54、【閑話】実家と飼い犬
十五歳となったアニエスは、三年余り続いた王宮での行儀見習いという名の人質生活を終えた。
社交界デビューを目前に控え、王太子の私的な依頼も無事に果たし――この物語は、そんな節目の頃から始まる。
アニエスは実家ロナ家のマナーハウスに戻っていた。そして――。
「アザクワちゃん、もふもふー」
愛犬にしだれかかり人生最大級にだらけている。
思えばアニエスの人生は、常に全力疾走だった。
十代にして「実は三、四十なのでは?」と王太子に本気で疑われるほどの濃縮還元人生。
その走りっぱなしの日々に、今やボーナスのような空白期間が訪れ、彼女は初めての“ニート生活”を堂々と謳歌していた。
「お嬢様、何を昼間までそんな寝間着でウロウロしているのですか」
「……あれ、アレク? 学校に戻っていたのではなくて?」
アニエスががばりと顔を上げると、背丈も体格もすっかり伸び、優れた麗貌を残しつつも、確かな男らしさを纏い始めたアレクサンダーが静かに起立していた。
「エールロードの全単位を取り終えたので、特別休暇をもらったんです。大学入学論文の準備もありますから」
ダークカラーのフロックコートに身を包み、いつもの髪型とは違い前髪をなでつけてオールバックのようにした正装の装いは、本当に一見の価値ありの超男前である。
「僕のことより――あなたはもう年齢的にも正式なレディーなのです。どうか、それ相応のお召し替えを」
「……こんなにも心穏やかに過ごせるのは初めてなのよ? たまにはいいではないの。正直、下着をつけるのすら億劫なくらいなの」
アニエスは基本的に寝間着の時は下着を有さない。
そちらの方が寝るときに血行に良いからそうしては!? とコーラにも勧められたからだ。
つまりこの柔らかな布の下には、彼女の生まれたまんまの姿が一糸纏わず潜んでいる。
「…………でしたら、なおさら」
「ええ~」
アニエスは本当に面倒そうに顔を歪めた。
「そんなに着替えをさせたいのなら、アレクサンダーが私を運んでくださいな。今の私は立ち上がれそうにないのよ。……ねえ、アザクワー?」
ボルゾイのような美しい毛並みの犬は毎日専用のメイドがその毛を丁寧に梳かしているため、触り心地はまるで天国である。
「何を甘えたことを……はあ……では、お部屋まで運べば宜しいのでしょうか?」
「わーい!!」
アニエスが両手を広げると、アレクサンダーは慣れた手つきでアニエスの背中と膝の下に自分の腕をすべらせる。
同じくされ慣れているアニエスがアレクサンダーの首に腕をぎゅっと絡めた。
「……お嬢様あまりしがみつかないで下さい」
アニエスはその細腕をしっかりとアレクサンダーの首に絡め、生意気な弾力を伴う柔らかな胸をアレクサンダーのその硬い胸板に押し付けている。
「だって、こうしないと落ちるでしょう」
「絶対に落としたりしません。慣れておりますから」
「そうかもしれないけど、こっちの方が体勢として落ち着くわ?」
昔から知るアレクサンダーの体温と鼓動がアニエスには心地良いのだ。
「……じゃあもう、好きにしてください」
そういうと心なしかアレクサンダーは急ぎ足で、アニエスを部屋に運んでいく。
「ありがとうアレクサンダー! 帰って早々こき使ってしまって申し訳なかったわ」
アニエスはニコッと笑う。それから……。
「おかえりなさい」
とアレクサンダーを優しく迎えた。
「ただいま戻りましたマイ・レディー」
「もしかして部屋が熱いのアレクサンダー? 顔がだいぶ赤いみたい」
「いえ、これは個人的な事情で……別になんともありません」
アレクサンダーはそう口にして先程からアニエスから僅かに視線を外している。
「主人が話をしているのに目も合わせないなんて無礼、随分と貴方らしくないのではなくて? こっちを向いてアレク! 貴方の綺麗な顔がよく見、え、な、い、でしょう!?」
アニエスはお気に入りのアレクサンダーの綺麗な顔を見たくてしょうがないのだ。
「お嬢様の着替えは終わりましたら、飽きるほどご覧に入れますよ。しかし今は駄目です!」
捨て台詞と共に、そそくさとアレクサンダーは部屋を出ていき、代わりにヤング・レディーズ・メイドのコーラがアニエスの自室に入ってくる。
「コーラ! 何だかアレクが私を避けるてるわ? 酷くない!?」
「……お嬢様。年頃の男の子にいささかその恰好は刺激的が過ぎます。……しかもここまで運ばせたのですか? それは何という拷問に近いご褒美」
「いったい何を言っているのコーラ?」
訳が分からないと、アニエスは再びベッドの上をゴロゴロする。
「お嬢様お早くこちらに! アレクサンダー様のおっしゃる通り、いつまでもその恰好でいては周りに示しが着きませんよ?」
「本当、責任ある身分はゴロつくのもままならないのね……面倒くさいなあ、っもう!」
アニエスは寝間着を脱がされて裸になった。
コーラがいつも絶賛する。その身体――アニエスのそれは、内側から光を放つかのように玲瓏な肌を湛え、神に偏愛されたとしか思えぬ黄金の均整を極めていた。
煌やかで妖しいその美は、見る者をただ静かに慄かせずにはいられない。
「本当にクラウディウス様ではございませんが、絵にして後世に残せないのが口惜しいほどですわ」
コーラがため息をつく。
「なにを大袈裟な……コーラは、数千回も見たこの身体にいい加減、目も飽きてきているはずよ?」
アニエスは呆れて、その白金の髪をかき上げた。
そうしてそのまま裸で椅子に座り、邪魔になるほどの美脚をゆっくりと組んで、まるで女王のような堂々たるポーズでエッヘンとする。
「お嬢様! はしたなのうございますよ!!」
コーラはそれに眉を吊り上げアニエスを叱った。
「おっ、良いことを思いついた。コーラ、コーラ! アザクワをここに連れてきて?」
「はあ、また何故?」
それにアニエスはふふんと得意げな顔になる。
「裸でアザクワに抱き着いたら、あの素晴らしい毛並みを全身で感じられてきっととても気持ちいいと思うの! ねえ、いい考えだとは思わないコーラ!?」
「お嬢様は、普段からそんなことを自然に申し上げているのですか? ……殿方の前でも?」
「何を言っているの? こーんな、くだらないことを聞いてくれるコーラのような人がいない所で、わざわざ言ったりしないわ! ……そんなことよりも早く早く!」
「……本気なんですか? では、少々お待ちを」
コーラは、アニエスのワガママに仕方なく部屋を出た。
「まだ、しばらく掛かりそうですか?」
ドアを閉めると、外で待機していたアレクサンダーがコーラに話しかける。
「お嬢様がふざけ出したのでだいぶ掛かると思いますよ? 一度、自室に戻られては?」
「何を言い出したのです。……またあの人は?」
それにコーラは目をきらりと光らせ、困ったようなそぶりを見せつつ、わざとらしくアレクサンダーに話しだした。
「ええ……そうなんですよ? 今からアザクワを連れてこいなどとお嬢様が申し上げるんです。きっと裸で抱きついたら、その素晴らしい毛並みが素肌に気持ちいいだろうから……と」
アレクサンダーがそれを聞いて、ビクッと身体を震わせた。
「ほ〜んと、困ったものでしょう?」
その反応を楽しむように、コーラはニヤニヤとその口元に笑いを浮かべる。
「……そう、ですか」
アレクサンダーはそっぽを向きながらも応える。
「因みに今も、お嬢様は、は、だ、か、でそのドアの向こうでお待ちですよ?」
「そうですか」
「その豊かで色形の良い胸を弾ませな、が、ら、ね?」
「…………………」
アレクサンダーが首や耳まで赤い顔で、ギロリとコーラを睨む。
「ふふふ……同僚をからかうのって、どうしてこんなに楽しいんでしょう?」
「だから美人でも独身なんですよ」
「おほほほほ! 美形のアレクサンダー様にお褒め戴き恐縮ですわ〜!」
肌つやも心なしか輝かせ、コーラは鼻歌交じりにアザクワを連れに廊下の奥へと去っていく。
その背を見送りながら、アレクサンダーは一つ息を吐き、鋭く表情を引き締めると、扉をノックした。
「お嬢様、近くにおいでですか?」
間もなく中から返事があった。
「アレクサンダーどうかしたの?」
「コーラから伺いました。そんな格好で歩き回っていては風邪を召します。どうか今すぐ何か羽織ってください」
それに対してしばらく無言になる。
と、思ったらいきなりドアが開き、アニエスは顔だけひょいと出してきた。
それにアレクサンダーはぎょっと驚く。
「アレク、聞いたなら何故、私が裸なのかも聞いたのでしょう? 私の壮大な計画を邪魔しないで!」
アニエスは口を尖らせた。
「そんな馬鹿な計画は今すぐ頓挫して下さい。はしたない!?」
アニエスは舌を出して挑発する。
「いやよ!! もう計画は動いてしまったのだから! 誰にももう止められないわ?」
アレクサンダーは頭を抱えた。
「こんなことなら、あのままにしてお部屋に運んだりしなければよかった……」
「何よ、とってもいい考えなのに! この良さがわからないというなら、貴方も裸になって一緒に参加してみる?」
「……え?」
「きっと、最高だよお!! もふもふのふわっふわで! ……きっと雲の上にいるような心地がするでしょうね?」
アニエスは、はしゃぎながらそんなことばかり想像していたが、アレクサンダーは違う想像が一瞬、頭をよぎった。
アレクサンダーはその邪な想像を振り払おうと頭を強く振る。
「ねえ、アレク中に入ってきて?」
「いい加減にして下さい」
「だって、せっかくなら、やっぱり仲間がいた方が楽しいじゃない」
「僕を巻き込まないでください!」
「いいから、いいから……ね?」
アニエスはアレクサンダーの手を掴み部屋に引き入れた。思わずアレクサンダーは目を瞑る。
「……アレクお願い目を開けて……?」
アニエスはアレクサンダーの手を両手で握りしめて囁く。
アレクサンダーは激しくなる心臓の鼓動に、熱くなる耳に、身体が強張る。
しかし、アニエスが今度は優しくアレクサンダーの瞼に触れた。その時、アレクサンダーはつい目を開けてしまった。
そこには裸のアニエス……。
………では無く、ガウンをしっかり着込んだ姿のアニエスがいた。
「ぷっ。……あはは! あはははははははは!! まさか本当に私が裸だと思ったの!? いくらふざけてるからって、いい年してそんなことをするわけないじゃない!? あはははははっ!!」
アニエスはお腹を抱えて笑っている。
からかわれたことに気付いたアレクサンダーは、しばらく黙っていたが……やがてゆっくりと歩き出し、アニエスの両腕をガシッと掴んだ。
「はははははっ……えっ?」
「ふうん?? 冗談でしたか……それはそれは、本気で心配する従者に、なかなか結構ですね?」
「ア、アレク……? そんな別に私は軽い冗談のつもりなだけでね?」
「そんなに裸が宜しいのなら、今この場でひん剥いて色々お仕置きして差し上げましょうか?」
「あのね? た、確かに悪い冗談が過ぎたけど、で、でもね??」
「お嬢様はいつぞや言いましたよね? ……飼い犬に多少噛まれても構わないと……」
「い……言ったかなあ? ……言ったかも……?? けどそれは、言葉のあやというものでありまして…………えーとえーと」
アレクサンダーはアニエスの耳元で今にも耳に噛み付かんばかりに近づき囁く。
「飼い犬に……鳴かされてみますか? お嬢様」
「!!?!」
こうしてアニエスは手痛く、可愛い飼い犬に噛まれたのであった……。




