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第8話 農業改革の第一歩

 この一週間、俺は浜近くを歩き回っていた。


 潮の入り方。風の通り。煙の逃げ道。薪置き場。水場。荷車の道。人目の多さ。

 足と目で確かめながら、頭の中で工房の絵を描いた。


 釜の発注は済んだ。

 だが、本格始動には一月はかかる。


 待っているだけでは足りない。


 冬になる前に、やるべきことがある。


 田だ。


――――――――――――――――――――――――


 川の仕掛けに関わっている子供たちを集めた。


 与一、太助、ほか数人。人気のない土手で、俺を囲むように座っている。


 仕掛けの話は表に出さない。


「明の書に、田の米を増やす策があった」


 子供たちは顔を見合わせた。よく分かっていない顔だ。


「米を刈ったあとの田に、冬の豆を植える。春に豆を取ったら、茎と葉を田へ戻す。そうすると、次の米が増えるかもしれん」


「ほんとか?」


「知らん」


「知らんのか」


「だから試す」


 子供たちが顔を見合わせた。面白そうだが面倒そう、という顔だ。


 そこで与一だけが言った。


「……うちの田じゃ駄目か」


 俺はすぐには頷かなかった。


「お前がやりたいなら、お前が親父を説得しろ」


「俺が?」


「そうだ」


――――――――――――――――――――――――


 与一に条件を渡した。


 そのまま親に言えるように、短く、はっきりと。


「取れた豆は、うちのものか」


「そうだ」


「全部食っていいのか」


「半分はな。残りは来年の種にする」


「若様は豆を取らんのか」


「取らん。俺が欲しいのは豆ではない。秋の米の数だ」


「失敗したら?」


「それも言え」


「怒られる」


「怒られたくないなら、やめろ」


 与一はやめるとは言わなかった。


――――――――――――――――――――――――


 子供たちが帰った後、俺は土手に一人残った。


 明の書、ということにした。


 実際には、前世の知識だ。


 マメ科の植物は土を肥やす。茎や葉を田に戻せば有機物も戻る。冬の間、田を完全に遊ばせるより、はるかにいい。

 だが、それを六つの俺が言っても通らない。だから、明の書に逃がした。


 直営の田で試すことはできる。

 だが、それでは遅い。


 役人の田で米が増えても、百姓は疑う。土が違う。水が違う。人手が違う。そう言って終わる。


 だが、隣の家の田で増えれば、話が違う。


「あの家の田で米が増えた」


 その噂は、役人の命令より早く村を走る。


 俺が欲しいのは、そら豆ではない。

 秋の米の数だ。そして、その数を見た百姓の顔だ。


――――――――――――――――――――――――


 与一は夕方、自分で父に話した。


 俺は同席しなかった。


「父ちゃん、小さい田を一つ使わせてくれ」


「何を言っとる」


「冬に豆を植える」


「田に豆だと?」


「若様が言ってた。明の書に、米を増やすやり方があるって」


「若様の遊びに田は貸せん」


「遊びじゃない。俺がやる」


「お前が?」


「溝も掘る。畝も作る」


「失敗したらどうする。米が減るぞ」


「減った分は、俺が川で魚を取って埋める」


「魚で米が埋まるか」


「全部は無理かもしれん。でも、何もしないよりはましだ」


「若様にそう言えと言われたのか」


「違う。俺がやりたい」


 弥平は黙った。


 子供の思いつきなら叱ればいい。だが、与一の顔は思いつきの顔ではなかった。


「小さい田、一つだけだ」


「いいのか」


「お前がやると言った。なら、お前が泥をかぶれ」


「うん」


「途中で投げるなよ」


「投げない」


――――――――――――――――――――――――


 翌朝、与一が走ってきた。


「若様!」


「どうした」


「父ちゃんが、小さい田ならいいって」


「そうか」


「でも、俺がやれって」


「当然だ」


「若様もお手伝いになりますか」


「俺は指示する」


「ずるうございますな」


「若様だからな」


 犬千代が後ろで頷いていた。


――――――――――――――――――――――――


 吉法師、犬千代、与一の三人で田へ向かった。


 弥平は少し離れたところに立っていた。完全には信用していない。


 田は米の収穫が終わった後だった。稲は刈られ、刈り株だけが残っている。低いところにはまだ水が溜まっていた。稲わらが束ねられて、田の端に積んである。


 風が冷たかった。


 俺は田の端から端まで歩いた。足裏で水の逃げ方を確かめる。どこが低く、どこが水が滞るか。


――――――――――――――――――――――――


「田を壊すな。冬だけ畑に近づける」


 俺は指示を出した。


「溝は浅くていい。春に田に戻せる深さだ」


「畝は高くしろ。豆は水を飲むが、水に沈むのは嫌う」


「肥料は畝だけだ。田全部に撒くな」


「豆が取れたら、茎と葉は捨てるな。田に戻す」


 与一は黙って鍬を入れた。


 最初の一掘りは、ためらいがあった。二掘り目からは、なかった。


 犬千代が黙って土を脇へ運んだ。


 誰も何も言わなかった。鍬の音と、土を踏む音だけが続いた。


――――――――――――――――――――――――


 作業の途中、太助が見に来た。


 与一が泥だらけで溝を掘っているのをしばらく眺めていた。

 それからこちらを向いた。


「若様。うちでもやりたい」


「親に言え」


「言ってくる」


 太助は走っていった。


 しばらくして戻ってきた。頬に泥がついていた。転んだのか、叩かれたのかは分からない。


「小さい田ならいいって」


 それだけで十分だった。


 試しの田は、二枚になった。


――――――――――――――――――――――――


 太助の田でも、同じように浅い溝を切り、高畝を作った。


 ただし、こちらの田は与一の田より少し低い。足を入れると、泥が重い。水の逃げ方も鈍い。


 同じ村でも、田は一枚ごとに違う。


 一枚だけでは偶然で終わる。二枚あれば比べられる。


 俺はそれを手帳に書き留めた。田の形、水の流れ、土の重さ、日当たり。


――――――――――――――――――――――――


 帰り際、弥平が声をかけてきた。


「若様」


「何だ」


「あれで米が増えると、本気でお考えで」


「分からん」


「また、それですか」


「分からんから数える」


「百姓は、腹で覚えます」


「なら、今年から数でも覚えろ」


 弥平は苦い顔をした。


 それでいい。


――――――――――――――――――――――――


 そら豆を植え終えた頃、日が傾いていた。


 与一の田。太助の田。

 どちらも、見た目は何も変わらない。浅い溝と、高い畝があるだけだ。


 だが、俺には違って見える。


 一枚では偶然。二枚なら比べられる。


 春に豆を数える。秋に米を数える。


 白塩の工房が動くまで、まだ一月ある。

 その間も、尾張は変えられる。


 魚の次は、田だ。


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