↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新婚6日目、ミーシャは戦場に行った~貞操逆転世界で出征した妻のために夫のすべきこと~  作者: つゆたま
魔境編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
93/102

291日目①

 昨日のうちに、監獄に到着するはずだった。

 にも拘らず、1日遅れた。


 道中で例の『助手』と呼ばれていた中年男性——ビウクニツ、シュチェンでも姿を見せ、氷象に搭乗し最後には自決した彼——の滞在拠点だったと思われる場所を、偶然発見したからだ。


 先を急ぐ気持ちはある。1日の遅れが、ミーシャの命に関わるかもしれない。

 しかし、蒸発委員会が何か企んでいるのは事実。放置するわけにもいかない。


 ウーノは涙を呑んで、調査に時間を割くことに同意した。


 あらかじめ破棄を予定していたのだろう、資料の大半は焼却されていた。しかし、一部、焼け残りがあった。

 廃棄のしやすさより頑丈さを選ぶあたり、重要だが他者に露見しても構わない内容なのだろうか。あるいは、単に急いでいて確認が甘かったか。


 資料の解析は後回しにして、とにかく家探しだけを行い、その日は終わった。




 そして翌朝。

 陽が昇る直前に、ウーノは目を覚ました。


 隣を見る。エカテリーナは、寝る寸前まで書類の解読に勤しんでいたのだろう。枕元に紙束が散らばっている。

 スーラフ語と、もう一つ見慣れない言語……ヘンリクから渡されかけた知恵の実の、流れ水の民の古い言葉、サクリド語と思われる言語で書かれた文書だった。


 散らばった紙を片付けていると、先にエカテリーナが目を覚ました。


「おはようですわ、ウーノ。早いですわね」


「おはよう……書類、何か分かった?」


 エカテリーナは眉をひそめ、焼け残った紙を手に取った。


「断片的ですけれど……魔導戦車と魔法使いについての研究、のようですわね。ウーノがスーラフ語を読めれば、もう少し判断できそうなのですけれど」


「そっか。俺はポツカ語とラシスカ語しか、分かんないからなぁ」


「仕方ありませんわね。それと、もう一つ気になる記述がありましたの」


 エカテリーナは別の紙を示した。


「スーラフから蒸発委員会に、西端の海沿いの一部地域を恒久的に譲渡する、とありますわ」


「西端の海沿い……」


 スーラフの西端で海沿い。元の世界で言えば、ポルトガルだろうか。


「流れ水の民の国を作る気ですかしら」


 エカテリーナの推論に、ウーノはあぁなるほどと頷いた。

 蒸発委員会は、流れ水の民が中心の組織だ。旅をする文化を持つその民族は、特定の国家を持たない。

 しかしその各国を渡り歩き、知恵の実と言う外国語学習アイテムを生産できる彼女ら彼らは、ラシスカでは政府のプロパガンダの影響もあって、最近では寄生虫と迫害されていた。他国でも似たような現象が起きても、不思議では無い。自分たちの国を持とうとするのは、十分理解できる。


「魔導戦車技術に秀でたスーラフに戦争協力をして、端っこに土地を貰って建国、か。ありえそうな話だね」


「色々と想像しがいのある陰謀ですわね、蒸発委員会という秘密結社は。まっ、詳しい解析は、後ですわ。ほら、ブランシェ。朝ですわよ」


 エカテリーナはブランシェの枕を揺らす。しかし彼女は起きない。『長い塹壕暮らしのおかげで、寝ずの番を立てずとも異常があれば飛び起きる』と豪語していたが、一体それはどこに行ったのだろう。

 しかしエカテリーナが金髪を弾かせ、左手に巨大な雷球を作り始めると、ブランシェは飛び起きた。


「殺気っ!?って、なんだエカテリーナかぁ。おっはー」


 軽い調子の彼女を小突きつつ、一行は朝食を手早く済ませ、最後の行程を歩き始めた。


 数時間後、森を抜け、視界が開けた。

 切り立った崖が眼前にそびえている。断崖絶壁に沿うように、崖下に灰色の要塞が張り付いていた。


「……あれが、監獄」


 周囲を囲む堀と塀。等間隔に配置された見張り塔。崖の上を見上げれば、そちらにも見張り塔がある。

 魔物を寄せ付けず、囚人を逃がさない。そのために設計された、陰鬱な建造物だった。


「監獄来るの、ひっさしぶりー。あ、守衛室兼窓口はあそこ。監獄には外部の魔法使い、同時に1人までしか入場できない規則だから、あーしもあそこで待ってるよん」


 ブランシェが指さした先、監獄の堀の外側に、トーチカのような小型のドームが建っていた。


「分かりましたわ。さて、それでは……」


 敵意が無いと伝えるため、3人でゆっくりと守衛室兼窓口だというドームへと歩いて行く。

 ある程度近づくと、風に乗った女性のがなり声が聞こえて来た。


「止まれ!何用だ!」


「仲間を迎えに、参りましたわ!一人分の身代金がここに!」


 エカテリーナが大声で応じる。

 しばらくして、トーチカから武装した守衛の女性が出て来た。ブランシェは冒険者のランク章を見せ、エカテリーナもウーノと二人分の、シュチェンの名誉市民の証書を見せた。ラシスカ外交官の肩書より、ポツカ人には受けが良いだろう。


 それを確認した守衛は慌ててトーチカに戻って行く。少しして、監獄側から跳ね橋が下りてきた。守衛がどうぞどうぞとジェスチャーをする。通って良いそうだ。


 手を振るブランシェと別れ、魔導車を預け、ウーノとエカテリーナは橋を渡った。

 石造りの門の頭上にはポツカ語で、『誠実な労働は早期釈放への道』と標語が掲げられていた。この監獄が終身刑囚や死刑囚専用、今は戦争捕虜も収容している監獄だと知っているウーノは、その欺瞞的な標語に少しゾッとする。


 門をくぐり、内部に足を踏み入れる。続く廊下はどこかかび臭い空気が漂い、壁には魔導具の明かりが点々と灯っているが、それでも陰鬱な雰囲気は拭えない。


 伝声管か風の魔法で声を伝えたか、廊下の先の曲がり角、案内役の看守が迎えてくれた。彼女に連れられて、ウーノとエカテリーナは先へと進む。


 ここはまだ、事務作業などをする区画なのだろう。途中すれ違う人々は皆、看守の制服を着ており、牢屋のような部屋は見受けられない。

 そうして歩く中、説明されながら待合室へと向かう途中、明るい声が聞こえてきた。職員の家族だろうか、男性や子供も交じって、大部屋の中で何かに興じていた。どうやら輪投げと双六を合わせたような、ポツカではメジャーな遊びをしているらしい。


「……また奴か!お二人、しばしお待ちください。おい、イネッサ!またお前はそうやって!」


 看守はエカテリーナとウーノに短く、ここで待ってろと告げると、大部屋の中に肩を怒らせ入って行く。

 一方で置き去りにされたウーノの脳裏に、ある女性の姿が思い起こされた。いや、同名の別人か……?


「今、イネッサって……?」


 呟きを拾ったエカテリーナが、首をかしげる。そう言えば、聞いたことがあるような……彼女もまた、記憶を探るようにあごに手を当てていた。


「おいおい、スザンナさんよぉ!そう堅苦しいこと言うなって!アンタも、アタシが傷心中だって知ってんだろ?ずっと面倒見て来たペットが、連れてかれたんだからねぇ」


 しかしその、どこか人を食ったような話し方と声の調子は、記憶の中にあるままだった。ウーノは思わず叫んだ。


「イネッサ!」


「おやおや、どこからかアタシを呼ぶ男の声が聞こえるね。へへっ、モテる女は辛いよ。はいはい、どなた……っ!?」


 ミーシャと同じ、流れ水の民特有の黒髪碧眼。背中まである髪を後ろで一つに結んだ、自信に満ちた表情のスタイルの良い女性。

 囚人服を着ながら、若い少年と肩を組み鼻の下を伸ばし、シャバの人々と遊戯を楽しんでいたイネッサは、ウーノを見ると目を見開いた。


「あぁ、生きてたのか、君は!まさかこんな所で会うなんて!」


 ミーシャの古い友達……と言うより腐れ縁のイネッサ。街に滞在する時、ウーノはしばしば虎の王城を利用していたし、妻の昔の話を聞きたくて、しばしば彼女とも会話をした。出征時にはばったり居合わせ、ポツカ語の知恵の実を譲り受けもした。

 ただの知り合い、と呼ぶには縁の深い女性との再会に、ウーノは喜びの声を上げた。


「あ、あぁ……ウー、ノ……久し、ぶり、だねぇ……元気、かい?」


「まあ、何とかね!いや、本当に驚いたよ、無事でよかった!ああそうだ、それよりイネッサ、ミーシャ……」


 どこか歯切れの悪い、目の泳いでいるイネッサ。しかしウーノは、再会の驚きでそれに気が付かなかった。

 畳みかけるようにしゃべりかけ、そして本題を思い出し最愛の妻の名を出そうとしたところで、イネッサはウーノに飛びついた。


「ああ、助けに来てくれるなんて!アタシは良い夫を持ったよ!……話を合わせな、ミーシャ目当てだろう?……わざわざポツカまで!」


 瞬時にエカテリーナが動こうとするが、イネッサは小声を風に乗せて、彼女を押しとどめた。戸惑うウーノも、とりあえず大人しく受け入れる。

 イネッサは深く強く、親密そうにボディタッチをする。しかしウーノの刻印が発動しないように肌には決して触れず。まるで感動の再会を喜ぶ夫婦のように、振る舞った。


「あ、あぁ……そう、だね?」


「いやはや、もう二度と浮気なんかしないよ、アンタ!へへ、そう言うわけでよ、スザンナぁ。悪いが、家族団欒、させてくんないかねぇ?ああ、夫の付き添いですかい、そちらの女性は?へへ、ウチのウーノがどうも……そう睨むなよ、肌は触っちゃいない……あぁ、みんな、悪いがアタシはちょっくら、夫婦水入らずさせてもらうよ。スザンナ、個室借りてくよぉ」


 プルプルと拳を震わせるエカテリーナに、イネッサはささやき声を届け。スザンナと言う看守に馴れ馴れしい態度を取って、彼女の腰から鍵を拝借する。スザンナは嫌そうな顔をするが、囚人の蛮行を黙って見過ごした。イネッサと遊んでいた子供や男性らも、それを当然のように受け入れて、また後でと言って遊戯に戻る。


「……イネッサ。あぁ、虎の王城の……とんだ曲者ですわね」


 エカテリーナは少し遅れて、イネッサと言う名前を思い出した。

 ミーシャが良く利用した宿『虎の王城』の娘で、貞淑な淫紋を刻む後押しをしたとか。

 自身もウーノへ手紙を届けるとき宿を利用したが、その時は『一人娘が帰ってこない』と宿の女将が嘆いていたが……どうやら捕虜の収容所内で、男を侍らせ看守を骨抜きにして、楽しくやっていたらしい。


 一番長い付き合いの同性だというのに、ミーシャが頑なに『友達』とは言わなかった理由が、少し分かる。エカテリーナはミーシャとの雑談を思い出し、ため息をつきつつ、ウーノの肩を押すイネッサの後を歩いた。



 慣れた手つきで鍵束を操り、イネッサは廊下の端の個室を開けた。


「座りな。長旅で疲れてんだろう?」


 彼女は二人に席を勧めつつ、自身は一番大きなソファにドンと腰かけた。

 ウーノはソワソワしつつ、エカテリーナは呆れ半分警戒半分で、対面のソファに腰かける。


「それで、ミーシャちゃんは?先に解放された捕虜の人の話だと、収容されているって噂だけど、姿を見たことが無いって」


 尻が座面につく前から話し始めるウーノ。それを見て、イネッサは僅かに唇の端を歪めた。


「マジで、ラシスカのあの田舎の村から、ミーシャを買いに遥々(はるばる)来たってのかい」


「ああ、そうとも。ちゃんと資金も用意して来た」


 ウーノはエカテリーナが持つ鞄に視線を向けた。金の交換手形がびっしりと詰まった鞄。ミーシャの身代金として、貯蓄を切り崩し、色々な人から借りて来た。


 イネッサは飄々(ひょうひょう)とした態度のまま、エカテリーナに視線を向けた。


「それで、アンタは?ウーノの愛人兼お守役かい?」


「戦友、ですわよ。ウーノの、そしてミーシャの」


 イネッサは足を組み、背もたれに深く体を預けた。


「戦友、ねぇ……アタシはイネッサ。こいつの、まあ知り合いで。ミーシャの腐れ縁さ」


「聞き及んでますわよ、ミーシャから。わたくしはエカテリーナ……雷女帝、と名乗った方が、通りが良いかしら」


 イネッサの目が一瞬見開かれた。しかしすぐに、口元に笑みを浮かべる。


「へっ、随分と大物のお出ましだぁ……あの泣き虫ミーシャが、かの雷女帝サマの戦友とはねぇ。世の中、分からないもんだ」


「それで、ミーシャはどこに居ますの?あんまりはぐらかされると、切れてしまいますわよ。ウーノが」


 エカテリーナの声には、僅かに苛立ちが滲んでいた。

 ウーノは確かに、ソワソワと落ち着かない様子だった。膝の上で拳を握り、視線はイネッサの顔から離れない。今にも立ち上がりそうな、そんな危うさがあった。


 それを見て、イネッサは大げさに肩をすくめた。どこか小馬鹿にしたような態度。


「ウーノ、アンタ、マジでミーシャを助けに来たんだね」


 しかしその言葉は、少し早口だった。


「当たり前だろう」


 イネッサは天井を見上げる。表情は見えないが、しかしその声は少しかすれているように思えた。


「そりゃまた……それほどの価値があるかね、アイツに。終戦直前の戦場で本人に聞いたよ。そちらのエカテリーナ・サンに、お前を譲ったって」


 ウーノの眉が跳ねた。


「会ったのか、戦場で」


 ブランシェの話だと、禁術を体の周りに展開させる、自爆めいた方法を使って敵陣に突撃したらしい。その直前だろうか、会話したのは。


「ああ、『私じゃ幸せに出来ないからー』って。『刻印を消す髪も預けました』てさ。ミーシャの奴、半ベソかきながら言ってたよ。『エカテリーナさんなら、ウーノさんを幸せに出来ますから』って」


 小馬鹿にしたように、ミーシャの声真似をするイネッサ。しかし、彼女は身振りまで交えて大仰に演じた割に、その顔に笑顔は無かった。


「……ああ、知ってる」


「で?その髪、どうしたんだい。使ったのかい?」


 イネッサの目が、ウーノとエカテリーナの間を行き来する。

 もうヤッたのかい?そんな視線だ。


「燃やした」


「……はぁ!?燃やしたって……そしたら、二度と他の女と……!」


 どこか下卑げびた意味深な視線を向けていた、余裕ぶった態度が、一瞬で吹き飛ぶ。

 目を見開くイネッサに、ウーノは普段通りの声音で返事をする。


「それで良いんだよ。ミーシャちゃんを救えないなら、一生、彼女に操を立てて生きる。ミーシャちゃんは、俺のため、いつか生まれる俺との子供のため、戦争に行ったんだ。それで彼女が死んで、俺だけ他の女に乗り換える?」


「……」


 イネッサは押し黙る。茶々を入れる気力もないのか。ウーノは短く、強く、言った。


「出来るわけない」


 沈黙が落ちた。

 イネッサは口を開きかけ、閉じ、また開いた。その顔には、困惑、そして別の何かの感情が、入り混じっていた。

 どうにかして、いつもの調子を取り戻そうと、小さく鼻で笑う。


「ヘンッ、良いじゃないか、乗り換えたら。確かにアイツは、顔は悪くなかったけどさ。そっちの雷女帝様の方が、胸もでかいし、稼ぎもあるだろう。アイツが譲るくらいだ、愛人とかめかけじゃなく、ちゃんと第一夫として扱ってくれるんだろう?ラシスカの英雌の夫。その名誉ったら、どれだけの男が欲しがるか。分かってんのかい、アンタ」


 イネッサはエカテリーナを指差した。

 エカテリーナは、ただ静かに、ウーノに視線を向ける。彼は真っ直ぐイネッサを見据えていた。


「俺が欲しいのは、名誉でも金でもない。愛する妻の身柄、それだけだ」


 ウーノは言った、言ってやった、言い切った。


 イネッサはただ口をパクパクと動かして、言葉が出てこない。

 彼女は視線を逸らし、天井を仰ぎ、それから大きく息を吐いた。


「……はぁ」


 何かを諦めたような、疲れたような、そんな吐息だった。

 イネッサは今度はエカテリーナに向き直った。相変わらずの、からかうような半笑い。しかし、口角が上がり切ってない。


「良いのかい、アンタ」


「何がですの」


「さっき、アタシがウーノに抱きついた時。随分と色っぽい顔したじゃないか」


 エカテリーナの眉がピクリと動いた。


「……あら、そうでしたかしら」


「とぼけんなよ、ありゃメスの嫉妬だ。アンタだって、コイツを欲しいと思ってんだろう?ああ確かに、肩を抱いただけでも、良い体してんなって思ったよ。奪えばよかったじゃないか。力ずくでも何でも。なのになんで、ノコノコここまでついて来てんのさ」


 挑発的な言葉。しかしその声には、純粋な疑問がにじんでいた。


 エカテリーナは一瞬、目を閉じた。

 かつて、タチアナにも同じことを問われた。あの時は、自分でも分からなかった。迷いがあった。


 でも、今は違う。目を開く。迷いのない、澄んだ瞳。


「わたくしがウーノを憎からず思っているのは、事実ですわ。でも、真に愛しているのは、ウーノとミーシャ、二人の関係ですの」


 かつてラシスカの首都のホテルで涙を流した後のように。その瞳は、音もなく揺らめく朝日に照らされる霧のような、悠々たる光が宿っていた。


「……は?」


「わたくしが惚れたのは、ミーシャを愛しているウーノですもの。そして、ウーノを愛しているミーシャも、同じように好んでますの。二人の関係性そのものを、わたくしは愛してるんですわ」


 迷いのない回答。

 一片の曇りもない、晴れやかな声。


「……ちっ!なんだよ、それ!アタシには、さっぱり分かんないね!」


 イネッサは舌打ちをして悪態をつく。今までの余裕ある態度はすっかり消えて無くなり、苛立たし気に髪をきむしっていた。


「イネッサ、一体何があったんだ。教えてくれ」


 声を低くして尋ねるウーノ。イネッサはギリギリと歯ぎしりをしながら、噛み潰すような、唸るような声で答えた。


「……死んだよ。あぁ、死んだんだ!アイツのことはもう忘れな!」


 ウーノはとっさに上着をまくり上げた。そこにあるのは、刻まれた時のままの姿の、黒々とした貞淑な淫紋。


「刻印は黒いままだ!ミーシャちゃんは生きてる!まだ生きてるんだ!イネッサ!何があった!言え、言うんだ!」


 その手があったか。イネッサは苦々しそうに顔を歪めた。

 ウーノは詰め寄り、彼女の肩を激しく揺する。


 一拍置いて、イネッサはウーノの手を叩き落し、立ち上がって吠えた。


「売ったんだよ!ミーシャを、スーラフに!つい昨日、ここを出た!あぁ、クソが!」


 彼女は自分が座っていたソファを、強く蹴飛ばした。ソファの足は衝撃に耐えきれず、ボキッと折れる。


 ズンッ!


 ソファが床に落ち、鈍い音がする。埃が舞った。

 ウーノはただじっと、イネッサを見つめる。女は男の眼差しに耐え切れず、視線を横に逸らした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。