273日目⑤
案内された資料室の書架は、その多くの棚は空白のままで、棚の隙間からは向こう側の壁が見える有様だった。ラシスカからポツカが独立した後、急遽設置された大使館だからか、まだまだ情報は多くないようだ。
資料室の中央には、一枚の黒いガラストップのテーブルと、革張りの椅子が四脚置かれている。まったく使用された形跡のないその表面には、指紋ひとつ付いていない。誰かがこの部屋で何かを調べた形跡も、議論を交わした痕跡も、まだ存在していない。
「えっと、資料は……」
ここに来るまでの道で、欲しい情報についてはルキーナに伝えてある。ミーシャが居る可能性のある捕虜収容所の場所、ポツカの金相場や金取引の場所、そして現在の検問や交通規制など移動の障害になりうる要素についてだ。
ファイル探しは彼女に任せて、ウーノとエカテリーナは資料室の中を何気なしに歩いていた。
ウーノがテーブルに目をやると、テーブルのガラス面の間には、地形情報から何から何まで、極めて詳細に記されたポツカ共和国の巨大地図が挟まれていた。衛星写真といい勝負なほど、びっしりと詳細に描かれている。
「デカッ……それにみっしりと……」
「あら、本当ですわね。まあでも、旧西部新領までだけですわね、地図の内容は」
ウーノはテーブルに手をついてシゲシゲと覗き込んだ。するとエカテリーナも寄ってきて地図を一瞥すると、地図の左端に描かれた川を指さした。
「ワスフ川……?」
ウーノは脳内の東欧の地図と川の位置を照合しつつ、地図に描かれた名前を呟いた。元の世界でもこの川は天然の要害として、防衛戦構築に活躍するほど、川幅も全長も長い大河だった。
「ええ。旧ラシスカ—ポツカ国境であったワスフ川。これより西の情報は、ほとんど書かれてませんわね。都市の場所も街道も、さっぱりですわ」
「なるほど……」
ウーノは目を皿にして、地図の情報を脳内に保存した。
元の世界と川や丘陵のような地形情報は一致するが、都市の場所や橋の位置なんかは大きく異なる。勘違いしないように、その相違点に気を付けて覚えるようにした。
二人が地図を眺めている間に、ルキーナは目当ての資料を発見したようだ。
2つのファイルを両脇に抱えた彼女が、ロングスカートを邪魔そうにしつつ書架の合間から戻って来た。
「金についての情報と、検問とかについては、詳細な情報が見つかりました……っと」
ファイルを中央のテーブルに置いたルキーナ。彼女の持ってきたファイルの名前はそれぞれ、『ラシスカから流入した金の移送記録及び現状の使用用途』、『ポツカ共和国内における情報統制と対ラシスカ防諜網の構築の進捗について』、である。
「……肝心の捕虜収容所については、情報が無いんですの?」
エカテリーナの落胆した声に対して、ルキーナは首をすくめつつ言った。
「ポツカはタダで捕虜を取り逃がすことを、警戒しているようですね。ラシスカが詳細な情報を知りえているワスフ川以東には、収容所がありません。あるとすれば、ワスフ川以西である、ということしか、現状では把握できていません」
「それならともかくは川を渡らないとね……ああでも、地図上ではたくさん橋が架かってるから、問題ないか」
「何を言っているのですか。情報の漏洩を警戒しているのですよ?それらの橋にはすべて、厳重な検問が敷かれています。諜報員が何人か通過を試みましたが、現在成功例はありません」
「それなら……泳ぐ?」
地図を凝視するエカテリーナに対して、ウーノは冗談半分で声をかけた。
彼女は地図から顔を上げると、困ったように微笑んだ。
「ウーノったら、大胆ですわね。その発想力は貴方の長所ですけど、今回ばっかりはそれは不採用ですわよ。川幅だけで、この大使館が入り切るくらいありますもの」
「まあ、確かに……それに人目もあるだろうし、泳ぐのは無理か……」
「それに生憎、わたくしカナヅチですのよ。でも問題ありませんわ。一つ、抜け道に心当たりがありますの。多少危険はあっても……ウーノはわたくしが守るから、問題ありませんわ。ルキーナ、これもう大丈夫ですわ。さあ、次を確認しますわよ」
エカテリーナはもう一つの確認事項、金の扱いについてのファイルを手に取った。
丁寧に目次があり、見たい情報がどこにあるか一目瞭然だった。
「手袋したままじゃページをめくりづらいですわね……あら、こっちの方は、ウーノの想定通りですわ。戦前のラシスカの金相場より少し安いくらいかしら」
新品で紙同士がピッチりくっついているファイルはめくりづらく、エカテリーナは乱雑に手袋を投げ捨てた。そしてその仕草に眉をひそめているルキーナが驚きに目を見開くほど速く、次々にページをめくって情報を読み取っていった。流石は一瞬でウーノのヌード写真を完全に記憶しきる、動体視力と視野の広さである。
「……ああ、そうみたいだね。それで、金の大部分は、捕虜収容所があるであろうワスフ川以西に送られているのか……西側だと、それこそこの都市みたいな、軍需産業が活発な都市に振り分けられている……うーん、金を買うならワスフ川を渡ってからの方が良いかな……宝飾品の方が、重量当たりの価格は高いわけだし」
ウーノはエカテリーナが読み終えたページを何度かめくり返しつつ、自分なりに考えを述べた。
「ええ、一理ありますわね。ポツカ共和国が警戒しているのが、金の流出であって金取引そのものではない、というウーノの予想も……当たっていそうですわね。この資料を見る限り……でも、流石に一か所で大量に金を買いこめば、怪しまれてしまいますわ。渡河前にも、ある程度は金を購入しておいた方が良いんでなくて?」
ウーノとエカテリーナが対等に議論している様子を、ルキーナは不機嫌そうに見ていた。『はしたない』『生意気』そう注意したい気持ちはあるだろうが、仕事の内容に口出しするわけにもいかない。それゆえに、彼女は口は出さずとも貧乏ゆすりして不満を表現していた。
そんなルキーナの姿に気後れしつつ、ウーノは考えをまとめた。
頷き合って資料を畳む二人に、ルキーナはやっと終わったかと声をかける。
「金の資料はもうよいのですか?」
「ええ、仕舞っていただいて構いませんわ。とりあえず、この都市では現物の金を少し、あとは金の所有権の手形を少額、購入することにする予定ですわ。手形がどれだけ信用できるか分かりませんし、実際の取引でどういう扱いを受けるか、実際に使ってみないことには、分かりませんもの。一度試しに購入して使用して、信用できそうなら、荷物も軽くできますし、金は手形の形で購入する予定ですわよ。明日はその取引現場に、案内してほしいですわね」
ルキーナに説明しつつ、エカテリーナは次の資料を開いた。高速で読み進めるエカテリーナに対して、ウーノはページを横で小さくめくりながら、テーブルの上の地図と合わせて、検問所の場所をメモしていった。
「……本当に、ラシスカに金が流出するのを恐れているんだね。西から東への移動は手荷物検査をしないけど、その逆は詳細な手荷物検査をする検問所が多い……まあ、俺たちからすると都合がいいけど」
「ええ、そうですわね。ポツカで金を買って、ポツカで使うわけですし……ウーノ、こっちのファイルも、もう良いですの?」
「ああ、大丈夫だ。ありがとうございました、ルキーナさん。こちらも戻していただいて、構いません……あ、すみません」
男である自分が頼んだことを謝罪するウーノに、ルキーナは文句の一つでも言おうと口を開いた。しかし彼の横でエカテリーナがジロリと睨むと、ルキーナはため息をついて仕方なしにファイルを棚に戻しに行った。
「ん……っく……ふぅ……それでウーノ、情報収集はこんなところでいいですの?他に何か調べ事は思い付きますかしら?」
相変わらずスカートを蹴飛ばすルキーナを視線で追っていたウーノに、エカテリーナは伸びをしつつ問いかけた。その言葉に視線をテーブルの上の地図に戻した彼は、地図に記載された塹壕線や戦場跡地をなぞった。
「俺たちが使ったような、秘密トンネルが無いかどうかは、調べておきたいな……ワスフ川を渡れるようなトンネルは無いと思うけど、色々とポツカの治安当局に認識されていないトンネルがあれば、色々便利だと思うんだ……例えば、それとこの塹壕線とかさ、他所の塹壕線から離れてるのに、司令部が設置されている。もしかしたら、高官の脱出トンネルがあるかも」
ウーノの言葉につられて、エカテリーナは再び地図を眺めた。
言われてみれば確かに。不審に思えるポイントがいくつか見当たった。
「なるほど……ウーノは本当に、軍事関連の知識にも明るいですわね。その上に見事な洞察ですわ。馬鹿貴族よりよほど軍師に向いていますわね」
感心したように言うエカテリーナに、ウーノは頭を掻いた。褒められるのはまんざらでもなかったが、その知識や洞察力は戦争をゲームとして捉えていた時に培われた、恥ずべきものだ。誇る気にはなれなかった。
「ハハ……いや、褒められるようなことじゃないよ、うん……」
「ええ、本当に。男性が戦争のことに詳しいなんて、誇ることじゃありませんよ。実際に戦う力もないのに、首だけ突っ込みたがるなんて」
背後から聞こえて来た声。振り返れば冷ややかな視線のルキーナが、ウーノを睨んでいた。
「あら、なんですのいきなり。ぶしつけですわね」
戦争を話題に上げるのは、彼女の中で許容できない出しゃばりだったようだ。虎の威を借りる狐、もとい狐の横で勝手に凄む虎。しかしルキーナは虎の脅威に動じず、狐に険しい視線を送っていた。
「えーっと、はい、すみません」
ウーノはとりあえず頭を下げた。
慣れたことだ。村に居たころは、戦地に妻を送りだした夫、そして魔導車製造で村を潤わしたことで、そこまで嫌味は言われなかった。しかし街に出て村であった『地位』が外れると、ちょっとした言動一つで色々と言われたものだ。
「女には、男や子供を魔物や異民族から守るという、命を懸けた崇高な役割があります。守られる側の男の役割は、女がその役割に集中できるように、帰る場所になることです。男が、女の領分に踏み込むべきではないのですよ」
ルキーナの言葉に、ただペコペコとするウーノ。そんな彼の代わりに、エカテリーナが口を開いた。
「ウーノはわたくしを支えてくれていますのよ。立派に男の役割を、果たしてますわ。外野にゴタゴタ言われたくねーですわね」
「口を挟まれたくないのであれば、夫の躾はちゃんと付けておいてください。妻人のその顔の傷も、ユスポフ武官がちゃんと手綱を握っていないから、付いたのではないですか?」
お前が弱いから、男の顔に傷が残った。
エカテリーナには、ルキーナの言葉がそう聞こえた。そしてそれは、これ以上ないくらいの侮辱だった。
彼女は床に足跡を陥没させて踏み込み、ルキーナの襟首につかみかかった。その勢いのまま、壁にぶつけて押し付ける。
「口を慎みくださいまし、クソガキ。テメーみたいな口の悪い貴族をぶちのめすことに、わたくし、躊躇いなんてありませんの」
「くっ……離せ!」
ルキーナは宙に持ち上げられ、ロングスカートをバタつかせた。エカテリーナに手を離させようと、彼女の手に掴みかかってギリギリと力を籠める。
「あら、握力が無いですわね。もっと鍛え……アッヂ!?アッチぃですわ!?」
ルキーナの抵抗を鼻で笑ったエカテリーナだが、手を掴まれ肌が触れ合った途端に手を離した。
そのまま彼女は、下腹部を抑えながら熱い熱いと涙目で叫ぶ。
「え、ちょ、どうしたの?大丈夫?いったい何が……」
突然の暴力事案に唖然としていたウーノは、混乱しながらも苦しむエカテリーナに駆け寄った。
「なんかここがメッチャ熱いんですのよ!焼き鏝を押し付けられた時みたいに熱痛いんですの!」
彼女は症状を叫びつつ、上着をまくり上げて肌を露出させた。
そこには、エカテリーナが刻んだ刻印、貞淑な淫紋があった。しかしそれは、刻まれた時とは違う姿をしていた。
茨模様の黒いツタが、刻印の周囲を取り囲んでいたのだ。
「あれ、俺の奴と違う?なんか刻印に模様が追加されてるよ」
「へ?あ、ホントですわ……これって、異性と肌が触れ合った時に発動する、貞淑な淫紋の拡大ですわね。こんな痛いんですのね……って、異性?」
「え?今肌が触れた可能性があるのって……」
二人はそろって、ルキーナの方を見た。
壁に叩きつけられていた彼女は、その視線を受けて。ゆっくりと目をつぶった。




