表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/8

第1話 吉法師、動き出す

 六年、待った。赤ん坊の体で。


 俺の名は吉法師。乳母にそう呼ばれた瞬間、全部つながった。


 ここは尾張。織田弾正忠家の屋敷。


 俺は、後の織田信長だ。


 史実通りに生きれば詰む。


 それだけは、はっきりしていた。


 織田家といっても、尾張すべてをまとめる大名家ではない。


 尾張には別の織田もいる。


 家の中から、すでに面倒くさい。


 だから六年間、泣くしかできない体で観察し続けた。


 乳母の世間話。


 台所の献立。


 家臣たちの噂。


 誰が誰を嫌い、誰が誰に従っているのか。


 前世の知識を、この時代で使える形に変える準備だけをしていた。


 前世の知識があれば何でもできる、などとは思っていない。


 石鹸の作り方を知っていても、この屋敷にどんな油があるのか分からなければ意味がない。


 農業の理屈を知っていても、このあたりの田がどんな土で、誰が水を握っているのか分からなければ使えない。


 塩を白くできると知っていても、この時代の塩がどこで作られ、いくらで売られ、誰が運んでいるのかを知らなければ商売にならない。


 知識は武器になる。


 だが、振り方を間違えれば、ただの思いつきで終わる。


 そして六歳になった今、ようやく動ける体になった。


 走れる。


 人と話せる。


 物を持てる。


 ようやく、世界に手を伸ばせる。


(始めるか)


――――――――――――――――――――――――


 屋敷の廊下を、俺は走った。


 着物の裾を帯に無造作に挟み、髪は結ばずそのまま。


 片手には拾ってきた木の枝。


 もう片手には、よくわからない形の石。


 どこからどう見ても、ただの悪ガキだ。


 これが、俺の戦略だった。


 戦国時代において、賢すぎる子供は危ない。


 担ぎ上げられる。


 利用される。


 あるいは、排除される。


 史実で「うつけ」と呼ばれた織田信長の評判は、むしろ好都合だ。


 バカだと思われている間は、誰も警戒しない。


(うつけを演じる。それが最初の一手だ)


 廊下の角を曲がったところで、人とぶつかった。


「わっ」


 相手は同じくらいの背丈の子供だった。


 俺より少し細い。


 丸い目が驚きで見開かれている。


「いたたた……」


 尻餅をついた子供が俺を見上げた。


 俺も見下ろした。


 前田又左衛門利家。


 後の前田利家、犬千代だ。


 確か近習として屋敷に上がったばかりのはずだ。


「おまえ、名は」


 俺が聞くと、子供はむっとした顔で立ち上がった。


「犬千代にございます。吉法師様こそ、走ったら危のうございます」


 生意気な口をきく。


 悪くない。


「犬千代か。ちょうどいい、ついてこい」


「え、どこへ」


「市場」


「え?」


 俺はもう歩き出していた。


――――――――――――――――――――――――


 市場は屋敷から歩いて半刻ほどの場所にある。


 本来なら、若君が勝手に市場へ出るなど許されない。


 だが俺はこの数年、庭を抜け、厩を覗き、台所に入り込み、職人の仕事場まで顔を出してきた。


 叱られはした。


 だが、父は最後にこう言った。


「見るだけなら好きにせよ。ただし供はつけろ」


 父・信秀は、使えるものは何でも使う男だ。


 子供の奇行でも、何かを拾ってくるなら面白い。


 そういう目で見ている。


 つまり俺には、監視付きの自由がある。


 供の者がついてくる。


 遠巻きに、だが確実に。


 俺はそれを承知で歩いた。


 目的は二つ。


 市場の観察と、うつけの印象付けだ。


 市場に入るなり、俺は駆け出した。


「吉法師様っ」


 犬千代が慌てて追ってくる。


 供の者も慌てる。


 俺は構わず人混みをすり抜け、魚屋の前で立ち止まった。


 魚を手に取り、においを嗅ぎ、べたべたと触る。


 店の主人が苦い顔をした。


 供の一人が、すぐに店主へ頭を下げている。


 俺が触った分の魚は、あとで買い取るつもりらしい。


 すまんな。


 だが、今は見る方が先だ。


(鮮度は悪くない。屋敷まで半刻の市場にしては流通が早い。港が近いからか)


 頭の中では冷静に分析しながら、外面は完全に行儀の悪い子供だ。


 次に米屋。


 次に油屋。


 次に塩の露店。


 一つ一つ、手に取り、においを嗅ぎ、値を尋ねる。


 ここで手に入るものは、無理に自分で作る必要はない。


 大事なのは、何が足りず、何が余り、何が安く見られているかだ。


 犬千代がついてきながら、ひそひそ言った。


「あの……吉法師様、何をなさっているのですか」


「遊んでおる」


「これが遊びですか」


「そうだ」


 塩の露店で、俺は山積みになった塩をひとつまみ手に取った。


 しっとりしている。


 色も薄茶だ。


 舌に乗せると、苦みが混じる。


 にがりが残っている。


 精製が甘い。


(これは再精製できる。やり方さえ工夫すれば、別物になる)


「……なめた」


 犬千代が絶句した。


「塩だからな」


「塩だからって……」


 露店の主人も固まっている。


 俺はにっこり笑って言った。


「おじさん、少し分けてくれ」


 銭三文を握らせると、主人はまだ固まったまま、ひとつかみの塩を古い端切れに包んでくれた。


 量り方も、店ごとに違う。


 これも後で面倒になる。


――――――――――――――――――――――――


 帰り道、犬千代はずっと黙っていた。


 俺は木の枝で地面に線を引きながら歩いていた。


 何かを考えているように見えて、実際に考えていた。


 今日わかったこと。


 港に近い分、魚と塩の流通は早い。


 だが塩の品質は低い。


 精製技術が粗いまま流通している。


 油は菜種が主だが、量が少ない。


 菜の花の栽培を増やせば変わる。


 尾張には、父の言葉が届く場所と、届かない場所がある。


 同じ織田を名乗っていても、同じ家ではない。


 父の家は強い。


 だが、尾張はまだ一枚岩ではない。


 課題は山積みだ。


 だが、逆に言えば、伸びしろも山積みだ。


(尾張は悪くない。立地は特にいい。あとは仕組みを作るだけだ)


 屋敷の門が見えてきた。


 門番が俺たちを見て、盛大にため息をついた。


「吉法師様、また市場へ行かれましたか……」


「うん」


「信秀様にお叱りを受けますぞ」


「うん」


 俺は気にせず中に入った。


 叱られるのは、織田信長として想定内だ。


 むしろ、叱られるくらいでちょうどいい。


 廊下を曲がったところで、白髪の老臣とすれ違った。


 平手政秀だ。


 織田家随一の重臣で、信秀の信頼が厚い男。


「若様、市場はいかがでしたか」


「宝を探したが、見つからなかった」


「……左様でございますか」


 平手はそれ以上、聞かなかった。


 叱りもしない。


 呆れもしない。


 ただ、俺が何を宝と呼んだのかだけを覚えた。


(あの目だ)


 信秀と同じ目だ。


 うつけと決めつけていない。


 使える老臣だ、と思った。


(さて、次は川だな)


 頭の中では、もう次の手を考えていた。


――――――――――――――――――――――――


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ