43、怪我と布巾
それはアニエス達の夏の休暇から遡ること、約一年程前――。
アニエスは、ゴソゴソと真夜中にテントでその身を起こした。
エースとアレクサンダーの二人は、一緒に川の字で寝ていたが、まるで泥になった様に今なお深い眠りについている。
そんな二人を起こさぬよう、そっとテントの入り口を頭で開け、アニエスは外に這い出た。
外には、見張りもいないのにエースの魔法で火の塊がパチパチと爆ぜながら、魔方陣の上に浮かんで燃えている。
(……さて、どうしたものかな)
アニエスは、急遽お湯を欲していた。
何故ならどうしても体が拭きたかったのだ。
竜との壮絶な戦いを終え勝利を収めたものの、その戦いにおいてアニエスは両腕を折っている。
過酷な旅で匂いなど気にしても始まらないが、流石に、汗や砂や汚れが服の中で、べたべたぐちょぐちょと自分にまとわりつく今の状況に、ついに身体がその不快感による悲鳴を上げていた。
我ながら、かなり器用にも御不浄はそれでもどうこうできたのだ。
しかし、さすがに湯は沸かせないかもしれない……試しに、真鍮の鍋の取っ手を口で掴めるかと試してみるが……うん! これは無理そう。
「気持ちが悪い……」
竜は実に便利な存在で、他の二人は竜の水と光の魔法で特に自分で魔法を使わずとも、汚れが勝手にあっという間に浄化したらしい。
けれど、アニエスは魔力そのものが備わっていないため、せっかく捕まえた竜も冬眠するようにすぐに深く眠りに落ちてしまい、アニエスにはしてくれなかった。
二人は心配したが、つい強がって、その場では平気だと言ってしまったのも悪い。
「…………はあ」
このままほうっといたら、汗疹が全身に出来るだろう。
それが擦れて切れたなら、全身血だらけになるのだろうか? しかも、こんなばい菌だらけの場所で……。
アニエスは何だか悪い想像ばかりしてしまう。
すでに、少し痒くなりだしてもいた。
アニエスがそんな風に密かに焦っている中、彼女の丸めた背中にふいに声が掛かった。
「……眠れないのですかお嬢様?」
アニエスの後ろに立つ火に浮かび上がる少年は、テントからやっと出てくるようなボロボロに疲れている状態でも、その姿はなおも燦然と美しかった。
火が揺らいでその光が反射し、彼の瞳はいつもより更に煌煌と輝いて見える。
「あ、……お湯がほしくて」
「それでしたら僕が沸かします」
アレクサンダーはそう言うと、アニエスの願いをすぐに叶えてくれる。
「……お茶をお入れしますか?」
湯を沸かすその目的が喉が乾いたからかと思い、アレクサンダーはアニエスに尋ねた。
「ううん、違うの……ねえ、アレクサンダー。お願いを一つだけ聞いてくれる?」
それに少年は少女のおふざけの一切無い深刻そうな様子に、もちろんその首を縦に振る。
「僕にできることでしたら、何なりとおっしゃってください」
「……………服を脱がしてほしいの」
ホウホウとフクロウが遠くの方で鳴いている声がした。
「……えっ……」
「体中がべたべたとして、あまりに不快でとても我慢できないの! でも、この腕では難しくて……今はどうしても貴方以外には頼めそうにない。どうかお願い、お湯で濡らした布巾で、私の身体を拭いては貰えないかしら……………駄目?」
アレクサンダーは返答をいつも明瞭簡潔に返している。
だが、この時ばかりは激しい躊躇が見られ、彼は口ごもってしまった。
しかし彼は、ふと自分の主人であるアニエスの様子を改めて観察する。
その不快感から苦悶の表情を浮かべ、額には脂汗を滲ませる姿を瞳に捉えたその瞬間――。
アレクサンダーはアニエスに応えた。
「かしこまりました。やってみますので痛かったら言ってください。……それでも少し、我慢が必要だとは思いますが……」
まずはアレクサンダーがアニエスが身につけていた細かい装飾品を全て外し。腕を通した三角巾を取り外す。
腕に触れるのは最低限に止めたが、それでも痛みに一瞬仰け反る様にして「んうっ」と、アニエスは小さな声を上げた。
アレクサンダーはそれに少しでも痛くないように、上着をより早く丁寧に脱がす。
手を返してそのままその下の服も脱がせ、アニエスの上半身は肌着一枚の状態になった。
「…………」
アレクサンダーは覚悟を決め、上半身の最後の一枚を脱がすことにした。
だがその前に。
「……お嬢様。あちらを向いていただけますか?」
せめて正面は避けようと後ろを向いてもらう。
肌着をそっと脱がすと、白い肌が限界点に達したように赤くなっていた。
このまま放っておいていたら、間違いなく大変な状態になっていただろう。
アレクサンダーは清潔な布巾を何枚か用意し、お湯で絞ると彼女の小さく細い背中に布巾を滑らせた。
「んんっつ!!」
すると、彼女から押し殺すような、かん高い声が口から漏れた。
「!! ……痛かったですか!?」
「ち、違うわ! 続けて」
しかし、拭くたびにアニエスの口から「んっ」「っや」「あっ」と、声が漏れる。
いったいどうしたというのだろうか!?
「お嬢様、正直にお答えください。痛いのではないですか!?」
アニエスは赤い顔で振り返り、恥ずかしそうに首を振った。
「……本当に痛くはないの。ただ触れられるたびに背筋がぞくぞくとして……勝手に声が出てしまうの……やりにくくして、本当にごめんなさい!」
そう瞳を潤ませた。アレクサンダーはそれを心から気の毒に感じ同情せずにはおられない。
「そうだったのですね……。では手早く済ませますので、どうか、もう少しだけご辛抱ください!」
出来るだけ手際よく、だけど丁寧に労わるように手を動かす。
そうやって背中側が拭き終わると、アニエスが振り返る気配がした。
アレクサンダーは視線を斜め下に下ろす。
その視線のまま彼女の身体を拭こうとしたが、それだとどうにもなかなか具合が好くなかったようで、アニエスは堪まらずに声を掛けた。
「……アレク、お願いこっちを向いて?」
アレクサンダーはそう言われぎこちなく前を向く。
しかしその上半身のほとんどが、アニエスの白金の髪で覆われていたため、アレクサンダーは、ほっと息を吐いた。
……それも束の間。
「髪が邪魔だから避けて?」
と言われてしまう。
アレクサンダーは先程から、やたら自分の喉が異常に乾くのを感じながら、その髪を後ろに流した。
初めてまともに目にする彼女の裸体は、最初、ただただその美しさにアレクサンダーに息もできないほどの感動を与えた。
理屈とかではなく……自然な感情として「綺麗だ」と思わず口にしてしまいそうになる。
そんな綺麗なものに触れるのが、何だか人が触れてはならない……限りなく神聖なものを汚す罪な行いの様で、改めて彼の手を迷わせそうになった。
だが、意を決して彼は彼女の柔らかな肌に、布を滑らせた。
「はあ……は、気持ち……いい……」
不快感が徐々にその身体から汚れとともに取り除かれる。
アニエスの口元がわずかに微笑んだ。
腕から、肩、首、鎖骨、脇腹、臍の辺りと拭いていき、彼はいよいよ避けるだけ避けてきた場所に手を伸ばさなければならなくなる。
「………………」
体中が心臓なんじゃないかという程、すでにドクんドクんと全身が音を激しく響かせいているが、その瞬間は殊更、心臓の音がまるで子ネズミの様に早まった。
………竜と対峙した時でさえ、アレクサンダーはこんなに緊張しなかったのに?!
アニエスの胸はまだ女性というには遠かったが、明らかに男子である自分達とは異なっていた。
真ん中から尖る様にわずかに膨らみ。先端は艶めいて、ごく薄い紅色をしている。
(っ………………神様!!)
アレクサンダーは本気で神に祈ったのは、アニエスが竜に対峙するために忽然とその姿を消したため、その彼女の無事を祈りながら、彼女の後ろ姿を追った時だけ。
つまりこれで、まだ数えて二回目だったが……この時ばかりは本気に真剣に祈らずにはおれなかった。
彼はこの短期間に、彼女のためにまるで真摯な神の下僕のような……そんな姿になり変わろうとしている。
……何も感じるな!! とアレクサンダーが考えれば考えるほど、皮肉にも逆に指先の感覚は鋭さを帯びた。
柔らかく、もう若干のはずみを感じるそれに触れた時、彼は本当に自分の全身が蒸発したように思う。
アニエスは何も言わなかったが、いま何を考えているのかを聞くのが、酷く恐ろしかった……。
上半身をそうして無事に拭き終える。
一番上の上着以外の服を新しいものに変え、アレクは素早くそれをアニエスに着替えさせた。
『神速』と言っていい速さだった。
竜との闘いよりずっと激しく心臓を酷使し、アレクサンダーは疲れ切っている。
するとそのアレクサンダーの頑張りに、アニエスは心からのねぎらいの言葉をかけた。
「私の我が儘を聞き入れてくれて、ありがとうアレクサンダー。本当にすっきりすることが出来たわ!!」
そう言って天使のような笑顔を見せてくれた。
……この顔を見れたのなら、やった甲斐もあったというものだろう。
さあ、片付けて寝ようかとアレクサンダーが立ち上がろうとしたその時。
――アニエスは、さらに続けて言った。
「じゃあ、次は下をお願いね?」
「……………」
「下も、もうぐちゃぐちゃで酷い有様なの。……それではお願いします! アレクサンダーさん!」
アレクサンダーのその夜の戦いは、まだまだこれからが本番である。
※この話を書きたくてこの物語を書き始めたと言っても過言じゃありません。




