293日目①
安全ルートを走り抜けるのに、半日以上かかった。
途中で一度だけ、魔導車の脚を冷やすために止まった。グラニ型は大型で頑丈さが売りの魔導車だが、それにも限界がある。六本脚は湯気を出しながら熱を持っていた。
トイレ休憩も兼ねて、少しだけ止まる。そしてその後は、再びぶっ通しで魔導車にまたがった。
荷台では、エカテリーナとイネッサが何かを相談しながら、ミーシャに手をかざしていた。回復魔法を色々と趣向を変えてかけているらしい。
しかし、二人の表情は芳しくない。エカテリーナは眉間に深い皺を刻み、イネッサは唇を引き結んで首を横に振った。
ウーノは前を向いたまま、何も聞かなかった。
今は、ただ走る。
日付はとっくに変わり、しかしまだ夜明けには遠い。そんな真夜中に、ドズルイに着いた。
東のチェンストホ、西のドズルイ。冒険者の街だと聞いていたが、チェンストホよりは小さい街だ。
真夜中でほとんどの宿は受付をしていないが、遅くまで酒盛りする冒険者向けに開いている宿があり、そこに滑り込んだ。イネッサの身代金で路銀の大半は消えていたが、数日分の宿代と食費は、まだ残っている。名誉市民証で、割引も効いた。
部屋は二間続き。壁一枚で仕切られた、質素な造りだ。
エカテリーナがミーシャを奥の寝台に横たえる。その手つきは相変わらず丁寧で、壊れ物を置くような慎重さだった。
ウーノは荷物を床に置くなり、その寝台へ向かおうとした。
「ミーシャちゃん……」
足が、止まった。いや、崩れた。
昨夜は夜通しで地雷を作った。今日は戦闘の準備、その後は魔導車での強行軍で、休みなく手綱を握っていた。緊張と興奮で忘れていた疲労が、目的地に着いた途端、堰を切ったように全身に押し寄せてくる。
膝が折れた。視界がぐらりと傾き、壁に手をついた。指先が痺れている。瞼が、勝手に落ちてくる。
「ウーノ、今日は、お休みなさいまし。ミーシャは……わたくしたちが、見ていますわ」
何か言い返そうと、口を開いた。
しかし言葉は形にならず、半開きのまま。
エカテリーナの回復魔法の温かな感触に誘われ、ウーノはその場で、意識を失った。
夢すら、見なかった。
目を開けると、天井が見えた。木目の染みが、見慣れない模様を作っている。ここが何処かを思い出すのに、数秒。
ドズルイ。宿。ミーシャ。
寝起きのまどろみは一瞬で消え去り、ウーノは跳ね起きた。
「ミーシャちゃん!」
壁の向こうの部屋へ飛び出そうとして、扉を開けた。
エカテリーナがベッドに腰かけ、イネッサがソファで横になっていた。
エカテリーナが座る、そのベッドに。布に包まれた、小さな塊があった。
ウーノはそちらに歩み寄ろうとした。するとエカテリーナが立ち上がり、その前に体を入れた。
「ウーノ。先に、話がありますわ」
「……詳しい話は後だ。先に会わせてくれ」
「それは……」
エカテリーナが言い淀んだ。目を伏せ、眉を下げる。しかし、彼女はウーノの前からどこうとしなかった。
ウーノが脇を通ろうとしても、手を広げ、首を横に振る。
「エカテリーナ!」
じれったくなってウーノが叫ぶと、それで起こされたのだろう。イネッサがあくびをしながら、上体を起こした。
「ふぁーあ……見ない方がいい、ってのがアタシたちの意見さ。少なくとも、もう少し心の準備を……」
「そんな物はとっくに済んでる!一度は死んだと思ってたんだ!今更どんな姿だろうと、泣き喚いたりはしない!いいから、俺に一目でも、ミーシャちゃんに、会わせてくれ!」
耐え切れなくなって、ウーノは怒声を上げた。
戦死のことを聞いた、あの時以来。一度だってエカテリーナ相手に、堪えきれず怒りをぶつけるような、そんな無様は晒さなかった。
しかし、ずっと追い求めていた妻との再会を、焦らしに焦らされて。理性の限界だった。
荒く息を吐き、肩を怒らせるウーノを見て。エカテリーナは小さく息を吐き、横に退いた。
ウーノは寝台の横に膝をついた。
厚手の毛布に繭のようにくるまれた、小さな塊。人一人分の大きさにしては、やはり小さい。あまりにも。
ゆっくりと呼吸しながら、ウーノは毛布に手を掛けた。慎重に、毛布を剥ぐ。
最初に目に入ったのは、ガラスだった。
霞みがかった薄い青色のガラス。それが、顔を覆っている。額から顎にかけて、隙間なく。目があったはずの場所は、滑らかなガラスの面が埋めている。窪みすらない。鼻も穴がふさがれ、ガラスの隆起が輪郭を残すだけだ。青いガラスの下には、唇の赤も見当たらない。
髪も同様に、根元からガラスに変わっていた。刻印解除用に、雑に長く切ったのだろう。腰まで伸びていた黒髪は、今は肩口まで。それも、ガラスに覆われて一塊になってしまっている。
顔から下も、毛布を取り除く。
首から下。鎖骨、胸、肋骨……上半身の全てが、同じガラスに覆われている。どれほどの厚さか分からないが、皮膚は見えない。
しかし呼吸に合わせて、かすかにガラスが動いていた。膨らみ、縮む。喉元を見ると、穴が開いていた。イネッサが流動食を与えている、とも言っていた。彼女が付けた、食事兼呼吸穴なのだろうか。
そうまでしないと、生きていけない。他者の助けが無ければ、直ぐにでも死んでしまうだろう、ガラスの体。
しかし、それでも息はある、胸は静かに上下している。ガラスの殻の中に閉じ込められながらも、生きた肉体があるのだ。
毛布を完全にめくり上げる。
腕が、なかった。
両腕とも、肩の少し下で途切れている。倒れこんで割れたのか、鋭い切り口のとがった断面。
そして同様に、足もまた。
両脚とも、太腿の中腹で途切れていた。断面は腕と同じ。割れた青いガラスが、切り口を塞いでいる。
ただしかし、へその下から、太腿の中腹にかけて。そこだけが、生身の肌だった。白い、血の気の薄い肌。ガラス塗れの細い体の中で、そこだけが人間の温度を持っている。
下腹部には、パンツの代わりにモコモコとした布地。オムツだろうか。
ウーノはそっと、ガラス化した髪を撫でる。ひんやりとした無機質な手触り。
かつては柔らかだった頬に、指先を置いた。鉱物のような、固く僅かな揺れも無い感触。
指をそっと滑らせた。頬から口元に、そして首筋に。硬く、揺れない。生き物の手触りではない。
胸を伝い、へそを撫でる。そしてようやく、生身の皮膚の感触。
ほんのりとした、温かな人肌。刻まれた時と同じままの、自分のと同じ、刻印が残る下腹部。すりすりと撫でる。
まだ触覚は生きているだろうに、何の反応も無い。
つばを飲み込み、息を止める。しばらく押し黙った後、それでもウーノは、穏やかに囁いた。
「ミーシャちゃん……迎えに来たよ」
ベッドに身を乗り出して、ただの薄い青色のガラスとなった唇に、口づけをする。
「これからは、ずっと一緒だ」
優しく、丁寧に、抱き上げた。
割れた手足の断面が、服を貫いて皮膚に刺さり、血を流す。
それでもウーノは、柔らかに、だがしっかりと。冷たい妻の体を、抱きしめた。
どれだけの間、そうしていただろうか。世界に二人だけになったつもりで、ウーノはずっと、ミーシャを抱きしめていた。
ふと、抱きしめていた妻の体が、身じろいだ。
震えたのではない。もぞり、と。下半身の、生身の部分が、微かに蠢いた。
「……ぁ!今、ミーシャちゃんが、今!」
ウーノはミーシャを抱いたまま、振り返って叫ぶ。
動いた!そう伝える前に、ソファに座っていたイネッサが立ち上がった。
「ああ、そろそろ時間か」
「……時間?」
「おむつ替えだよ。こんな状態じゃ、自分のケツだって拭けやしない……」
イネッサは面倒くさそうに立ち上がり、ウーノからミーシャを引き離し、持ち上げた。危なげない、慣れた手つきだった。左腕で上体を支え、右手でおむつの端を確認する。
そのままトイレに行こうとするイネッサを、ウーノは引き留めた。
「手伝うよ。俺がやる、俺の仕事だ」
片手で廊下へのドアノブを掴んだまま、イネッサは振り返った。
探るような、疑うような、そんな目つき。嫌悪、あるいは義務感から来る我慢の歪みを見つけようとする、値踏みする視線。
ウーノはそれを、真正面から見返した。
イネッサは数秒間、黙っていた。それから視線を外し、ミーシャを抱え直した。
「……色々と、話すことがある。今はエカテリーナから話を聞いときな」
「でも……」
「それに、ケツや股を洗うのは、水の魔法が使えた方が楽なんだ。ミーシャの奴は赤ちゃんお肌だからね、デリケートに扱ってやらないとダメなのさ」
反論を待たず、イネッサはミーシャを抱えたまま、ドアを開けて、出て行った。
拳を握るウーノの隣に、エカテリーナが歩み寄った。
「ウーノ、まずは座ってくださいまし」
「……ああ、分かった」
椅子を勧められ、ウーノは腰を下ろした。エカテリーナは向かいの寝台の端に座り、膝の上で手を組んだ。
「ミーシャの体を蝕んでいるのは、禁術『狂わしい飴の穢土』の残滓ですわ」
落ち着いた、丁寧な声。悩んだり驚いたりする時間は、彼女の中では過ぎたのだろう。
今はただ、現状を受け止めて。事実を坦々と告げる声音だ。
「禁術って……回復魔法が効かない、魔法使いを確実に殺す魔法、だよね」
「ええ。正しくは、回復魔法を上回るペースで肉体を破壊し続ける魔法、ですわね。普通の魔法と違って、命中対象の魔力を吸い取って、死ぬまで魔法が発現し続けますの」
以前、イネッサから聞いた話を、少し思い出した。ミーシャが使った、『忌まわしい影の汚水』は、意思を持った黒い水が対象の体の中に侵入して、体内からズタズタにする、という説明だった。
意思がある、と言うのはつまり、命中対象の魔力を吸い上げて自律的に動くことを、指していたのだろう。
「それじゃあ、今のミーシャちゃんは、まだ禁術が……」
「そう、まだ禁術が、終わっていないんですの。狂わしい飴の穢土は、自己増殖するガラスが、対象の皮膚をガラスに変換する魔法ですわ。直撃していれば、命は無かったでしょうけど……余波だけで済んだから、まだ死なずに済んでいるんですわね」
エカテリーナはそう言って、目を伏せた。
ウーノは黙って聞いていた。拳を膝の上に置いて、動かさない。
しばらくしてから、彼は静かに問うた。
「イネッサは、ミーシャちゃんが生きる気力が無いから、治らない、とか言ってたよね」
「ええ。本来なら、魔法使い数人がかりで回復魔法をごり押せば、治せない怪我なんて、禁術の直撃だけですわ。今のミーシャのように、余波を受けただけなら、数日で治せたはずですわね。イネッサも、口が堅い捕虜仲間を集めて、回復魔法を試みたそうですわ」
「じゃあ、なんで」
「条件がありますの」
エカテリーナの声が、一段低くなった。
「……条件?」
「回復魔法は、受け手がその力を受け入れないと、効果がほとんどありませんの。つまり、本人が生きることを諦めていると、どれだけの魔法使いが回復魔法をかけても、意味が無いんですのよ」
エカテリーナは膝の上の手を、組みなおした。
ウーノは思わず、自分の左頬の傷に触れた。
エリクサーでも、傷が残った。自分が、戒めとして、消すことを拒んだから。
傷は望まないと、癒えないのだ。それが今の、ミーシャなのだろう。
「昨日、回復魔法をかけていたよね、ミーシャちゃんに。それもやっぱり、意味が無かったの?」
「ええ、荷台の中で、わたくしとイネッサで回復魔法を試みましたわ。この宿に戻ってからも。それでもやっぱり、意味がありませんでしたの。回復魔法をかけても、底の抜けたバケツに水を入れるように、すり抜けて行く……そんな感じでしたわ。今のミーシャは、おそらく……生きることを、諦めていますわ」
部屋の空気が、重くなった。窓の外で、冬の風が鳴っている。
「……まず、ミーシャちゃんに、生きたいと思ってもらわないといけない、ってことか」
ウーノが口を開いた。声はかすれていたが、震えてはいなかった。
その瞳に揺れは無く、ただ静かに、黒く澄んでいた。
そして彼は、ニィと、無理やりにでも、口角を上げた。
不器用な笑顔を見て、エカテリーナも気持ちを切り替え、微笑んだ。
「その通りですわね!あんな遺書を書いたこと、後悔するように……何としてでも、ウーノが迎えに来たと、教えてやらないといけませんわね!」
空元気でも、元気は元気。二人は笑顔を浮かべて、立ち上がった。
丁度その時、廊下の向こうから、足音が近づいてきた。
イネッサだ。おむつは替えたらしく、ミーシャの下半身には新しい布が当てられている。
寝台にミーシャを横たえながら、イネッサは言った。
「昨日、ミーシャは飯を食わされて無いんだろうね。出る物が少なかった……流動食の食材を買ってくるよ」
「俺も行く」
ウーノが立ち上がりかけた。イネッサは振り向き、碧い瞳でウーノを射抜いた。
「話は聞いたんだろ?なら、アンタの仕事は買い出しじゃない。この手間のかかる馬鹿に、アンタが来たって教える方法を考えることさ」
静かだが、有無を言わせない声だった。寝台の上のミーシャを顎で示す。
今さっきの二人のやり取りを聞いていたような、ドンピシャの言葉。ウーノは思わず笑ってしまう。
「あぁ、分かったよ。任せてくれ」
「……ケッ、やっぱりアンタ、可愛げが足りないね」
こんな状況だというのに、少しもへこたれず、笑顔を見せるウーノに。イネッサは半笑いで悪態をついて、再び外に出た。
扉が閉まった後、ウーノはしばらく立ったまま、扉を見つめていた。
「……イネッサは、ずっとあの状態のミーシャちゃんを世話してくれてたんだな」
独り言のように呟いた。
「戦争が終わってから、ずっとですわね。看護して、食事を作り、下の世話をして……ミーシャのこと、友達じゃないって、ずっと否定してましたわね。その割には、彼女、随分と面倒見が良いですわね。まったく、素直じゃありませんこと」
エカテリーナは小さく笑い、そして残りの資金や未換金の宝飾品を、確認し始めた。
ウーノは寝台に歩み寄り、ミーシャの傍に座った。
ガラスに覆われた頭を、撫でた。
冷たく、硬い。無機質な手触り。髪の毛だった部分が、指の下でかすかに軋む。大きな束になった、ガラスの髪が、ザラザラとこすれる。
生身の肌が残る、臍の辺りに手を移す。そっと、掌を当てた。温かい。人の体温。この部分だけが、ミーシャが生きているのだと教えてくれる。
指先で、文字を書いてみた。
『ウーノ』
反応がない。
『ここにいるよ』
反応がない。
「……生身のところは、触覚は無事なんだよね」
書類を仕分けていたエカテリーナに問いかけた。
「そのはずですわ。ただ、目も耳も聞こえないせいか、それとも他の箇所がガラス化したせいか、刺激への反応が薄いんですのよ。イネッサ曰く、流動食を与えるときくらいしか、反応が無いそうですわ」
「それか、トイレが近いときくらい、か……」
体の中の触覚、あるいは生理反応は無事と言うことだろうか。
ウーノは再び、臍の辺りに指を置いた。ゆっくりと、何度も撫でた。
反応は、ない。
三十分ほどして、イネッサが戻ってきた。片手に麻袋、もう片方の手にすり鉢を持っている。
「宿の女将から借りてきたのさ……ちょいと場所借りるね」
テーブルの上に麻袋の中身を広げる。根菜、乾燥した豆、何かの粉。イネッサはすり鉢に材料を入れ、すりこ木でゴリゴリと潰し始めた。
オムツのとき同様、手慣れた動作だ。何度もやってきた作業なのだろう。力の入れ方、混ぜる順番、水を足すタイミング、一切の迷いがない。
「どうやって作るんだ?」
ウーノが覗き込もうとすると、イネッサはすりこ木を振って追い払った。
「シッシ。集中させな」
先ほどと言い、自分がミーシャの世話に関わろうとすると、邪険にされる。
世話好きと言うか、何というか。追い出されたウーノは、ミーシャの傍に戻った。
考える。目が見えない、耳が聞こえない、声も出せない。皮膚の大部分がガラスに覆われて、触覚も遮断されている。
残されているのは、臍から太腿にかけての生身の肌。
しかし指で文字を書いても反応がないのだ。食べ物を流し込むときだけは、反応するようだが……それを使って、何を伝えられるだろう?
指文字もだめ、食べ物で何か伝えるにも、流動食じゃないと危ない。
刻印のある下腹部を、ゆっくりと撫でながら色々と考えていたところで、イネッサの流動食が完成した。
ミーシャの喉に空いた穴に、水と風の魔法で少量ずつ流し込む。
表情はずっと面倒くさそうなのだが、ウーノが腰を浮かせると舌打ちが飛ぶ。
そうして流動食を与え終えると、彼女は布巾で喉元の穴の周りを拭い、汚れた布をまとめた。
一連の作業は、靴紐を結ぶのと同じくらい、彼女にとっては当たり前の動作なのだろう。
すり鉢を水魔法で洗い棚に置くと、イネッサはソファにどかりと腰を下ろした。足を組み、背もたれに体を預ける。
「明日から、おむつの替え方と飯の作り方、体の拭き方を教えてやる。覚えな」
唐突な提案に、ウーノは面食らった。
今まで手伝おうとすると邪険にされたのに、どういう風の吹き回しだろうか?
「……それはありがたいけど、ならさっきは何で手伝わせてくれなかったんだ?」
「アタシは職人気質でね、横やりを入れられるのが嫌いなのさ。まあでも、アタシがこれ以上、アイツの世話をする義理も無い。アンタの旦那だ、これからは自分で世話しな。まっ、引継ぎとして、やり方くらいは教えてやるさ」
どこか皮肉気に目を細めて。イネッサは椅子のひじ掛けに頬杖をついた。
「ああ、分かった」
「あーあ、清々するよ。こんな泣き虫に助けられるなんて、女の恥さ。その借りがあったから、アタシはこの馬鹿を世話してきたんだ。捕虜収容所で、1か月近くもさ。飯を作って、ケツを拭いて、体を洗って、寝返りを打たせて……で、色々あったけどここまで運んで、アンタに引き渡した。これで帳尻は合ったろ?後はアンタの責任さ、ウーノ。念願叶って妻に会えて、嬉しいだろう?ええ?」
値踏みするように、イネッサはウーノを見つめた。先ほど、おむつ替えを手伝うと申し出た時と、同様に。
飯を作り、ケツを拭き、体を洗う。人形のように反応のない体を、毎日。その大変さを想像して、少しでも顔を引きつらせては居ないかと。
しかし、返ってきた反応は予想と違った。
「ああ、もちろんさ。やっと、ミーシャちゃんに、何かしてあげられるんだ。おむつも、飯も、体の拭き方も、必要なことは全部覚える。だから、イネッサ、今までミーシャちゃんをありがとう。君の言うとおり、これからは俺の責任で、ちゃんと看護を、やって行くさ」
ウーノの目が、輝いていた。
疲労で隈が浮き、手綱が擦れた掌は赤く腫れているのに、目だけが爛々(らんらん)としている。声に迷いが無い。それどころか、前のめりで、熱に浮かされたかのように、高揚に頬を赤らめていた。
おむつを替える、排泄物を拭く、流動食を作って喉の穴に流し込む。ガラスに覆われた体を、割らないように慎重に拭く。
そのひとつひとつを、この男は、喜んでいる。
イネッサは口を半開きにしたまま、何も言わなかった。気の利いた悪態の一つでも返してくるかと思っていたウーノは、その沈黙に首をかしげた。
しばらくして、やっと彼女は絞り出すように声を零した。
「……アンタ、分かってんのかい?」
声のトーンが、少し変わった。皮肉の棘が引っ込んで、純粋な困惑が覗いていた。
「うん?何を?」
「おむつ替えって、要するにウンコの世話さ。しかも、ミーシャは何の反応もしない。返事もしない。感謝もしない。毎日毎日同じことを繰り返して、何も返ってこない。それを……」
イネッサが最後まで言い切る前に、ウーノは口を開いた。
「夫婦は、対等であるべき。それが俺の理想の関係なんだ。ミーシャちゃんは、俺と、俺との間に出来る子供のために、戦場に行ったんだ。大変な役割を、全部ミーシャちゃんに背負わせた結果が、今の状況だ。それなら、俺が世話をするのが当然だろう?むしろ嬉しいくらいだ。やっと、ミーシャちゃんに、俺が何かしてあげられるんだから」
笑顔だった。無理やりではない、自然な笑顔。
横で静かにしていたエカテリーナは、目を潤ませていた。
イネッサは、ウーノの顔をしばらく見つめた。
それから、ふいと目を逸らした。鼻を鳴らして、足を組み替える。
「……けっ。義務感だけで、どこまで持つかね」
「あら、ウーノのは義務感なんかじゃありませんわよ。愛、これは愛ですわよ」
独り言のつもりの呟きに答えられて、イネッサは面倒くさそうな顔をした。
どいつもこいつも、分かってない。瞬間的な苦痛は耐えられても、長く続く終わりの無い苦役が、どれほど人の心をすり減らすか。
しかし、今ここでそれを指摘しても、無駄だろう。
疲れた顔をしたら、盛大に皮肉ってやろうと、心の中の苛立ちに見切りをつけて。イネッサは実務的な話題に切り替えた。
「……ま、いいさ。教えるからには、アタシのやり方でやってもらう。手を抜いたり雑にやったら、男だからって容赦せずぶん殴るよ。散々手間かけて生かしてやったのに……まぁ、一度は売ったけどね。それでも引き渡した途端にダメにされたんじゃ、アタシの1か月が無駄になるだろ」
ミーシャへの気遣いに聞こえなくもないが、要はアタシの仕事にミソをつけるな、という意味だろう。
イネッサはミーシャを思いやるようなことを言って、ウーノを睨んだ。
「もちろんだ。と言うか、明日からと言わず今日からでも……」
「いいや、ダメだ。今日はもう寝な。男のアンタにゃ、昨日の強行軍の疲れは一回寝たぐらいじゃ取れないはずだよ。そんなんで世話されたら、余計な怪我をさせるだけさ」
有無を言わせない口調だった。宿屋の娘として、客や使用人を仕切ってきた声だ。
エカテリーナが、静かに口を添えた。
「ウーノ、イネッサの言う通りですわ。ミーシャの傍にいるのは、わたくしたちが代わりますわ。貴方は休んでくださいまし」
「……分かった。それじゃあ、二人ともおやすみ。ミーシャちゃん、明日から俺が、君のお世話をするからね」
名残惜しそうに、ウーノはもう一度ミーシャのガラスの額に触れた。冷たい、硬い感触。
返事は無い。ガラスの殻の中で、ミーシャはただ、静かに息をしていた。
しかしそれを悲しむでも無く、ウーノは軽い足取りで、隣の部屋に移った。
女だけになった空間で、イネッサはソファに深く沈み込み、天井を見上げた。
「……なぁ、雷女帝サマよぉ」
「今更ですけど、その呼び方は控えてくださいまし。誰かに聞かれたら騒ぎになりますわよ。まあそれはそれとして、何ですの?」
「いつまで続くかね、あの笑顔」
呟くように言った。感傷ではないし、嗤いでもない。
賭け事の倍率を計算するような、冷えた声だった。
エカテリーナは少しだけ間を置いて、静かに答えた。
「……彼は、わたくしの知る限り、絶対に諦めませんわね」
「へえ。見物だね」
イネッサはそれだけ言って、ソファに寝転がった。毛布を引き寄せ、背中を向ける。
見物だ。
親の介護は、終わりがある。自分より、ずっと早く死ぬ。
子供の世話も、終わりがある。だんだんと手がかからず、楽になって行く。
しかし、四肢を失い、目も耳も、声すら失った、自分より若い当分死なない妻を。
いったいどれだけの間、面倒を見られるのか。
……まあ、いいさ。すぐ分かる。
イネッサは目を閉じた。
壁一枚、向こう。すぐそこに、ミーシャがいる。
同じ宿の、隣の部屋。手を伸ばせば届く距離に、妻がいる。
あの家で一人、手紙を待っていた夜とは違う。国境を越え、戦場を走り抜けた先に、ちゃんと辿り着いた。
その事実だけで、ウーノはとても満たされた気持ちになっていた。
今は、生きる希望を失っているらしい。でもいつか、伝え続ければ。自分はここにいる、愛してると、寄り添い続ければ。
想いは届く。
ウーノは無邪気に、そう考えていた。
おむつを替えて、飯を作って、体を拭いて。
大変だろうけど、少しも嫌では無い。
瞼が重い。意識が遠のく。体は限界をとっくに超えている。
それでも口元が緩むのを、止められなかった。
笑ったまま、ウーノは泥のように眠った。




