307日目②
深夜。
部屋の中は静かだった。魔導ランタンの火は籠の中で揺らめき、黄色がかった白色がぼんやりと壁を染めている。
窓の外は真っ暗で、通りの人声も、犬の遠吠えも聞こえない。冬の夜の、最も深い時間帯。
エカテリーナは、テーブルに突っ伏して眠っていた。
椅子に座ったまま、上半身をテーブルに預けて。右手だけがテーブルの縁から垂れ下がり、ミーシャの寝台の方へ伸びている。回復魔法をかけ続けて、限界が来て、その姿勢のまま力尽きたのだろう。金髪が頬にかかり、寝息が微かに漏れている。
ウーノはその背中に、そっと毛布をかけた。
イネッサは、ソファで丸くなっていた。
毛布を体に巻きつけて、膝を抱えるような姿勢で。起きていようとしていた痕跡が、その体勢に残っている。壁に背を預けて座っていたのが、いつの間にか横に倒れたのだ。
碧い瞳は閉じられ、寝息は規則的だった。普段の挑発的な表情は鳴りを潜め、安らかな寝顔だ。
イネッサの毛布の端が床にずり落ちていた。ウーノはそれを拾い上げ、肩まで引き上げてやった。
二人とも、限界まで起きていようとしてくれた。回復魔法を交代でかけ続けてくれた。何時間も、何時間も。
しかし体力には限界がある。魔法は心の力で動くが、それを支えるのは肉体だ。
部屋の中で一人起きているウーノは二人の寝顔を見回し、それから寝台の上のミーシャに目を向けた。
彼女の体は、数時間前とは別物だった。
あの青白いガラスの殻が、剥がれ落ちている。
回復魔法が効き始めてから、今までの体内に貯めこまれた回復力が溢れ出すように、ガラスは内側から押し出され次々と剥離していった。
手足の方は相変わらず切断面がガラスに覆われたままだが、上半身は大分生身の皮膚が戻っていた。髪の毛からもガラスが抜け落ち、今は顔を覆うガラスが残るだけだ。
寝台の周囲には、ガラスの破片が散乱している。大小さまざま。青く透き通った欠片が、ランタンの光を反射して、床の上で鈍く光っていた。
ウーノは専用のくず入れを手に、膝をついて破片を拾い始めた。
一つ。また一つ。ランタンの光を頼りに、小さな欠片も見逃さないように。素手で拾うから、指先にまた細い傷がつく。もう何度目か分からない。しかし今更、痛みなど感じない。
「……こんなに、剥がれたんだな」
独り言が漏れた。くず入れの中のガラス片は、もう底が見えないほど溜まっている。
2週間、毎朝拾い集めていたのは、腹部の薄いガラス膜が身じろぎで割れた、爪の先ほどの欠片だった。それが今は、掌に収まりきらない大きさの板状のガラスが、何枚も何枚も、剥がれ落ちている。
ガラスの下から現れた肌は、まだ青白く、血の気が薄い。ツルツルとしていて、それこそガラスのように滑らかな肌。でも確かに生きている、体温を感じる、人肌だ。
ウーノは黙々とガラスを拾い続けた。一つ残らず。ミーシャが目を覚ました時に、破片で怪我をしないように。
もうすぐ、もうすぐだ。
焦れた熱望が、彼の中で渦巻いていた。
床のガラスを全て拾い終えると、ウーノはミーシャの傍に戻った。
寝台の縁に腰を下ろし、艶やかな黒髪を静かに手で梳く。覚悟のために燃やした、あの黒髪を。今度は髪束などでは無く、そのまま。
一通り髪の流れを整え終わると、顔のガラスに手を伸ばした。
指先が触れる。冷たく、硬い。けれど、2週間前のそれとは違う。僅かに、内側から温もりが伝わってくる気がする。
ガラスの向こう側に、ミーシャがいる。
ウーノはそっと指を離した。無理に剥がすつもりはない。爪を立てて引き剥がせば、下の肌を傷つける。回復途中の、まだ脆い肌を。
ミーシャ自身の力が、内側からこのガラスを押し出すのを、ただ待っていた。
「あと少しだよ、ミーシャちゃん」
囁いた。声は震えていない。
2週間。毎朝話しかけて、毎晩文字を書いて来た。そして今日、とうとう体で伝えて、伝わった。
ウーノはミーシャの額のガラスに、自分の額をそっと合わせた。
ガラス一枚を隔てて、二人の額が触れ合っている。
目を閉じた。
喉に開けられた穴から、コヒューコヒューと呼吸音が聞こえる。
回復魔法をかけると、閉じてしまいそうになる。しかしまだ口元も鼻の穴もガラスで塞がったままなので、回復魔法をかける二人に代わってウーノ自身が、何度か切開していた。
妻の体に刃で傷をつけるのは、必要なことだと分かっていても心苦しかった。
しかしそれも、もう必要なくなる。
「痛かったよね、ごめんね。目が覚めたら、謝らないとね」
額を突き合わせ、妻の頭を撫でながら、ウーノは小さく謝罪の言葉を呟いた。
ピシッ。
不意に、湖に張った氷が割れるような、張り詰めた破砕音が小さく響いた。
ウーノは目を開けた。額を離し、ミーシャの顔を見つめる。
ガラスの表面に、一筋の亀裂が走っていた。右の頬骨のあたりから、鼻梁にかけて。髪の毛ほどの細い線。
ピシ、ピシ。
亀裂が枝分かれする。頬から顎にかけて。こめかみから額にかけて。蜘蛛の巣のように、細い線が広がっていく。
ウーノは両手をガラスの下に添えた。顎の下、耳の横。落ちてくる破片を受け止められるように。
パキ。
最初の欠片が剥がれた。右の頬の一部。薄い青のガラスがめくれ上がり、ぽろりと落ちる。ウーノの掌に収まる。
その下に、肌があった。青白いが、生きている頬の肌。
パキパキパキ。
連鎖が始まった。額のガラスが割れる。左の頬が剥がれる。こめかみの破片が落ちる。次々と、次々と。
ウーノは両手で受け止め続けた。掌がいっぱいになると、くず入れに静かに移し、すぐに手を戻す。一つも、ミーシャの顔に落とさないように。
破片が指を切る。新しい赤い線が増えていく。しかしそんなことは、少しも気にならなかった。
パキ。
鼻を覆っていた部分が割れた。すっと通った鼻筋が現れる。
パキ。
口元のガラスが浮き上がる。色素の薄い唇。少し開いている。
ウーノがガラスの端をそっと支えると、最後の大きな欠片が、ゆっくりと持ち上がり、ぽろりと、掌の中に落ちた。
もう、ガラスはどこにもなかった。
ミーシャの顔が、そこにあった。
最後にミーシャの顔を見たのは、何ヶ月前だろう。
出征の朝。最後に深く長い口づけを交わした、あの日から。戦地ではただ文字でのやり取りしかできなかった。あの手紙の中の、たどたどしい文字を、何度も何度も読み返した。
今、目の前にある顔は、あの日と同じで、あの日とは違っていた。
色素の薄い唇。子供っぽい頬の丸み。長い前髪が額にかかっている。
閉じた瞼。その上に、零れ落ちそうなほど長い睫毛。
顔色は青白い。頬の血色は失せて、唇はほとんど白に近い。痩せてしまったせいで、頬が少しこけていた。
それでも。
ガラスではない。
人間の、妻の、顔だ。
ウーノは小さな切り傷のある手で、ミーシャの頬に触れた。
温かかった。
ガラス越しではない、直接の温もり。肌と肌。2週間、ずっとガラスの上から撫でていた額を、今は素肌で触れている。
柔らかい。人間の頬の、当たり前の柔らかさが、今は奇跡のように感じられた。
唇に触れる。
色素の薄い、柔らかな唇。どこかあどけなさを感じさせる、小さな口。
窓の端が、ほんの少しだけ白んでいた。夜が、終わろうとしている。
カーテンの隙間から入り込んだ仄かな光が、ミーシャの顔に差した。
ウーノは目を強くつむって、ベッドの側に膝をついて、妻の顔の上に身を乗り出し影を作った。
溢れ出す思いのまま、口づけを交わす。
頬を両手で強く挟んで、深く、深く。その柔らかさを確かめるように。
息継ぎも忘れて、ただひたすらに、唇を重ね合わせた。
そしていよいよ、こらえきれず唇を離し、大きく息を吐いた。
息を吐き、そして吸う。
目を開けて、そして再び、口づけを交わそうとした。
しかしその時、睫毛が震えた。ゆっくりと、本当にゆっくりと、瞼が持ち上がる。
長い間閉じていた、青い瞳。光を失い、暗闇の中にいた碧眼。
ランタンの薄い橙色の光すら、きっと眩しいのだろう。瞼が半分だけ開き、焦点の合わない瞳はぼんやりとしていた。
ウーノは息を呑んだ。
声が出なかった。名前を呼びたいのに、喉が締まって、音にならない。
両手でミーシャの頬を包んだまま、額を突き合わせ、鼻がこすれ合うほど近くに、顔を寄せた。
涙だけが、頬を伝って、ミーシャの肌に落ちた。
白く霞んだ視界の中に、ぼんやりとした光と影。
瞬きを、一つ。
視界が、少しだけ晴れる。暗い部屋。天井の木目。白っぽい火の色。
そして……目の前に、誰かの顔。
泣いている。涙を流しながら、笑おうとして、笑えなくて、また泣いている。
「ウー……ノ、さ、ん?」
久しぶりに声を出す喉は掠れて、途切れ途切れ。
それでも確かに、ミーシャはその名を呼んだ。
「あぁ……!声が、聞けた……!俺だよ、ミーシャちゃん!」
ミーシャは、夢を見ているのだと思った。
あの夜。出征前夜、抱きしめた彼の泣き顔。それを今、見ているのだと。
また、夢だ。
でも……こんなセリフ、だったっけ?
じゃあ、これは幻聴?幻覚?
しかし、ミーシャは思い出す。まだ残る、下腹部の熱の感触を。
これが、もしかしたら、もしかするかも、しれないのだと。
不意に頬に、温かいものが落ちてくる。ぽたり、ぽたり。
温かくて、濡れていて、体の外側から来る刺激。これは、外の世界の感触だ。
夢の中では、暗闇の中では、触覚はなかった。
目が、少しずつ慣れていく。ぼやけていたモザイク画の様な顔が、輪郭を持ち始める。
黒い髪。ラシスカでは珍しい、エキゾチックな顔立ち。
左の頬から首筋にかけて走る、細く長い傷跡。知らない傷だ。でも、それ以外の全てに、見覚えがある。
目の前の人は、泣いていた。口を固く結んで、声を殺して、肩を震わせて。
涙の膜の向こうに見える、黒い瞳。
本当なのか。これは夢ではないのか。
頬に落ちてくる温かい雫。肌に触れている、誰かの手。ざらざらしていて、小さな傷がたくさんある、硬い手。
この手は知らない。こんなに傷だらけの手は、知らない。
でも、手の大きさは知っている。指の形を知っている。触れ方の優しさを、知っている。
ああ、伝えないと。伝えたい、伝えたい!
「あ、あう、あ……あい、して、ま、す……あいして、ます……あ、うぅ……あいしてます、愛してます……!う、うぁ……」
ずっと、闇の中でし続けていた返事を。無理だと分かっていながら、届けたいと思っていた言葉を。
諦めきっていた幸福を、目の前にして。
「俺もだ、俺もだよ!愛してる、愛してるんだ!」
耳に強く、響く声音。意味を理解した途端、全ての感情や感覚が塗りつぶされるような、圧倒的な衝撃が脳に染みわたる。
「わた、し、も!私、も、愛して、ます!んっ……」
ミーシャはただ、その言葉をうわ言のように、繰り返し、言い続けた。何度も繰り返すうちに、不意に唇に触れる人肌の感触。
彼女はただただ、その感触に酔いしれ、ポロポロと涙を流した。




