第4話 うつけの共犯者
これは、台所を仕切るお鈴の話だ。
世間は若様をうつけと呼ぶ。
廊下では家臣がそう囁き、市場では商人が笑い話にする。
あの奇妙な若君の話を、誰もが面白おかしく語る。
私は信じない。
信じなくなったのは、去年の冬のことだ。
水仕事が続いた手が、あかぎれで血を滲ませていた。
痛みより、染みる方がつらい。
米のとぎ汁。
塩水。
灰汁。
台所仕事には、手荒れの敵しかない。
七つになる娘のお千は、そんな私の手を見るたびに眉を寄せた。
まだ包丁は持たせていないが、豆を選り分けるくらいはできる。
夫が三河へ向かったきり戻らなくなってから、この手で食ってきた。
那古野の台所は、私の奉公先であり、娘を食わせるための場所でもある。
だから、手が切れようが、血が滲もうが、火は止められない。
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ある夕方、廊下を歩いていたら、若様が向こうからやってきた。
髪は跳ね、着物の裾は乱れ、片手には木の枝。
いつもの、うつけの若様だった。
若様は私の前でぴたりと止まった。
そして、私の手をじろりと見た。
「お鈴の手、ババアみたいにガサガサだぞ」
私は思わず眉を動かした。
「若様」
「そんな手で作った飯は不味そうだ。飯に血を混ぜたら打ち首にするぞ」
横にいたお千が、目を丸くした。
若様は懐から蛤の貝殻を取り出して、私に押しつけた。
二枚が合わさったまま、布で結んである。
「……何ですか、これは」
「市場で買った。貝を開けて、少し取って手に塗れ。寝る前にやれ」
「薬でございますか」
「うるさい。手が割れてると飯がまずくなる」
それだけ言って、若様はさっさと歩いていった。
お千は若様の背をしばらく見ていた。
「あんな言い方しなくてもいいのに」
私は貝殻を見下ろした。
同感だった。
ただ、若様の耳が少し赤かった気もした。
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夜、半信半疑で貝殻を開けた。
中に、乳白色の固まりが入っていた。
指で触れると、体温でじわりと溶けた。
皮膚に吸い付くような、濃厚な感触。
胡麻油に似た香りに、何か甘いものが混じっている。
私は言われた通り、寝る前に手へ塗った。
薬種屋の膏薬とは違った。
傷を塞ぐというより、手の上に薄い膜を作るような感じがした。
翌朝、指を曲げた。
昨日より、少しだけ動かしやすい。
三日目に、染みが減った。
五日目に、深いひびが塞がり始めた。
十日後には、血が滲むことがなくなっていた。
魔法ではない。
でも、確かに変わった。
お千は私の手を見て、少しだけ嬉しそうに言った。
「若様の薬、すごいね」
私は返事に迷った。
あの言い方を思い出せば、素直に褒めたくはない。
だが、手は確かに良くなっていた。
「薬は、ね」
そう答えると、お千は小さく笑った。
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手が落ち着いた頃、廊下で若様を見かけた。
「若様」
声をかけると、若様は面倒そうに振り返った。
「先日いただいた薬のおかげで、手がずいぶん良くなりました。ありがとうございます」
若様は何も言わなかった。
ただ、私の手をじっと見た。
しばらく見てから、ふいっと顔をそらす。
「飯に血が混じらぬなら、それでよい」
そう言って歩き出した。
満足そうな顔だった、と思う。
一瞬だったが、確かにそう見えた。
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中身が尽きた頃、私は市場を探した。
胡麻油の店。
薬種屋。
荒物屋。
どこにも似たものがない。
蛤の貝殻に入った乳白色の薬、と説明しても、首を振られるだけだった。
お千は、空になった貝殻を大事そうに包んでいた。
「若様なら、またくれるかな」
「そう簡単には頼めない」
「でも、母上の手、よくなったよ」
その一言で、私は若様に聞くことにした。
若様の姿を見かけた時、私は空になった貝殻を差し出した。
「若様、中身が尽きてしまいました。これはどこの市場で買えますか」
若様は貝殻を受け取った。
一瞬、目が動いた。
「不定期だから俺が買っといてやる」
「それはありがたいのですが、店はどちらの」
「不定期だ」
それだけ言って、去った。
不定期。
私はその言葉を、しばらく舌の上で転がした。
商いの品なら、店がある。
薬なら、薬種屋が知っている。
市に出るなら、誰かが見ている。
不定期とは、何だ。
お千だけは、素直に喜んでいた。
「若様、またくれるんだ」
その顔を見て、私は何も言えなくなった。
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その夜、台所に明かりが漏れていた。
誰もいないはずの刻限だ。
火の始末を忘れた者がいるのかと思い、そっと引き戸を開けた。
若様が一人、台所の隅に座っていた。
私が返した蛤の貝殻が、横に置いてある。
小さな鍋の前で、胡麻油を温めながら、蜜蝋の欠片を少しずつ溶かしていた。
混ぜる。
火から外す。
また混ぜる。
温度を確かめる。
六つの子供の手が、迷いなく動いていた。
台所で火を使う者の手だった。
思いつきで動かす手ではない。
量を測る目が、冷たいほど正確だった。
鍋の中身が少し冷めたところで、若様はそれを貝殻に静かに流し込んだ。
白濁しながら固まっていく。
あの、私が使っていたものと同じ色だ。
市場で買ったのではなかった。
最初から、若様が作っていた。
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私は引き戸をそっと閉めた。
胸の奥が、妙に冷えた。
なぜ手柄を隠すのか、分からない。
なぜ一人で夜中に台所で油を溶かしているのか、分からない。
なぜあの目をした六つの子が、うつけを演じているのか、分からない。
ただ一つだけ、分かったことがある。
この御方は、ただものではない。
翌朝、お千は空の貝殻を見て、ぽつりと言った。
「若様、変だけど悪い人じゃないね」
私は少しだけ笑った。
「変、は合ってる」
「じゃあ、悪い人じゃない?」
私は貝殻を布で包み直した。
「少なくとも、台所の手を見ている方だよ」
お千は満足そうに頷いた。
それでいい。
私にも、まだ全部は分からない。
けれど、決めたことがある。
理由は聞かない。
手柄は奪わない。
台所という場所は、私が守る。
那古野の台所は、私の居場所だ。
娘を食わせるために守ってきた場所だ。
そこを、あの若様が使おうとしている。
ならば、見届ける。
うつけの共犯者になると、決めた。




