダ。勘違いじゃよ。あれはあくまでもワシの気まぐれだ。風もそう言っておるだろう』
「そういえば、風の精霊も同じこと言っていたね」
『そうじゃ。ワシらは気に入った人間の願いしか聞かないし、精気も奪わない。愛しい子の精気は美味だからのう』
「え、そうなの?!」
(そんなこと聞いたことがなかった!)
初めて聞くことにラダが少し驚いていると、部屋の一部が急に明るくなった。
『なんというか、爺!余計なこと言わないでください。ラダが怯えているでしょう!』
現れたのは光の精霊で、ラダは眩しさに目を閉じてしまった。
『急に現れるんじゃないわい。光。ラダの目が悪くなったらどうするんじゃ』
『あなたが消えればいい事です』
『相変わらずじゃのう。精霊界で大人しくしておればよいものを』
目を閉じたままのラダの前で二人はいつもの口喧嘩のようなやり取りをしている。
あの時、何もしない願いを呼びかけたので、光の精霊も精霊界からこちらの世界にもどってきたようだった。時折裏庭で作業をしているとラダの傍に現れ話をしてはいなくなる。たまにアレシュが目をこすりながら店に来るので、もしかして邪魔をしているのではないかと思っているのだが、ラダはまだ確認したことはない。
(今度聞いてみよう)
そんなことを考えていると、闇の精霊が先に折れたようだ。
『ワシはラダの一番の理解者だからのう。先に消えてやるわい。光を弱めて、ラダの目を刺激するのをやめるのじゃ』
『ふん!』
光の精霊が子供っぽく言い、部屋の温度が上がる。それは闇の精霊が消える合図のようなもので、ラダは別れの言葉をかけた。
「闇の精霊。またね。いつも心配してくれてありがとう」
『またのう。ラダ』
『ラダ。爺に礼なんていらないですよ』
光の精霊は相変わらずでラダは苦笑するしかなかった。
そうしてしばらくすると、光が弱まった気がしたので、ラダはゆっくりと目を開けた。
「光の精霊。どうしたの。こんな夜に?」
『あの爺が余計なことを言うから、止めにきたんです』
「余計な事?」
『あの美味とか、そういうことです』
「あの話は本当なの?」
精霊が嘘をつくわけないのが初耳だったので、ラダは思わず聞いてしまう。
『ええ、まあ』
光の精霊は聞き返されるとは思わなかったのか、ぎこちなく答えた。
「それは結構びっくりかも」
『あ、あの。ラダ。美味といってもワタシたちは精気を欲しくてたまらないと思っているわけじゃないですよ。だからあなたに願いをたずねることはほとんどないでしょう』
「確かにそうだね」
『なので安心してくださいね』
「う、うん」
今夜の闇の精霊の精気が美味という発言には驚いてしまったが、精霊たちは悪戯をしたり、話しかけたりするだけで、精気をねだったりはしない。なので、ラダは素直に頷いた。
願いの対価のラダの精気が美味といっても、精霊たちが彼女にとって大切な友人であることは変わらないのだから。彼や彼女たちはいつもラダを見守ってくれる。
「いつもありがとうね」
思わずそう口にしてしまったのだが、光の精霊は沈黙を保ったままだ。
「どうしたの?」
『いや、なんだから嬉しくなってしまいまして』
「おかしいね。でも、ごめん。眠くなってきた。話の続きは明日でいい?」
今日はいつもよりお客さんが多かった。
またケンネルの訪問のせいか、ラダはいつもより疲れていた。
欠伸をしてそう言うと、光の精霊の光がどんどん小さくなっていった。
『邪魔してしまいましたね。ラダ。おやすみなさい』
「うん。おやすみ」
ラダが答えると光は完全に消え、部屋が一気に暗くなった。
瞼はどんどん重くなって、彼女は体が欲求するまま、眠りに落ちた。




