308日目①
抱きしめ、愛してる、ただその言葉を交わしながら。口づけを落とし、涙をまぜこぜにしながら。
二人はただただ、お互いの体温を確かめ続けていた。
どれほどの抱擁も、何回もの接吻も、満足することは無く。二人はずっと、身を寄せ合っていた。
制止が無ければ、無限にそうし続けていただろう。
それを中断させたのは、階下から聞こえる足音や物音、大通りの喧騒だった。
「……ああ、もう朝か。はは、夜通しずっと、抱きしめてたなんてね。おはよう、ミーシャちゃん」
ウーノは妻の頭を撫で、再び口づけを交わすと、彼女を優しくベッドに横たえた。
「ぁ……お、おはよう、ございます……」
名残惜しむミーシャは、手足の無い体を必死に捩って、最愛の夫の姿を目で追った。
彼はカーテンを開け、誰かの肩を揺すっていた。
あれ、誰かいたんだ?そういえば、ここはどこだろう……ウーノさんはどうして……あ、あの人、女の人だ!
色々な疑問が湧いて出ていたミーシャだが、親密そうに誰かの肩を揺するウーノの姿を見ると、モヤモヤとした感情に脳が支配されてしまう。
目が覚めてすぐこの思考回路になる辺り、彼女の精神は頑健だった。
ジトっとした視線を送っていたミーシャは、不意にテーブルに突っ伏していた彼女の髪色が、金髪で毛先が赤いことに、気が付いた。
「んぅ……朝、ですの……」「んぁ……ミーシャの奴は……」
ウーノが肩を揺すると、その人物がゆっくりと上体を起こした。その声に釣られてか、もう一人の女性、ソファに蹲っていた誰かが、目をこすりながら顔を上げた。
「おはよう、二人とも。ほら、こっちを見て」
ウーノは続いてもう一人の肩も叩き、ミーシャのベッドへと戻ってきた。彼はミーシャに毛布をかぶせると、彼女をベッドの上に座らせた。手足が無いので、倒れてしまわないように背中を支えて。
紫色の瞳と碧眼。二度三度、パチパチと瞬きをする。
目が合った二人の顔を見たミーシャは、大きく口を開けた。
「あっ……え、エカテリーナさん……イネッサ……」
大口から零れた、小さな呟きを聞いた二人は、その場から飛び上がって、ミーシャのベッドへと殺到した。
「あぁ、ああもう!やっと目が覚めましたのね!」「ったく、アンタは本当にねぇ!」
二人はバシバシとミーシャを叩きながら、顔をほころばせた。
状況が分からないミーシャは、その手荒な祝福に目を回していた。
「あ、えっ?あ、ご、ごめんなさい……えっと、あの、何が何だか……」
「ああ、そうですわね。本当に、何から話せばいいかしら。色々、ありすぎて。言いたいことが山ほど。いえ、山脈ほど。ナジンカとか、ルキーナとルカ、タチアナにブランシェ……戦争のことも……あぁ!そうでしたわ!まずはこの話からしませんと!ミーシャ!」
エカテリーナは指折り数えながら虚空を見つめていたが、ふと思い出して大声を出した。眉を寄せ、怒りの表情を形作る。
「は、はい!」
ミーシャがびくりと体を震わせた。手足が無い体が、寝台の上で小さく跳ねる。
そんな彼女の顔を間近から覗き込み、エカテリーナは寝台の横に膝をついた。紫の瞳が潤んでいるのに、眉は吊り上がっている。
「貴女わたくしにあんな、あんな遺書と遺髪を預けるなんて!妻の戦死を、訃報を届ける役割を、わたくしに押し付けて!丸投げして!わたくしがどんなに気が重かったか、分かってますの!?分かってませんわよね!?もんすっごく、辛かったんですのよ!」
「……あの時は、本当に、悲しかったよ。人前で取り乱して泣いたのは、初めてだったかもしれない」
怒るエカテリーナの横で、ウーノが遠い目をしている。
戦友に、愛する人の幸せを託した訳だが、そのファーストコンタクトは妻の訃報を届けること。色々とあったのだろう。ミーシャはその場面を他人事のように想像した。
「そ、それは……で、でも、エカテリーナさんにしか、頼めないって……」
あの日から、どれだけの月日が流れたのか、ミーシャには分からなかった。しかし、暗闇の中で、ずっと反芻して来たから、その瞬間のことはずっと記憶に残っていた。
後悔も未練もあったけど。それでもあの時は、それが最善だと思っていた。今でも、最善だったと思う。
しかしその反駁に、エカテリーナは激しくかみついた。
「あの時貴女が言うべきだった言葉は!わたくしに、『一緒に戦って欲しい』と頼むことでしたわよ!そりゃあ、雷縮地後で少し足が疲れてましたけど!貴女とわたくし、二人掛かりでなら、決死隊なんて字面だけで楽ちん楽勝でしたのに!」
あの時、ああするべきだった、無理にでも一緒に戦おうと提案するべきだった。その後悔が、ずっと彼女の中にあったのだろう。
溜まりに溜まった不満をぶちまけるように、エカテリーナは涙目でプリプリと怒っていた。
自分も巻き込め、一緒に戦わせるべきだった。そんな戦友の怒りに、ミーシャは申し訳なさがいっぱいで、目を伏せて口を閉じた。
「あ、うぅ……ご、ごめんなさい……」
「そういう時は、ありがとう、ですわよ。おバカ……!」
俯いたミーシャを、エカテリーナは力いっぱい、抱きしめた。
久しぶりに触れる、戦友の豊満さに。ミーシャはただただ、包まれていた。
「朝っぱらから元気だねぇ、雷女帝サマは。耳が痛いったらありゃしない。ところで、そろそろアタシにも文句を言わせてもらっても良いかい?」
「……ええ、好きにやってくださいまし」
イネッサが、欠伸を噛み殺しながら、寝台の反対側に回り込んできた。
エカテリーナはミーシャを離し、一歩下がる。ミーシャは今度は、あんまり好きではない相手の顔を見上げた。
「え、あの、その……な、何でイネッサがここに……?」
ウーノとエカテリーナ。愛する夫と無二の戦友。ミーシャにとってイネッサは、大切な二人に交じる汚点であった。
暗闇の中、最近はウーノの声ばかりが幻聴で聞こえてきたが、最初のころはイネッサばかり。それが何か、関係していたのだろうか。
不安そうに警戒心の籠った表情で、長年の腐れ縁の相手を見上げた。
それに対してイネッサは、いつもの通り唇を歪めて、軽快に舌を回し始めた。
「何で?何でたぁ、ご挨拶じゃないかい?えぇ?アンタ、自分がどういう状態だったか、分かってるかい?戦場で死にかけたアンタを拾ってやったのは、このアタシさ。手足は無いし、上半身はガラス塗れ。口も鼻も開いてないから、アタシが喉に穴開けてやって。流動食を用意して下の世話まで、何から何まで、全部面倒見てやってたんだ。いいかい、ミーシャ。アタシはアンタの、命の恩人って訳。もっと深々と感謝してしかるべきじゃないかい?」
イネッサはそう言って、ミーシャの頬をムニムニと力いっぱい引っ張って弄んだ。
反抗手段がないミーシャはされるがままである。
「ひ、ひんひはへ、信じられません!え、イネッサが、私を助けてくれたんですか!?え、な、何の目的で……?」
何かしゃべろうとするからと、ムニムニの手を止めたイネッサだが、まさかの疑惑の声。彼女は頬抓り拷問を再開した。
「生意気にもアンタ、このアタシを戦場で庇いやがったじゃないかい。それが気に食わなくてねぇ。治療してイジメてやろうと、助けてやったんだよ。ほら、感謝の言葉はどうしたんだい、泣き虫ミーシャ」
「ほら、イネッサ。それくらいにしてあげて」
ウーノがイネッサの肩を叩くと、彼女はパッと手を離した。
ニヤニヤと、薄ら笑いを浮かべたまま。しかし視線はしっかりとミーシャの双眸を見つめ、彼女は呟いた。
「まったく、手間かけさせやがって、この貧乳泣き虫コミュ障は」
「あっ!い、言いましたね!その悪口は止めてって、昔約束しましたよね!もう、もう!イネッサなんて嫌いです!そうですよ、戦場で助けてあげたんだから、助けてくれたのもチャラです!」
一瞬、ミーシャの中にもイネッサへの申し訳なさや感謝の念はあった。しかしそれはコンプレックス特盛セット悪口によって、吹き飛んでしまった。
キャンキャンと頬を膨らませて叫ぶミーシャを、イネッサはニタニタしながら、満足げに見下ろしていた。
歪んでるなぁ。ウーノは妻の腐れ縁の女性のその表情を見て苦笑した。
「ほら、ミーシャちゃん。病み上がりなんだから、あまり叫ぶと疲れちゃうよ。手足はまだ治ってないんだから、安静にしてないと」
ウーノはミーシャの頭を優しく撫でて宥める。すると彼女は、不自由な体を一生懸命捩って、夫の胸に頭をこすりつけた。
「もう、ウーノさんが言うなら、仕方が無いですね。仕方が無いです、ウーノさんが言うんですから、もう」
あくまでも身を引くのは夫が言うからである、まだ許してないからな!そんな主張をしながらも、ミーシャは表情を蕩けさせて、愛する夫に甘えていた。
「はーあ。まったく、ずっと目も耳も聞こえなくて、心を病んでたりしやしないかって、思ってたけど……杞憂だったねぇ」
「オホホ。良いことですわよ。それで、ミーシャ。今まで本当に、色々ありましたの」
エカテリーナは椅子を引っ張ってきて腰かけると、かいつまんで現状を説明し始めた。
塹壕の夜と頬の傷。
ビウクニツでの陰謀。
シュチェンでの死闘。
そして魔境を越え、監獄でのイネッサとの再会。
最後に、ウーノの介護の日々。
怒涛の情報だった。終戦後の濃密な1か月半が、エカテリーナの口から次々と溢れ出す。ミーシャは相槌を打つのが精一杯だった。
しかし、一つだけ。一つだけ、聞き流せなかった言葉があった。
「……あの、エカテリーナさん。さっき、遺髪を燃やした、って」
「ええ。ウーノが自分の手で、暖炉の火の中に」
ミーシャの体から、一瞬、力が抜けた。ウーノに預けていた頭が、ずるりと傾ぐ。
遺髪。出征前の夜に、自分が夫へとエカテリーナに預けた髪束。これから死ぬ自分が、夫を縛ってはならないと。貞淑な淫紋を解除して、新しい相手を、望むなら無二の戦友のエカテリーナと幸せになれるようにと、意を決して切った、あの髪。
それが、その時のミーシャなりの最後の愛だった。自分がいなくなった後のウーノの人生が、幸せで合って欲しいと、愛の祈りだった。
それを、燃やした。
「……なん、で……」
振り返ってウーノを見上げた。彼は少し困ったような顔をしていた。
「なんでも何も。ミーシャちゃん以外の女の人と、一緒になるつもりなんか無いし」
軽い口調。当たり前のことを言うように。
「でも……もし、私が、見つからなかったら。その後に、私が死んでたら。ウーノさんは一生、あの刻印を……」
「うん。そうだね。一生、ミーシャちゃんの夫のまま。そうすべきだと、思ったから」
ミーシャの唇が、震えた。
自分は暗闇の中で、『エカテリーナさんがウーノを幸せにしてくれる』と信じて、諦めようとしていた。ウーノが新しい幸せを見つけることを、祈っていた。
一方でウーノは、その祈りを全て、灰にした。
操を立てるために、幸せになれる権利を、投げ捨てて。
「……ばか」
小さく、震える声で呟いた。エカテリーナと同じ言葉が、自然と口を突いた。
「えぇ……?喜んでくれると思ったんだけど。ミーシャちゃん、結構嫉妬深くて独占欲、強いし」
「そんな、そんな訳、無いですもん。ばか、です。ウーノさんの、ばか……喜びませんから、嬉しいなんて、思いませんから!」
ミーシャは必死になって、頬を膨らませた。垂れそうになる眉を一生懸命寄せて、眉間にしわを作った。
自分がどんな想いで、あの髪を切ったか。愛する人の幸せを、心から願っていたのに。それを無下にされて、無茶で無謀で、大変な決断をしたんだと、怒ろうとして。
どうしようもなく緩みそうになる表情を、必死で取り繕って。ミーシャは瞳を潤ませて、ウーノを見上げるのだった。
頑張ってむくれるミーシャを、ウーノは優しく抱きしめた。
途中からイネッサが口を挟んで、終戦直後のミーシャの状況を語り、その後の介護の苦労話を長々と話した。
そしてウーノの献身ぶりへと、話題が移る。
「毎日欠かさず。おむつの交換も、体拭きも、流動食も、全部、大したもんだったよ。ああ、本当に、大した献身ぶりさ」
イネッサがそう言うと、ミーシャは嬉しいやら恥ずかしいやらで、ベッドに腰かけ自分の背を支える夫を見上げた。
「お、オムツまで……あ、あの、その……く、臭く、無かったですか?」
裸の付き合いの夫婦でも、下の介護を受けるのは恥ずかしい。ミーシャは頬を赤らめて尋ねた。
ウーノは馬鹿正直に言うのも何なので、頬を掻いて答える。
「まあ、良い予行練習になったよ。ほら、将来、俺たちの子供が出来た時の、さ」
「あっ……こ、子供……赤ちゃん……あ、う、あうぁ……は、はいぃ……」
もう叶わないと、暗闇の中で諦めきっていた。しかしそれでも縋ってしまっていた、その可能性に触れられて。再びミーシャは甘えスイッチが入ってしまったらしい。
ゴロにゃんゴロにゃんと喉を鳴らしそうな勢いで、再び体をよじってウーノの腹部に頭をこすり付ける。
「んま、あんな状態だったし。アタシが世話してやってた1か月は、生理が止まってたみたいだけど……まあ、昨日は随分とハッスルしてたしねぇ?手足が治るのが先か、孕むのが先やら……」
ふとしたことで人目を憚らず甘々モードになるミーシャに、イネッサは肩をすくめて言った。
それでもって、再びミーシャは思い出した。そう、なぜ自分が生きる希望を取り戻したのかを。
「あ、そ、そうでした!ウーノさん、あの、その、だ、大丈夫でしたか!?い、色々と!!」
色々。本当に色々。
ミーシャは気になっていた。
自分にセイの希望を与えた、夫の行動が、ガラス塗れの自分にしても大丈夫だったのかと。
「ああ、まあ……ミーシャちゃんはミーシャちゃんだし」
あっけらかんと答えるウーノの返答。それに付け加えるように、エカテリーナが口を挟んだ。
「ウーノったら、ほとんどガラスの置物状態のミーシャに、10回も致したんですのよ。本当に、姿かたちが変わっても変わらぬ愛と言うのが、実現したのだと。わたくし、感極まってしまいましたわよ」
「10回、致した……致したって、その……そう言うことですよね?え?じゅ、10回!?」
ミーシャは驚愕のあまり、見上げていた視線を下げて、ウーノの股間を凝視してしまった。
早期に気をやってしまっていたので、まさかそこまで回数を重ねていたとは、気が付いていなかった。
「ウーノったら、ミーシャの下腹に毎日指で文字書いてたんですの。『ウーノ』『ここにいるよ』『愛してる』、て。でも表皮の刺激では伝わらないからって……」
「あまり言わないでよ……いやまあ、ね?ミーシャちゃん、あんな状態でも結構セクシーだったから。今なら20回くらいいけるかな。はは」
「お、お手柔らかに……」
ミーシャは縮こまって、しかしどこか期待するように上目遣いで頬を紅潮させた。
隙あらば空気感がピンク色になる状況。エカテリーナはそれを楽しんでいて、ミーシャとウーノはその原因。そしてイネッサは投げやりだ。
指摘する人間が居ないのである。
その空気感の中、エカテリーナは大事なことを言うのを忘れていたと、気が付いた。
彼女は席を立ち、ベッドに腰かけミーシャを抱き上げた。再びミーシャの顔が、胸の中に埋められる。
「おかえりなさいまし、ミーシャ」
そう言って、深く抱きしめる。
柔らかい。温かい。そして、大きい。非常に大きい。ミーシャの顔が完全に埋まるほど、大きい。
しかし今は、その理不尽な柔らかさに文句を言う気力もなく。ミーシャはただ、戦友の体温に身を委ねた。
「……ただいま、です。エカテリーナ、さん」
エカテリーナはしばらくミーシャを抱いていた。
しばらく、というのは、本当にしばらくだった。一分か、二分か。もっとかもしれない。誰も口を開かなかった。イネッサは窓際に移動して外を眺めていたし、ウーノは静かに二人を黙って見守っていた。
塹壕の夜を思い出した。背中を預け合って、朝を待った夜。砲撃の音が止んだ束の間の静寂。あの時と同じ種類の安堵が、今、エカテリーナの腕の中にあった。
やがてエカテリーナはミーシャをそっと寝台に戻した。ミーシャの前髪を指で整え、小さく微笑む。
「お説教したり、状況説明したりで、肝心なこと、忘れてましたわね。オホホ、許してくださいまし」
「はい」
それから、ふう、と一つ息を吐いて、エカテリーナは頬を両手で叩いた。ぱん、と小気味よい音。切り替えの合図。
「さてと!後は手足の回復ですわね。緊急回復薬、また買えますかしら……」
エカテリーナはバッグを漁りながら、路銀の確認を始めた。窓の外を見ていたイネッサも一緒になって、自分の財布を開いて、振っている。
「これくらいあれば?」「とりあえず買えそうですわね」
イネッサとエカテリーナがお金を数えながら、色々と相談し始める。
それを横目に、ウーノはミーシャを撫でて、微笑んだ。
「色々な人に、助けてもらったんだ。特にエカテリーナには、すごくお世話になってさ。ミーシャちゃんが治ったら、一緒にみんなに、お礼とお返しを、しないとね。本当に、色々な人に……」
ふと目を伏せたウーノの横顔に、ミーシャは小さな影を見た。
目が覚めてからずっと、笑顔でいてくれた夫に。何かを思い出すように、遠くを見るような目をして。ほんの少し、顔を歪ませた。
「ウーノ、さん……?」
「ああ、いや、何でもない。ミーシャちゃん、ご飯、何が食べたい?ずっと流動食ばっかりだったから、やっと固形物のちゃんとしたご飯を、食べさせてあげられるよ」
優し気に笑うウーノ。
しかし、ミーシャは気が付いてしまった。今までは嬉しくて愛おしくて、何もかもが色鮮やかに見えて、隠れていた。
左頬から首筋に残る、長い傷跡。
化粧でも隠し切れない、その傷は敵の魔法使いと戦って、負ったのだと聞いた。
私が、居ないせいで。愛する男性の顔に、傷を残してしまった。
謝らないと。しかし言葉がまとまる前に、不意に感じた尿意に阻まれて、口から出たのはただの吐息だった。
「あ……」
「あ、トイレ?そうだね、何時までもオムツってのも、何だし。ちょっと持ち上げるよ」
ウーノはずっと付きっ切りで看護していた。ちょっとした動作でも、色々と察することが出来た。
持ち上げられたミーシャは、そのままトイレに連れていかれ、包んでいた毛布とオムツを外され、便器へと座らされる。
「あ、あの……」
「あ、ごめん。近くに居たら出る物も出ないか。でも女の人って、小でも終わった後に拭かないとでしょ?終わったら呼んでね」
ウーノはそう言って、トイレから出て行こうとする。
ドアノブにかかった手が見えた。小さな傷だらけの、苦労の痕跡のある、夫の手が。
振り向いて微笑んだその左頬に伸びる、長い傷跡が見えた。自分が側に居なかったせいで残ってしまった、とても痛かっただろう傷跡が。
何か言わないと!
思考がまとまる前に、ミーシャは声が出ていた。
「あっ!あ、あの、その……す、直ぐに腕とか足、治しますから……だから、その……ウーノさんが、私の用意した髪の毛、燃やしたこと、えっと……こ、後悔させませんから!」
「後悔って……ミーシャちゃんは、ちゃんと生きててくれたんだから」
呼び止められたウーノは、苦笑して振り向く。
しかしミーシャは、こんがらがる頭の中で、必死に言葉を探していた。
「えっと、その……ウーノさんは、私が、幸せにします。私に、幸せに、させてください」
歓喜の絶頂から、少し降りたところで。夫に頼りっきりで、自分一人では何もできない自分を恥じて。
ミーシャは懇願するように、夫を見上げた。




