276日目②
日付が変わる直前、ウーノはぱちりと目を開けた。
「眠いのに寝れない……」
小さく呟いた彼は、膝上の本に目をやった。
そこにはガマニア語を勉強するための本が広げられていた。
日中、エカテリーナに譲られ窓際の席に座って外を眺めていたが、情報化社会の現代っ子のウーノには刺激が乏しく。暇を持て余した結果、エカテリーナのように他の言語も喋れるようになろうかと、勉強することにしたのだ。
幸い、ガマニア語も堪能なエカテリーナが付きっきりで教えてくれるので、単純な日常会話程度なら、多少は話せる程度になった。
昼間はそれで暇つぶしができたものの、夜になると問題が起きたのだ。
寝れないのだ。
塹壕生活の長かったらしいエカテリーナは、どんな姿勢でも寝れるらしい。すぐにぐっすり寝息が聞こえて来た。
しかし現代っ子で夜行列車は今回が初めてのウーノは、リクライニングの無いこの客車の席で、ちゃんと寝ることができなかった。昨晩も早めに寝て、十分に睡眠をとったのもあり、疲れに任せて寝ることもできない。
どうしても寝れない彼は、固まった体をほぐすがてら、トイレに行ってついでに夜風を浴びてくることにした。
エカテリーナを起こさないよう、そっと彼女の膝上を跨ぐ。しかし寝ながらでも周囲への警戒をしていたのか、エカテリーナは目をこすりながら薄目を開けた。
「んむぅ……ウーノ……どこへ行くんですの……」
「ああ、ごめん。ちょっとトイレに……」
「危ないですわよ……付いて行きますわ」
「大丈夫だよ、これくらい」
「ダメ、ですわ……」
眠り眼をこすりながら、ウーノの手を握って引き留めたエカテリーナは立ちあがった。
戦友と言いつつも、やはり過保護……とも言えないか。夜の列車の中、男一人で歩くのは。
ウーノは眠そうにうつらうつらする彼女を支え、客車の後方のトイレに向かった。
眠そうにするエカテリーナの背を壁に預けさせて、ウーノはトイレに入った。
シーっと勢いよく用を足して魔導具で手を洗う。そして外に出ると、顔を真っ赤にしたエカテリーナが指で耳栓をしていた。
「……何してんの?」
「へ!?き、聞こえませんわよ!?聞いてませんわよ!?あ、わたくしもトイレ、しときますわ。ウーノは聞いても良いですわよ?」
「聞くって……何を……?」
ウーノはしばらく何のことだか分からなかったが、エカテリーナがトイレに入って聞こえて来た小さな水音で、意味を察した。
しかし、扉に耳を付けでもしなければ、客車の走行音にかき消されてほとんど聞こえないだろう。ウーノはそっとその場から離れると、すっかり雑音に紛れてなにも聞こえなくなった。
しばらくして、エカテリーナが出てくる。彼女の頬はまだ赤かった。
「ど、どうでしたかしら!?」
「あー、うん。全然聞こえないよ。ほら、車輪の音とか軋む音に混ざって、何も」
というか、耳を扉に押し付けなければ、いくら耳が良くても水音ははっきり聞こえないのでは?まさか……ウーノの考えがそこに及ぶ前に、エカテリーナはウーノの手を取った。
「そ、そうですの?それは残ね……コホン、ともかく、戻りますわよ」
「ああ、先に戻ってて。少し夜風に当たりたくて」
「あら、そうですの?お供しますわ」
「いや、良いよ。眠いでしょ?」
「さっきので目が覚めましたわ。それに、危ないって言ってるじゃありませんの」
やっぱり聞いてたんじゃ?しかしウーノは、突っ込まなかった。
彼も、女っけゼロの男子校時代、道を踏み外すことは無かったが、悶悶とした夜もある。貞操逆転世界の女性の欲求に、理解があるのだ。
ウーノは生暖かい目でエカテリーナを見つつ、二人は連れだってトイレより後方、客車同士の連結通路に出た。
現代の電車のように、覆いで囲われていることは無い。小さな踊り場と、鎖の手すりだけが頼りの連絡足場があるだけだ。
客車から出ると、風を切る音と走行音がより騒々しく聞こえてくる。
痛いくらいの騒音に眉を顰めていると、ふと柔らかな風が吹き、音が止んだ。見れば、エカテリーナが何か魔導具を取り出していた。
「消音の魔導具ですの。風で音を遮断してくれますのよ」
ウーノは流れる景色を横目に、暖房で火照った体を撫でる夜風に目を細めた。彼が手すりに肘をつくと、同じようにエカテリーナが横に肘をつく。二人は並んで肩を寄せ合いながら、しばらくじっと風を感じていた。
何でもないような、静かな時間。一人でミーシャを待っていたころは、ほとんど毎日がそんな時間だったのに、最近は目まぐるしい日々が続いている。
そのことが可笑しくなって、ウーノは小さく笑いながら口を開いた。
「こうして落ち着いて話せるの、久しぶりだね。客車の中だと、周囲の目を気にして話しづらいし……色々あったね。ラシスカにいるときは、ナジンカさんに会ったり、資金調達に奔走したり。それから国境を越えて、大使館で色々あって……ああ、エカテリーナと出会ってから、まだ2週間も経ってないのか。毎日が濃すぎて、もっとずっと一緒に居たような気がするよ」
ミーシャとの6日間も濃密な日々だったが、それと勝るとも劣らない忙しなさだ。
「オホホ、確かに実際に会ったのは、最近のことですのね……でも、わたくしは、ウーノのこと、もっと前から知ってますのよ?」
「ああ、手紙、君も読んでたんだっけ?はは、最初ミーシャちゃんから、同じ魔法使い兵の人に読まれてるって聞いた時は、驚いたよ。あ、そう言えば、俺が送ったヌード写真、見ちゃったんだっけ?はは、持ってきてくれた手紙に、書いてあったよね」
揶揄うようにエカテリーナの方を見れば、彼女は頬を再び染めてプイっとそっぽを向いた。
「別に、ただの裸だったら……ウーノのだから、脳裏にこびり付いちゃったんですのよ!」
「俺のだから?はは、でもエカテリーナだったら、男の裸なんて見放題じゃない?モテるでしょ?一緒に歩いてるとき、いつもエカテリーナの方に周りの視線が向いてるしさ。俺がもっとイケメンだと良かったんだけど」
ウーノの言葉に、エカテリーナは眉間を抑えた。
自身の容姿をしきりに卑下するウーノに、彼女は単に鏡をよく見ていないだけだと思っていたのだが……もしかして、プレイガールに見られていたのだろうか?
「……前々から思ってましたけど、ウーノ何か勘違いしてますわよね、わたくしのこと。わたくし純愛過激派の修道騎士ですのよ?純潔処女じゃないとダメですのよ?恋愛経験も男性経験も、ありませんわよ。わたくしが刻印刻んだ時にも、言いましたわよね?どのみち処女でなければならないし、と」
てっきりウーノは、そう言うの建前で実際は……と考えていた。以前の世界でも、禁欲を是とする宗教家の生臭さエピソードは有名であった。
何よりエカテリーナの距離感の近さが、男慣れしているという誤解を生んでいた。
「いや、ごめん。てっきり俺に気を遣わせないための方便かと……ほら、わざわざ聞くのもデリカシーが無いしさ。え、あの、本当に……処女なの?」
女性の方が性欲が強い世界で。容姿にも体形にも恵まれた、武勇の轟く強者女性エカテリーナ。そんな彼女が交際経験ないわけないだろうと、ウーノは決めつけていた。距離感も最初から近いし、男慣れしているのかな、と。
男性の体、もといウーノの裸体への免疫の無さから察してしかるべきだったが、ウーノは完全に誤解していた。
しばらくの沈黙の後、エカテリーナは恋人の作った料理が不味かった時のような、そんな笑顔を作ろうとして失敗したような表情をした。
「……わたくし、どう反応すればいいんですの?純愛への忠誠とアモリア様への信仰を馬鹿にされたと、怒るべきですの?それともウーノのような素敵な殿方からモテモテと思われていたことを、誇るべきですの?泣きゃいいんですの?笑えばいいんですの?」
「わ、悪かったよ……ごめん。うん、ごめんなさい」
久しぶりの、落ち着いて語らえる静かな夜。そんな一時はすっかり微妙な空気になってしまった。
エカテリーナは手すりを押して、その場でくるりとターンした。今度は手すりに背中から寄りかかるようにして、海老ぞりになって空を見上げる。
「はぁ~……ともかく、そういう訳ですの。わたくし処女の乙女ですの。だから、ウーノと一緒に歩いていると、いつもドキドキしてますのよ。横を歩いて気後れするの、むしろわたくしの方ですから、気が引けるとか釣り合わないとか、言わないでくださいましね、二度と」
「はい」
メッ、と指を立てるエカテリーナに、真面目な顔で頷くウーノ。二人は顔を見合わせてしばらく、吹き出して笑った。
2週間、それは長いようで短いのだろう。お互いにすっかり気心が知れた関係のつもりになっていたが、まだまだ勘違いしてること、知らないことがあるのかもしれない。
それは裏を返せば、お互いがもっと親密になれるということ。それはウーノにも、そして特にエカテリーナにとって、うれしい誤算だった。
「オッホホホ……さあ、そろそろ戻りますわよ。夜風は冷えますもの、また風邪をひいてしまいますわ」
「ははは、ああ、そうだね。また看病されたら、それこそ申し訳なくなって、気が引けるから」
二人は笑いながら手を取り合って、客車の中に戻ろうとした。
「ウーノ、ミーシャのことは……」
ふと聞こえた、エカテリーナの呟きと、一瞬の寂しげな横顔。聞き返す間もなく、魔導具のスイッチを切ったことで再開した、騒音の嵐に流されていった。
翌朝。周囲から聞こえるあくびや伸びをする物音につられて、ウーノとエカテリーナは目が覚めた。
一度体を冷やしたのがよかったのか、温かい車内に眠気を誘われて、ウーノは問題なく眠ることができた。
二人は伸びをしつつ、買っていた朝食用の弁当を食べながら、今日の予定を話し合った。
「んっく。到着は、夕方だっけ?結構かかるね」
「はふはふ、途中の都市にも、むしゃ、よふらひい、ん、寄るらしいですわね」
相変わらず食べながらしゃべるエカテリーナに苦笑しつつ、昨日から学んでいるガマニア語の本に目を落とした。
読み書きはともかく、挨拶くらいならできそうだ。
「Guten Morgen、Hallo、Guten Abend……」
ウーノが朝食を食べ終えるなり発音チェックをし始めたのを見て、エカテリーナも朝食を飲み込んで本を覗き込んだ。
「ごっく……ふう。勉強熱心ですわね。今日もガマニア語の勉強の続き、しますの?」
「ああ、そうだね……あ、ちょっと待って!そうだそうだ、今まで気になってたけど、詳しい人が身近にいなくてさ……この、世界地図なんだけど。ラシスカの東はまだ森が未開拓って聞くけど……南には森が無いはずなのに、誰の領土でも無いんだよね。これって何か理由があるの?」
車内販売で購入した新聞に載っている世界地図を指さして尋ねた。ラシスカ帝国は、元の世界で言うスカンジナビア半島からロシア北部を領土としている。南のウクライナがある地域やコーカサス地方、カザフスタンの辺りは、黒く塗られているのだ。
歴史ストラテジー物の知識として、その辺りは平野や湿地、砂漠になっていると知っていた。パラレルワールドのこの世界でも、ラシスカ帝国の南方は森が少ない。
にも拘らず、なぜかこの地域は、誰も領有権を主張していない無主の土地なのだ。
「ああ、それは確か……大昔に3種の強大な魔物が争ったせいで、土地が汚染されているからですの。確か……確か塩の殻をもつカタツムリ、パンチャジャナ。下半身が炎になった虎、ドゥン。そして錆びた鉄で覆われたクモ、ウルナナーバ。これらの強大な魔物が大怪獣バトルをしたせいで、ラシスカ南方の平野は、ぺんぺん草一本生えない、死の大地になってしまいましたの。その癖に共倒れした3匹の魔物の肉を喰らった魔物も強力な力を得たせいで、近づくのも危険ですのよ」
エカテリーナは得意げに説明した。やはり男に自分の知っている知識を教えるのが、快感なのだろうか。そのおかげで、気軽に質問できるのだが。
それはさておき、魔物の名を上げる中で、彼女はカスピ海、アラル海、そして黒海を順に指さした。この世界での名前は違うが、位置やサイズはウーノの知識と一致している。
「へぇ……強大な魔物って、湖に住むの?そう言えば、ジャガーノートも湖を拠点にしてたんだっけ?」
ジャガーノートがいたとされるのは、元の世界でいう所のラドガ湖だ。
「あら、ウーノ知らなかったんですの?魔物は水が貯まっているところに、多いとされてますのよ。森にも水が貯まる場所が多いから、魔物が増えやすいと言われていますわ。ただ、歴史に名を遺す強大な魔物は、湖や、あるいは雪として水が貯まっている山脈を、根城にしてますわね。水が沢山あってずっと溜まるのが影響しているのでは、と聞いたことがありますわ」
「へぇー、水が貯まっている場所は、そんな危険があるのか……あれ?ここって湖なの?海と繋がってない?」
ウーノはふと思い立って、黒海を指さした。ここは地中海につながっているはずである。
「あら?いえ、細いですけど、確かに湖として、陸地で覆われていたはずですわよ」
今まで川の位置や山の位置までほとんど一致していたのに、ここだけ異なるポイントらしい。誰かが人為的に、手を加えたのだろうか?その結果、海の一部が湖となり、強大な魔物が誕生することに繋がった?
「ふーん……不思議だ……それにしても、水と魔物にそんな関係があるなんて知らなかったよ。そういえばジャガーノートも、地下水路の中でも水が貯められてるところに、隠されてたね。最初はてっきり、目隠しと保管の意味だけかと思ったけど……何か関係、あるかもね」
「あら、新しい視点ですわね。確かに、模造品でも何かしら関係がありますのかしら……あっ、見えてきましたわよ!」
会話をしつつ、ちらりと見えた外の景色。長い長い、ワスフ川が太陽に照らされて、輝いて見えた。




