溺れる龍
◇【桐原拓斗】◇
深夜に、目が覚めた。
肌が汗ばんでいて気持ちが悪い。
ナイトテーブルの上からリモコンを取り、ボタンを押す。
縦型のフロアライトが点く。
「……ちっ」
修学旅行の移動中、土砂崩れにバスが巻き込まれた。
あれ以来――眠りが浅い。
こうして深夜に目を覚ますのも珍しくない。
睡眠の不足した日々が続いている。
……ふざけてやがる。
睡眠不足ほど脳のパフォーマンスを下げるものはない。
厄介だ。
いつまで続く?
市販の睡眠導入剤も効きが悪い。
――舐めている。
医者に行くべきなのか……。
スマートフォンを弄る。
眠れないなら他のことをすればいい。
時間が勿体ない。
時は、有限だ。
……今の時間なら米国株式市場が開いている。
主要な監視リスト銘柄をチェック。
――この国はそう遠くない未来、沈む。
最終的には起業あたりで成功しなければ、生き残れない。
虚業ではだめだ。
それで手に入る栄誉など所詮メッキのニセモノでしかない。
投資でまず資金を作り――起業し、成功する。
「…………」
この沈没船を誰が脱出し、誰が限られた救命ボートに乗れるか。
すでにその椅子取りゲームは始まっている。
気づいているやつだけが望む暮らしを得られる国となる。
強い人間だけがまともに暮らせる――そんな国へと、変わる。
大多数の呑気にヘラヘラしているこの国の人間どもと、オレは違う。
ただ、今はまだ投資も準備運動みたいなものだ……。
起業も今はまだ、現実的ではない。
――もどかしい。
早く効率よく金を稼ぎ、人脈を使い――さらに高みへと行く。
行かざるを、えない。
しかしそれは、一足飛びに実現できるものではない。
それでも――やはり焦る。
それこそ……文化祭なんてお遊びをやっている場合ではない。
(文化祭だと?)
そんなもの、頭の弱いお花畑どものヌルい足踏み遊戯でしかない。
オレの人生の小さな糧にすら、なれない。
「……、――くそっ」
スマホを、ソファの方へ放る。
情けない放物線を描き、スマホはソファの上に落下した。
画面の情報に……集中できない。
秒ごとに数値が上がったり下がったり――鬱陶しい。
はぁ、はァ――、……。
あの日以来、呼吸が短くなることが多い。
まるで、酸素が足りないみたいに。
なんだ?
(オレの身体に……何が、起こっている?)
土砂崩れに巻き込まれた日以来、ずっとこうだ。
ずしりと何かが胃の辺りに重く溜まり続けている感覚。
圧倒的、不快感。
(この不快感の正体は……なんだ?)
桐原拓斗はベッドから離れ、水差しからグラスに水を注いだ。
ぐいっと呷り、ひと息で水を飲み干す。
「ふぅ……」
袖で口もとを拭うと、鏡に映る自分の姿が目に飛び込んでくる。
(なんて面を、してやがる……この、オレが……)
「……、――――そうか」
わかった、かもしれない。
この、不快感の正体は――、……
―― 敗 北 感 ? ――
(なんだと? このオレが……何かに負けたと、そう感じている……? ……十河か?)
……違う。
学校で文化祭の出し物を決める時、確かに十河綾香の言葉に従った。
しかし、あれは転進にすぎない。
自分は戦略的に――スマートに、大人の態度であの場をおさめただけ。
決して、撤退したわけではない。
(十河グループ会長の孫だかなんだか知らないが……そんなものはおまえの実力じゃねーだろ、十河……勘違いがいよいよ、甚だしいぜ……)
あんな小物は放っておいていい。
眼中になどない。
だから――はなから勝負にすら、なっていない。
勝負自体、元から成立していないのだ。
(十河のは、出自に恵まれただけの”ズル”でしかねーからな……相手にはならねー……)
だから、こんな敗北感を覚える理由がない。
この得体の知れぬ敗北感は――違う。
(もっと別の、何か……そう……このオレが、負けるはずのない――負けるべきではない”何か”に、負けたかのような……)
絶対に負けてはならない相手に――負けた。
虚仮にされた。
完全に、敗北した。
このくらいでなければ、こんな敗北感を自分が覚えるはずがない。
けれど――そんな経験はない。
記憶に、ない。
「く、そ……」
苦しい。
神経が、ざわざわする。
落ち着かない。
イライラする。
何よりこの正体のわからなさが――気持ち、悪い。
「…………」
桐原拓斗だぞ?
(ふざけ、やがる……)
「……晴れない」
黒い、靄が――――
▽
その日、桐原拓斗は外出した。
休日なので学校はない。
家を出る前、両親がリビングで何か話していた。
”拓斗のやつ、最近大丈夫なのか?”
”睡眠障害かも。だけど拓斗さん、病院には行きたくないって”
”あの巻き込まれた土砂崩れの影響か……”
”同級生が死んでいるんですもの……きっと、ショックだったのよ”
”おまえがちゃんと見ていないからだろう!”
”急に癇癪! そして、また私のせいにする!”
家を出る前に何か声をかけられた気がしたが、
「うるさい」
そう言い残し、そのまま家を出てきた。
(……心底、うるさい)
最近、たまに強い耳鳴りがする。
乾いた羽音のようなノイズが聞こえることもある……。
イヤホンをつけ、音楽を流す。
……集中できない。
音楽がもう、すべて荒いノイズにしか聞こえない。
乱暴にイヤホンを外し、雑にポケットにしまう。
気づけば――駅に来ていた。
今朝、鏡を見た。
目の下に隈ができていた。
最近、頭の中に断層的な隙間ができているような感じがある。
そのせいで、思考が半分くらいしか働かない。
苛立ちと焦れったさを行ったり来たりしている感覚。
落ち着かない。
頭が、重い。
(オレは、どこに向かっているんだ……)
改札を抜ける。
どこに行くつもりかもわからないのに。
――苦しい。
――酸素が、薄い。
こめかみの辺りがキュッと縮む感覚に、腹が立つ。
(ふざけてやがる……)
ずっと、消えない。
重しのごとく滞留した、この正体不明の敗北感が。
――まさか……ずっとか?
オレはずっとこの敗北感を抱えて、生きていくのか?
やはり医者に行き睡眠薬を処方してもらうべきなのか。
カウンセリングが必要だと親が言っていた。
――このオレが?
だめだ。
それは――敗北でしかない。
カウンセリングを受け、ましてや睡眠薬を必要とする生活?
桐原拓斗だぞ?
笑えない冗談も、大概にしろ……。
黄色い点字ブロックを眺める。
ブロックの模様が一瞬、何かの顔に見えた――気がした。
アナウンスがホームに流れる。
そろそろ、次の電車が来る。
――電車が来たとして、どこへ行けばいい?
ざわざわする。
耳障りな黒い不協和音が、脳内で鳴っている。
―― ブゥーン……ブゥーン…… ――
視界が赤と黒の光で明滅する。
まとわりつくそれらを払いのけるように手を動かす。
周りからは、虫がまとわりついていると思われたかもしれない。
「――ちっ」
ぼんやり、線路を眺める。
吸い込まれそうだ。
電車が――来る。
プォーンッ、という音が聞こえる。
――吸い込まれ、そうだ。
このまま吸い込まれれば……もう、楽になるのか?
オレは、解放される?
このオレが?
前へ。
一歩――前へ。
轟っ、と。
連弾めいた重々しい音や風と共に、電車が滑り込んでくる。
気づくと――左の前足が半分、点字ブロックに乗っていた。
電車が、停止する。
プシュゥ、と車体のドアが左右に開く。
しかし桐原は乗車せず、その場にとどまった。
プルルルルルッとけたたましく音が鳴り、電車が発車する。
やがて、ホームにはまた次の電車を待つ乗客がやって来る。
アナウンスが流れた。
別の線で、人身事故があったらしい。
すると、
「えーっ嘘ぉーっ!? やばくないっ!?」
アホを煮詰めたみたいな声がした。
すぐ近くに立つ、バカそうな二人組の女の声だった。
「ミカ、今アナウンス流れた事故見てたって! 飛び込み! 飛び込みとかドラマじゃん! これ、電車とめた迷惑料とかむっちゃ払うやつでしょ!?」
えっやばーいっ、と二人でスマホを覗き込んでいる。
「ミカ『現場モロ見ちゃって今日マジ無理かも』だって! やばい、ジワる!」
「このあと会って励ましてやろ~よ! ていうかさ、昨日の配信みた?」
「みた~っ! 今度のファンミ配信、楽しみ~♪ あっくん、最近マジでビジュ強すぎるし!」
「現地いけないのだるい~。ていうか最近、現地のホテル高すぎない!?」
「わかる~! やばいよね! あ、ミカから返事きた! え? 嘘マジ!? 合流したらそのままご飯行こうだって!」
「飛び込み目撃したのにもうメンタル回復してんの!? ミカ、強ぇ! ウケる~! あ、そういえばこの前言ってたコラボカフェさ――」
二人組はキャアキャア喚いている。
桐原は舌打ちを残し、ホームを離れた。
階段を下りながら、辟易と苛つきの息をつく。
――所詮、あの程度だ。
自殺しようが所詮、世の中の大多数の意識や関心などあの程度。
あっという間に、忘却される。
このオレの”死”があの程度で消費されるなど……我慢ならない。
「……くだらねぇ」
クソが。
「正気とは……とても、思えねぇ……」
―― はぁ……はぁ…… ――
息が、上がってきた……。
苦しい。
息が。
(そもそも……)
自ら死を選ぶなど――敗北以外の、なにものでもない。
桐原拓斗とは、完璧な人生を歩む定めにある存在……。
「はぁ、はぁ……」
改札を通り駅を出ると、スクランブル交差点が広がっている。
人々が、行き交っている。
海中を泳ぐ魚群みたいに。
薄い。
酸素が。
まるで、水の中にいるみたいだ。
どうしてだ?
どうしてこいつらは――平然とした顔で、歩いている?
―― はぁっ、はぁっ ――
桐原は汗ばみ、その場に片膝を突いてしまう。
耳鳴りがする。
「はぁっ――はぁっ、はぁ……ッ!」
誰かに、
”あの、大丈夫ですか……?”
そう声をかけられた気がした。
あるいはそれも、耳鳴りと同じ幻聴かもしれない。
そうだ、幻聴だ。
……苦しい。
息が、できない。
肩で息をしながら、桐原拓斗は項垂れた。
そして――アスファルトの上に、てのひらをつく。
(……このまま、だと)
「ク、ソ……、――――――――」
窒息、しそうだ。
書籍版では主にセラスとトーカのエピソードが増えることになると思います。
次話は、4/30(木)21:00頃の更新予定となります。




