第1話 吉法師、動き出す
六年、待った。赤ん坊の体で。
俺の名は吉法師。乳母にそう呼ばれた瞬間、全部つながった。
ここは尾張。織田弾正忠家の屋敷。
俺は、後の織田信長だ。
史実通りに生きれば詰む。
それだけは、はっきりしていた。
織田家といっても、尾張すべてをまとめる大名家ではない。
尾張には別の織田もいる。
家の中から、すでに面倒くさい。
だから六年間、泣くしかできない体で観察し続けた。
乳母の世間話。
台所の献立。
家臣たちの噂。
誰が誰を嫌い、誰が誰に従っているのか。
前世の知識を、この時代で使える形に変える準備だけをしていた。
前世の知識があれば何でもできる、などとは思っていない。
石鹸の作り方を知っていても、この屋敷にどんな油があるのか分からなければ意味がない。
農業の理屈を知っていても、このあたりの田がどんな土で、誰が水を握っているのか分からなければ使えない。
塩を白くできると知っていても、この時代の塩がどこで作られ、いくらで売られ、誰が運んでいるのかを知らなければ商売にならない。
知識は武器になる。
だが、振り方を間違えれば、ただの思いつきで終わる。
そして六歳になった今、ようやく動ける体になった。
走れる。
人と話せる。
物を持てる。
ようやく、世界に手を伸ばせる。
(始めるか)
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屋敷の廊下を、俺は走った。
着物の裾を帯に無造作に挟み、髪は結ばずそのまま。
片手には拾ってきた木の枝。
もう片手には、よくわからない形の石。
どこからどう見ても、ただの悪ガキだ。
これが、俺の戦略だった。
戦国時代において、賢すぎる子供は危ない。
担ぎ上げられる。
利用される。
あるいは、排除される。
史実で「うつけ」と呼ばれた織田信長の評判は、むしろ好都合だ。
バカだと思われている間は、誰も警戒しない。
(うつけを演じる。それが最初の一手だ)
廊下の角を曲がったところで、人とぶつかった。
「わっ」
相手は同じくらいの背丈の子供だった。
俺より少し細い。
丸い目が驚きで見開かれている。
「いたたた……」
尻餅をついた子供が俺を見上げた。
俺も見下ろした。
前田又左衛門利家。
後の前田利家、犬千代だ。
確か近習として屋敷に上がったばかりのはずだ。
「おまえ、名は」
俺が聞くと、子供はむっとした顔で立ち上がった。
「犬千代にございます。吉法師様こそ、走ったら危のうございます」
生意気な口をきく。
悪くない。
「犬千代か。ちょうどいい、ついてこい」
「え、どこへ」
「市場」
「え?」
俺はもう歩き出していた。
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市場は屋敷から歩いて半刻ほどの場所にある。
本来なら、若君が勝手に市場へ出るなど許されない。
だが俺はこの数年、庭を抜け、厩を覗き、台所に入り込み、職人の仕事場まで顔を出してきた。
叱られはした。
だが、父は最後にこう言った。
「見るだけなら好きにせよ。ただし供はつけろ」
父・信秀は、使えるものは何でも使う男だ。
子供の奇行でも、何かを拾ってくるなら面白い。
そういう目で見ている。
つまり俺には、監視付きの自由がある。
供の者がついてくる。
遠巻きに、だが確実に。
俺はそれを承知で歩いた。
目的は二つ。
市場の観察と、うつけの印象付けだ。
市場に入るなり、俺は駆け出した。
「吉法師様っ」
犬千代が慌てて追ってくる。
供の者も慌てる。
俺は構わず人混みをすり抜け、魚屋の前で立ち止まった。
魚を手に取り、においを嗅ぎ、べたべたと触る。
店の主人が苦い顔をした。
供の一人が、すぐに店主へ頭を下げている。
俺が触った分の魚は、あとで買い取るつもりらしい。
すまんな。
だが、今は見る方が先だ。
(鮮度は悪くない。屋敷まで半刻の市場にしては流通が早い。港が近いからか)
頭の中では冷静に分析しながら、外面は完全に行儀の悪い子供だ。
次に米屋。
次に油屋。
次に塩の露店。
一つ一つ、手に取り、においを嗅ぎ、値を尋ねる。
ここで手に入るものは、無理に自分で作る必要はない。
大事なのは、何が足りず、何が余り、何が安く見られているかだ。
犬千代がついてきながら、ひそひそ言った。
「あの……吉法師様、何をなさっているのですか」
「遊んでおる」
「これが遊びですか」
「そうだ」
塩の露店で、俺は山積みになった塩をひとつまみ手に取った。
しっとりしている。
色も薄茶だ。
舌に乗せると、苦みが混じる。
にがりが残っている。
精製が甘い。
(これは再精製できる。やり方さえ工夫すれば、別物になる)
「……なめた」
犬千代が絶句した。
「塩だからな」
「塩だからって……」
露店の主人も固まっている。
俺はにっこり笑って言った。
「おじさん、少し分けてくれ」
銭三文を握らせると、主人はまだ固まったまま、ひとつかみの塩を古い端切れに包んでくれた。
量り方も、店ごとに違う。
これも後で面倒になる。
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帰り道、犬千代はずっと黙っていた。
俺は木の枝で地面に線を引きながら歩いていた。
何かを考えているように見えて、実際に考えていた。
今日わかったこと。
港に近い分、魚と塩の流通は早い。
だが塩の品質は低い。
精製技術が粗いまま流通している。
油は菜種が主だが、量が少ない。
菜の花の栽培を増やせば変わる。
尾張には、父の言葉が届く場所と、届かない場所がある。
同じ織田を名乗っていても、同じ家ではない。
父の家は強い。
だが、尾張はまだ一枚岩ではない。
課題は山積みだ。
だが、逆に言えば、伸びしろも山積みだ。
(尾張は悪くない。立地は特にいい。あとは仕組みを作るだけだ)
屋敷の門が見えてきた。
門番が俺たちを見て、盛大にため息をついた。
「吉法師様、また市場へ行かれましたか……」
「うん」
「信秀様にお叱りを受けますぞ」
「うん」
俺は気にせず中に入った。
叱られるのは、織田信長として想定内だ。
むしろ、叱られるくらいでちょうどいい。
廊下を曲がったところで、白髪の老臣とすれ違った。
平手政秀だ。
織田家随一の重臣で、信秀の信頼が厚い男。
「若様、市場はいかがでしたか」
「宝を探したが、見つからなかった」
「……左様でございますか」
平手はそれ以上、聞かなかった。
叱りもしない。
呆れもしない。
ただ、俺が何を宝と呼んだのかだけを覚えた。
(あの目だ)
信秀と同じ目だ。
うつけと決めつけていない。
使える老臣だ、と思った。
(さて、次は川だな)
頭の中では、もう次の手を考えていた。
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