304日目②
夕方。冬の日は短い。窓の外の光が、赤みを帯びて長い影を床に落とす。
エカテリーナが仮眠から目覚め、再び外出した。夜行性の魔物の方が、稼ぎが良いらしい。彼女は部屋を出る前に、ミーシャに回復魔法をかけ、ウーノの肩をポンと叩いた。
「行ってきますわ。あまり根を詰めないでくださいましね」
「ああ、君の方こそ。気をつけて」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
部屋には、書類を読むウーノと、ミーシャと、ソファに横たわるイネッサが残された。
イネッサも体を起こすと、寝起きには妙にはっきりした声で、口を開いた。
「なぁ、ウーノ」
イネッサの声は、世間話のような軽さだった。
「何?」
「アンタさぁ。このまま一生、ミーシャが目を覚まさなかったら、どうするのさ?」
書類をめくる手が、一瞬止まった。しかし、すぐに動き出す。
「そんなことにはならないよ」
視線は目の前の紙束に落としたまま、応える。
「根拠は?」
「……」
ウーノは答えなかった。答えられなかった。
根拠など無い、ただの祈りだ。ただの希望的観測。
イネッサは鼻で笑った。短く、乾いた音で。
しかし追及はせず、話題を変えるように口を開いた。
「今は嬉しいだろうさ、ミーシャの世話をするのが。まだ2週間だしねぇ」
「……どういう意味だ」
まだ、書類に向き合ったまま。しかし目は、文字を追ってはいなかった。
「アタシは1か月で投げ出したよ。最初のうちは、アタシだって、色々と声をかけてやったさ。でもね、話しかけるのが馬鹿馬鹿しくなるんだよ。返事が無いんだからねぇ」
「……」
「アンタだって、最近、話しかける回数、減ってないかい?」
ウーノは書類をテーブルに置いて、イネッサに向き合った。
同じ話ばかりしている自覚は、あった。話題を探す時間が長くなっている自覚も。
しかしまだ減ってはいない、と思いたい。でも、本当に?数えてはいない。数えていないから、分からない。
「……そんなこと、ない」
声がほんの少し、硬かった。
イネッサは小さな間を聞き逃さなかった。しかしまたも追及は無く、大げさに肩をすくめてとぼけた表情を浮かべた。
「まあ、いいけどさ。それよりウーノ、金の話だ。エカテリーナに頼りっきりだねぇ。雷女帝サマが体を張って稼いだ金で、アンタはミーシャの世話をしてる。クマまで作ってさ、アイツ……いい身分だよ、アンタは」
「それは……」
ウーノの眉が下がった。図星だからだ。分かっている。痛いほど、分かっているのだ。
「問題は村に戻った後。エカテリーナはラシスカの英雌だ。いつまでも、アンタの側にいてくれるわけじゃないさ。そんでもって村に帰りゃ借金がある。ミーシャの身代金用に村人から借りた金、返さなきゃならないんだろ?魔導車の仕事を今まで以上に頑張りながら、毎日ミーシャのオムツを替えて、飯を作って、体を拭いて。それを何年やるんだい?」
「何年だってやってやる!」
ウーノは吠えるが、イネッサは鼻で笑った。
彼女は身を起こし、ソファに座り直した。
「はんっ……アタシは、たかだか1ヶ月で投げ出した。女のアタシが。男のアンタは、体力も力も劣る。仕事と介護の両立を、何年続けられるのさ?ああ、今はいいさ。10年20年?でもミーシャは魔法使いだ。こんな状態でも、長生きするかもしれないよ。アンタがジジイになった時も、今と同じだけの愛情で、ソイツの面倒、見れるのかい?」
膝の上で、傷だらけの拳を握りしめていた。
反論したかった。しかし言葉が見つからない。事実だから。全部、事実だから。
今はミーシャとの再会の喜びがある。この先もずっと、永遠に妻が目覚めずとも、愛し続け世話をし続けると、断言できる。
でも、今は若くても、年を取った時。自分は何時まで、その愛に陰り無くいられるだろうか。いや、心より先に、体がもつのだろうか。
「……俺は……いや、大丈夫、大丈夫だ。俺は身体強化魔法も覚えた。大丈夫、問題ない。ずっと、ずっと一緒に……ミーシャちゃんが目を覚まさなくたって……」
何とか反論するウーノに対して、イネッサは立ち上がり、ウーノの正面に来て彼を見下ろした。色素の薄い碧眼を細め、彼女は更に問いかける。
「目を覚まさなくても、ねぇ……そういやアンタは、ミーシャと対等で居たいとか、言ってたね。前に」
「ああ、そうだ」
「今のアンタとミーシャ、対等かい?」
「……!」
ウーノの目が見開かれた。
イネッサは続ける。声の温度は変わらない。しかし唇の端が、歪んでシワを作っていた。
「今、アンタはミーシャの何もかもを握ってる。飯を食わせるのも、体を拭くのも、オムツを替えるのも、全部アンタの裁量だ。ミーシャには拒否する力もない。これのどこが対等なんだい?」
「それは……今は仕方が無い。ミーシャちゃんが回復すれば……」
「回復すれば、ね。回復しなかったら?さっきの話に戻るよ。アンタ、男の癖に生意気に、女の上に立ちたいと、思ってるんだろう?対等なんかじゃなくて、上の立場になりたいってさぁ」
「……そういう所も、あるかもしれないけど」
「アンタ、ミーシャの世話をするのが嬉しいって、言ったよね。『やっとミーシャに何かしてあげられる』って……それって、愛かい?それとも、庇護者であることに、酔ってるだけじゃないのかい?」
イネッサの碧い瞳が、真っ直ぐにウーノを射抜いた。
「……酔ってなんか、ない」
沈黙が落ちた。イネッサの視線に対して、ウーノは目をそらしてしまう。
夕日は没し、街の喧騒も遠く。沈黙が部屋を満たしていた。
何か言おうとして、口を開きかけて、閉じた。喉の奥で言葉が潰れた。
そんな様子の彼に、イネッサは興味を失ったように顔を背け、衣装棚の戸を開けた。
「別にいいけどさ。アタシには関係ない話だよ。アタシも出かける。ウーノ、戸締りはちゃんとしておくこったね」
イネッサは適当な服を羽織ると、彼の方には視線をやらず、そのまま部屋を出て行った。
一人残されたウーノは、椅子に座ったまま動けなかった。
窓の外は、もう暗い。街灯の魔導ランタンの橙色の光だけが、薄暗い部屋を照らしている。
イネッサの言葉が、頭の中で反響している。
『酔ってるだけ』
自分の手を見た。小さな傷だらけの手。ガラスの断面で切った、無数の傷。勲章のように思っていた。妻を守るため、救うために、ついた傷だと。
でも、それは誰のためだ?
ミーシャのため?それとも、『妻に尽くしている自分』のため?
この世界に来てから、ずっと。守られる側で、役に立てない側で、無力な側だった。
対等になりたいと願ってきた。ずっと、ずっと。
そして今。ミーシャは四肢を失い、感覚を失い、声を失い、生きる意志すら失っている。
自分は健康で、自由で、ミーシャの全てを握っている。
対等になりたかった。でも今、手にしているのは、対等ではない。
優越。今は自分の立場が、明白に『上』だ。
オムツを替えることが嬉しい。流動食を作ることが嬉しい。体を拭くことが嬉しい。
やっと、ミーシャに何かしてあげられる。
その『嬉しい』は、本当に愛から来ているのか?
それとも、ようやく手に入れた『庇護者』の立場に、この世界で初めて感じる『上の立場』に、無意識に安堵しているのか?
ウーノは両手で顔を覆った。指の隙間から、荒い呼吸が漏れた。
自分が、信じられない。自分の感情が、信じられない。
ドズルイのこの宿に滞在してしばらく。確かに幸せだった。ミーシャの傍にいられて。世話ができて。
でもその幸福の正体が、もし自己満足だったら。
ミーシャが今、何を望んでいるか、分からない。聞けない。確認する方法がない。
自分は一方的に話しかけ、一方的に世話をし、一方的に満足している。
それは愛か?エゴか?
顔を覆った手を、ゆっくりと下ろした。
目の前に、ミーシャがいる。ガラスの殻に閉じ込められた、小さな体。
ウーノは寝台に歩み寄り、腰を下ろした。
ミーシャの下腹部に、そっと手を置く。生身の温かさ。刻印がある場所。
仮に、今この瞬間、ミーシャが目を覚ましたとする。
自分は大喜びだ。間違いなく。
そしてミーシャが回復して、また魔法を使えるようになって。
自分の役割が、庇護者としての立場が、終わったとしても。
嬉しいだろうか?
……嬉しい。迷わず、嬉しい。
じゃあ、これは愛だ。ああ、そうに決まってる。
……本当に?
いや、今は悩んでいても、仕方が無い。
ミーシャが目覚めたとしたら、嬉しい。それは本心だ。
ミーシャに、自分がここにいると、伝えたい。それだけは、偽りのない願い。
伝えたいという衝動だけは、本物だ。
だから、妻がどうしたら目を覚ますか、生きる希望を取り戻すか、自分がここにいると気が付いてもらえるか、それに思考リソースを割くべきだ。
「……ミーシャちゃん。どうやったら、起きたいと思ってくれる?」
喉の動きで、食べ物が与えられていることを感じているのが分かる。排泄前の身じろぎもある。腹部のガラス化に対する拒絶反応もある。体の内側の感覚は、生きている。
食べ物で、何かを伝えられないか。味?温度?リズム?
答えは思いつかなかった。
ウーノは思考を切り上げて立ち上がり、夜の世話を始めた。オムツを確認し、明日の流動食の材料を確認し、床ずれを防ぐためにミーシャの体の向きを少しだけ変えた。
悩んでいても、手は止めない。ルーティンは崩さない。
最後に、ミーシャの額に顔を寄せた。ガラスの、冷たい額。
いつもなら、ここで『おやすみ、ミーシャちゃん』と言う。今まで毎晩、欠かさず。
口を開いた。しかし言葉が、出なかった。
喉の奥まで来ているのに、唇の先で引っかかって、音にならない。
自分は今、庇護者の立場に、女性の上に立てることに、『男らしさ』に、酔っているのだろうか。
その疑念が、喉から音を奪い、口を閉じさせた。
代わりに、ガラスに覆われた唇に、口づける。
冷たい、硬い。何の反応も返ってこない、ガラスの感触。
愛してる。これは愛だ。
そう、言い聞かせるように。
長く、長く、冷たいキスをした。
唇を離す。ミーシャの体は微動だにしない。
ウーノは立ち上がり、思い出したように少し慌てて、部屋のカギをかけた。
カチャ。音を立てて、カギが回る。
重い足取りでイネッサが寝ていたソファに歩いてきて、倒れ込んだ。寝転がって、目を閉じる。
天井を見上げた。木目の染みが、暗闇の中でぼんやり浮かんでいる。
なんだか疲れてしまって、瞼を閉じると直ぐに意識が遠のいて行った。
眠りに落ちる直前、ウーノは思った。
明日は、ちゃんと言おう。おやすみ、って。
思考はドロりと、暗闇に溶けた。
今回は明日日曜日の投稿はお休みになります。




