87、夜とレッスンと自己啓発(その一)
エリカはまずエースを座らせ湯気の立つ温かいお茶を出した。
「いきなりっていうのも緊張してしまうから……あ、安心してね? 変な物は入ってないから。お茶もクッキーも」
「ありがとうございます。あ、ナイジェルあれを……」
「かしこまりました。若旦那様」
そう言い、ナイジェルは持ってきていた包みをエリカへと手渡す。
それは金と蒼の包装紙が独特に輝いて、なんとなく重厚な存在感があった。
「……何よコレ?」
「若旦那様が、手ぶらも悪いからと紅茶の茶葉とチョコレートを……チョコレートはなんと一粒で、高級ランチに行ける値段だぞ?」
「ナイジェル、値段は言わないようにしてくれるかな」
ナイジェルの無神経さに思わず眉をひそめ、エースがたしなめる。
「……!! まあ、本当に紳士なのね……やだわ、あと十年若かったら私、本当にエース様に恋に落ちてたかも!」
そう、はしゃぐ彼女にナイジェルはいたずらっぽくニヤリと水を差した。
「残念だったな。十年若くてもそれは片思いだ。……若旦那様はすでに他の女の子に夢中だからな?」
「ナイジェル!!」
思わず声が荒げる。本当にこの執事は油断がならない! 彼には言ってよいことと悪いことが分からないのだろうか? ……それともあえて?
「はあ、こんな美少年に恋をされるなんて女冥利に尽きますなあ? いったい前世でどんな徳を積んだのやら」
そうのんきに言うアナベラには、少し独特の方言があった。
それがナイスバディ過ぎる身体に対し妙な「抜け」をあたえ、彼女の親しみやすい魅力になる。
「可愛い方だよ、若旦那様の義理の姉なんだ」
「「「ええっ!?」」」
「おい!?」
エースは本気で怒って、ナイジェルの肩を掴む。
……当然の反応だった。
「まあ、……その話についてもっと深く、掘り下げたいところだけど。取りあえず、そろそろレッスンに入りましょうか?」
その言葉にエースがビクッと肩を震わせた。
知らず顔が赤くなる。
脳内に一瞬。少年らしい想像が膨らむ。
「じゃあ、まず最初は基本のキスのレッスンから始めましょう。……これは歳と背の近いリリーが担当するのがいいと思うわ」
エリカがそう言いリリーを指名すると、リリーは勢い良く立ち上がる。
リリーは三人の中では凹凸はまだ控えめだったが、健康的なムチムチ感と少女の儚い華奢さが同居し、十代少年には十分に魅力的過ぎる存在だ。
「やった♪」
リリーは実に乗り気だった。
赤毛っぽいオレンジのカールがかった肩まである髪を揺らし、ピーコック・ブルーの瞳がキランと輝く。
リリーは早速エースの腕をとって立たせる。すると、エースの方が背は高かった。
「安心してくださいエース様。リリーはこう見えて……キスの経験は三千人超えてますから」
「……え?」
「ベテランなんですよ。私!」
「え?」
「じゃあ、まずは私からエース様にキスをしてみますね〜」
そう言いリリーはエースの唇をついばんできた。最初は、軽い口付けが徐々に深いものに変わっていく。
その中で最初は普通だったはずが、やがていきなり雷に撃たれたような快感がエースを襲ってきた。
快感はさざ波の様に押し寄せ、それはやがて船をも飲み込む大波へと変わり、稲光が加わり、エースを激しく大嵐の中の小船のごとく翻弄する!
「んぱっ!! ……いかがでしたか。エース様?」
リリーの唇が離れるとエースは赤い顔でふらつき、よろめいた。
「危ない!!」
倒れそうになるエースをナイジェルがとっさにその背中を支える。
「……ちょっ、リリー?」
エリカがギロリとリリーを睨む。
危うく大事な顧客がケガをしかけたのだから仕方ない。
「ごめん! だって超ミラクル可愛いんだもん☆」
悪びれた様子もなくリリーはペロリと舌を出す。
暫く、ぼーーーーっとなっていたエースだったがハッと正気に戻り、自分の醜態に耳まで赤くなった。
「ごめんなさいね、エース様。……今のはリリーの悪ふざけが過ぎたわ!?」
美しい褐色肌のエリカが怒りながら、すまなそうに謝ると、エースは恥ずかしさから俯く。
「いえ、申し訳ない。こんな恥ずかしい格好を晒してしまって……」
そう言い、なかなか顔を上げられなかった……しかし、もちろんこれでは終わらない。
「じゃあエース様、今度は私にしてきてください!」
リリーはそう言い再びエースを自分の前に立たせた。
「ではでは、どうぞ、どうぞ!!」
「…………」
どうぞと言われても……正直エースはアニエス以外。自分からキスをしたいとは思わない。
でも、ここで引けば、アニエスはセオドリックの魔の手に堕ちてしまうかもしれないのだ。
(この人はアニエス、この人はアニエス、この人はアニエス…………!!)
エースは心の中で好きな人の名前を何度も唱えながら、自己暗示をかける。でなければとても自分からは唇を重ねたり出来ない。
リリーは十分に魅力的だが、エースにとってのアニエスは別格で……誰よりも特別だ。
エースは「ふー……」と呼吸を整え、拳をぎゅっと握って覚悟を決める。
リリーをアニエスと必死に思い込み……思い切って唇を重ねた。
最初は軽いキスをしていたが、リリーを真似てそれを徐々に深いものへと変えていく……。
目を閉じているからか、途中からは本当にアニエスと思ってキスをしていた。
唇を離すと、リリーはキラキラした視線をエースに投げかける。
「……気持ちが乗っていて愛のある素敵なキスでした!!」
それを聞いて思わずホッとする。
「………十八点!!」
――のも束の間、いきなりこの美少年は天井から急転直下へと地面に落とされた。
(ひっく! 点数ひっく!! …………低過ぎるよ(驚愕)!!)
これまでの人生で、満点かほとんどそれといっていい点数しか採ったことがない。ましてや落第点未経験なエースは、軽く脳しんとうを起こしかける。
「まあ、初心者にしては悪くない点数ですよ?」
リリーはそう言い小首を傾げてみせる。
(俺、果たしてやり切れるのかな? ……精神的な意味で……)
「じゃあ具体的にアドバイスしますね! まず……」
そう言いリリーのしてくれたアドバイスは思いの外、微に入り細に入り、他の人で手本を見せつつ細かくアドバイスをしてくれた。
本当にまるでそれ専門の授業を受けているようだ。
「じゃあ、もう一度!!」
何度も繰り返され、修正され、応用も教えられる。エースは最後は唇が若干ひりついていた。
こんなキスのスポ根……略して“キスポ根”が、かつて歴史上あっただろうか?
「ん~~~~!! 今のは良かった。六十三点です!」
って、それ、まだまだ及第点と言えないのでは?! エースはそう思いゲンナリする。
「……ナイジェル。今日はもう遅いし帰ろう」
「いいんですか!? まだキスだけじゃないですか……!」
「もう口が腫れてきて……これ以上は明日、顔に出て障りがあるから。……ここへは、また来ちゃダメなのかな?」
「もちろん大丈夫ですが……その分、金がだいぶ掛かりますよ?」
「いいよ、僕も一日でセオドリック様に追いつけるだなんて思ってない。……ここまでしてもらったら、逆に全然安いくらいだ!」
そう言いエースは用意していた封筒を手渡した。
中にある小切手の破格の金額に、エリカは驚いて思わず口から唾が出そうになる。
「すみません。また時間をいただく形になってしまいますが、よろしくお願いします!」
「いえいえ、エース様ならいつだって大歓迎よ!」
「今日は楽しかったわ♪ エース様!! ……久々に燃えちゃった!」
「ほな、気を付いつけてねえ~!」
挨拶を済ませ……。
ナイジェルに呼ばせていた馬車に乗り込むと、玄関先から三人がまだ手を振ってくれていた。
エースは、それに手を振り返しながら馬車のドアを閉めさせ、その場をあとにする。
「……悪い人たちでは無さそうだ」
「普通にいい奴らですよ。仕事で手を抜かないし! それにしても凄い金額渡してましたね……相場わかっていますか?」
「……だからあんまり値段のことを言うな。下品だぞ!」
「若旦那様はあんな金額、屁でもないのかもしれませんが……人によっては人生が変わる金額なんですよ?」
「それでも、お前は公爵家……ロナ家に仕える身になんだ。慣れてくれ」
ナイジェルはふっと笑い、面白い臨床試験の対象でも見つけた医者の目で、エースを眺めている。
「本当、お金ってある所にはあるんですね? 俺もお金にそんだけモテてみたいものです!」
「………」
馬車は、王都のロナ家別邸に向かい吸い込まれて行く。
エースは自分の生活に今まで疑問を大して抱いてこなかった。
それというのも、付き合う人間の生活水準は大抵自分と同水準か、それより少し低いくらい……。
これまで金銭のことなど深く考えたこともなかったのだ。
だが今夜は、なぜかそれが“いけない事”でもしてるように胸の奥に小さな棘になって刺さり……、自分が少し恥ずかしくて胸がざわつく。
まだまだ自分の知らない世界の扉は開いたばかりで、エースはそれに自分が馴染めるのかが、まだわからない。
けれど、それは、確実にエースを塗り変えようとするものだったのである。




