第0話_プロローグ_来世は信長になりたい?
医者の俺が言うと皮肉になるが、その部屋は、正直に言えば病気だった。
二階建て吹き抜けの書斎。
壁という壁が、天井近くまで漫画で埋まっている。上段の棚には、造り付けの梯子が据わっていた。
五千冊までは、ちゃんと数えていた。
そこから先は数えるのをやめた。
数えても、どうせ増える。
新刊が出るたびに棚の配置を見直す。巻数をそろえる。作者ごとに並べる。ジャンルごとに分ける。
そして、そのたびに梯子を使う。
そのたびに、上で読んでしまう。
毎回やっていた。
わかっていた。
やめられなかった。
「……ちょっとだけ」
今日も整理の途中で、手が止まった。
梯子の上で、ページをめくる。
手に取ったのは、超能力系のバトル漫画だった。
世界が壊れかけても、主人公は立ち上がる。
絶体絶命でも、仲間が倒れても、自分の体が限界でも、それでも最後の一撃を放つ。
いいな、と思った。
漫画の主人公はいい。
どれだけ追い詰められても、物語は終わらない。
少なくとも、まだ終わらせないという意志だけは、最後まで持っている。
そのとき、揺れた。
最初は、遠くから来た。
床が、低く、ゆっくりと動いた。
(地震か)
梯子の上で、俺は本から目を離した。
次の瞬間、揺れが大きくなった。
横だ。
棚が鳴った。
梯子が壁から離れた。
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足を踏み外した。
棚から本が降ってきた。
一冊。
二冊。
十冊。
もっと。
俺は漫画の中に埋まっていった。
息ができない。体が動かない。
冗談じゃない。まだ死ねない。
明日も仕事がある。患者がいる。読みかけの漫画もある。
こんなところで終わるわけにはいかない。
顔のすぐ近くに、一冊の漫画が落ちていた。
さっき読んでいた本ではない。
歴史ものの漫画だった。
表紙には、織田信長。
尾張のうつけ。
桶狭間。
天下布武。
本能寺。
何度も読んだ話だ。
結末も知っている。
天下統一の目前まで進みながら、最後は家臣に裏切られ、燃える寺の中で死ぬ男。
ああ、そうだ。
漫画の主人公なら、こんなところで終わらない。
どれだけ詰んでいても、そこから何かを変えようとする。
(……来世では)
意識が遠のく。
紙は重い。
漫画を何千冊も買った人間だけが知る、あまりにも馬鹿馬鹿しい真理だった。
(来世では、漫画の主人公になりたい)
それが、俺の最後の思考だった。
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次に目が覚めたとき、俺ではなく、周りが泣いていた。
視界がぼやけている。
体が、やけに小さい。
天井が見えた。
板張りの、古い天井。
裸火の光が揺れている。
俺は死んだ。
漫画に埋まって死んだ。
それは間違いない。
なのに今、誰かの腕の中にいる。
(……赤ん坊)
来世、というやつだ。
まさか本当にあるとは思っていなかった。
(漫画の主人公になりたい、とは言ったけどな)
漫画がない。
電気がない。
冷蔵庫の音も、車の音も、何もない。
これが、俺の来世らしかった。
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後から知ることになるのだが。
俺が生まれたのは、西暦一五三四年。
戦国時代の、尾張である。
漫画は一冊も存在しない。
当然、続きを買うこともできない。
そして俺の幼名は、吉法師だった。
後の織田信長である。
なるほど。
確かに、漫画の主人公みたいな人生ではある。
だが、俺は知っている。
この名を持つ男が、最後に家臣に裏切られ、燃える寺の中で死ぬことを。
つまり。
来世も、詰んでいる。
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