37、神と変態
(……退屈だ)
クラウディウス。彼はこの世のほぼすべてに興味がない。
神と見紛うほど恵まれ過ぎた身で生まれた彼に、この世はあまりに容易すぎる。
ゆえに世界はただ退屈だけを積み重ねていく場所だった。
この超超超超超超……超イージーモードな人生。
それは彼から価値の感覚を奪い取り、やがて自らが生まれた意味すら盲目にさせた。
彼が帝国で皇帝に担ぎ上げられるや否や、阿鼻叫喚の災厄、困難、貧困が雪崩のように彼に向けて押し寄せてきた。
けれど、けれど、だけれども……彼には理解ができないのである。
それが、いかに人々にとっては難しくて、ひどく深刻なのかが。
だって、彼の手にかかればそれらの問題はあまりに手軽すぎて、手応えというものがなくて……。
退屈を紛らわせる暇つぶしにすら、なってはくれなかったから――。
一方で、救われた多くの人々は、その鮮やかな功績に酔いしれた。
かつて彼に刃を向け、暴言を吐き、反抗していた者でさえ、いつの間にか頭を垂れてひれ伏している。
溢れる賞賛は、もはや耳に馴染みすぎて雑音だった。
そんな世界で、彼の心を静めるものはただ一つ――あの世へと続く静かな道だけ。つまりは死。
そんなまさに“死ぬほど退屈”な彼が十八歳の誕生日をむかえた。
ゆえに約束されていた通り、彼はかつての生家を訪れることになる。
そういえばこんな場所だったとは思うが……それ以外の感想は特に無い。
両親を見ても、確かにこの人たちが親だったな……その程度のそれ止まりだ。
彼の胸には、希望という感情がない。
ゆえに彼は、皇帝になってすぐに、人々の期待を一つ残らず何もかも引き受けることにした。
秩序を壊さず、良識を踏み外さず、誰かを深く傷つけぬことが無い範囲で……。
ただ無心に、ただ正確に――まるで完璧な機械みたいに……。
それだけが、彼にとっての生の証明だった。
だから、この両親と言われる人たちにも喜ばれるであろう態度を取ってしまう。……これは、もはや性でクセだ。
この退屈がいつまで続くのかと考えるたび、彼は暗い眩暈を覚える。
心も身体も腐らせる、『暇』という名の生き地獄。それに今なお堕ち続けていた。
……困難に涙し、何かに夢中になって我を忘れる者たち。
そんな人間が、時折どうしようもなく眩しくて、羨ましかった。
「陛下、宜しければ庭の散歩に出られませんか? ちょうど夏の生花が咲き誇って見頃を迎えております」
自分と同じ顔をした母に言われ、彼は優雅に頷いてみせる。
拒む理由も、抗う熱ももう無い。
何もかもが、ひたすらどうでもよかった。
だがその選択の先で――彼は、生まれて初めて知ることになるのだ。
心の底から身を焦がすほど愛し、抗えぬほど執着せずにおれない、その存在に……。
中庭を抜け、丘一面を花で埋め尽くされた場所を案内される。
いわゆる庭園様式とは違う野原や丘をイメージしてわざとそう作らせた場所だ。
空の広さと花畑のコラボレーションはまるで本物の天国のよう。
超大帝国ヴァルハラから来た皇帝に仕える者たちは、皆その光景に素直に感動している。
当の歓迎されている本人。そのただ一人を除いて……。
「どうか好きに見てお周り下さい」
そう言われて興味はないが、クラウディウスは中に踏み入ることにした。
先祖返りしてエルフそのもの。
聖なる絶対的美貌は天国とみまごう場所でも若干浮いてしまうほど神々しい。
しばらく歩くと花畑の中程で、花がざわざわ動いている場所があった。
クラウディウスはウサギかと思い、何となく適当に手を伸ばしてみる。
すると花は一瞬動きを止め、次の瞬間がばっと盛り上がった。
「…………」
現れたのは一人の小さな九歳位の女の子。
白金の髪は、光そのものを撚り合わせた糸のようにゆるやかに波打ち。
肌は熱いミルクみたいに、白く滑らかで柔らかく、皮膚のすぐ下には抑えきれない熱が張りつめていた。
小鹿を思わせる、たっぷりとした睫毛がふるりと震えるたび……その奥で虹を宿すオパールの瞳が、キラリ、キラリと強く幾重にもなって光を反射している。
クラウディウスはその姿を目にした瞬間。
心臓がドドッと沸騰し、ドクドクと血流が激しく、全身に熱い血が巡りだすのを感じた……。
胸に迫るこの気持ちはいったい何なのか!?
胸が乱暴にかき乱され、ガンッと掴まれ、苦しくて切ないような、泣きたくなるような……燃えるような気持ちが一瞬にして湧き上がる……!!?
「誰です……?」
花や葉っぱを髪のあちこちに付け、きょとんと見つめるその瞳。
歯が生えかわる時期のなのか、小さく開いた口にはかわいい歯がところどころ欠けて、前歯がウサギみたいになっている。
クラウディウスは、その瞳いっぱいに自身が映っているのを見ただけで、なんだかもう居ても立っても居られず、辛抱堪らなくなった。
気付けば、彼はその少女を力いっぱいに抱き締めている。
カランと空虚だった心に激流とともに、なみなみと心地よい熱い感情が一瞬にして心と脳を満たして、やがて溢れた。
しかし、抱き締められた本人は、知らない不審人物にいきなり力強く抱き締められたため、いったい何事かと緊張で体を強張らせた。
「!!?」
クラウディウスはその時、自分の実の妹であるアニエスという少女を己が人生で生まれて初めて、心底欲しいと渇望したのである。
(……連れて帰りたい、今すぐに! この手の中に永遠に永久に収めたい!!)
とそう強く。
「あ、アレクサンダー! エースう!! 助けてえええ!!」
腕から漏れ聞こえる、囀る可愛い声さえ取り逃したくなくて愛撫したい……。
……そうクラウディウスが願ったのに、次の瞬間二人の美しい少年の手に、あっさりとアニエスは奪われてしまった。
「こわかったよおおおおお!!」
アニエスは無我夢中で銀髪の少年と黒髪の少年にしがみつく。
少年たちも警戒心を顕わにした強い瞳で、少女をかばう。
緊張がその場に一瞬走った。
「――アニエス! エース! アレクサンダー!」
そこでアニエスの母であり、クラウディウスの母でもあるディアナの声が後ろから響いた。
駆け付けたディアナは、三人の前にしゃがみ込むと三人に厳しく言いつける。
「無礼ですよ! この方は帝国ヴァルハラの皇帝陛下であると同時に……アニエス。貴方の実の兄君にあらせられます。きちんとご挨拶をなさい!」
それにアニエスはポカンとクラウディウスを見上げた。だが、次の瞬間。
「………絶対にイヤだ!」
と、完全拒絶の姿勢をみせた。
「あ、ああアニエス!? 貴方……いつも、ご挨拶はきちんとできているでしょう!?」
母ディアナが、顔を真っ青にして慌てる。
他のロナ家の使用人たちも血の気が引き、顔がひきつった。
しかし一人クラウディウスだけは、人生初めてのはっきりとしたその愛しい拒絶に、背中をゾクゾクッとさせて歓喜にその身が悶えて震えている。
「……いや失敬、私がいけなかったのです。いきなりあのような態度に出て、ひどく驚かせてしまったのでしょう。朕は、ヴァルハラ帝国の皇帝クラウディウスであり……そしてそなたの兄です。はじめまして我が妹君」
にっこりと微笑めば、大輪の薔薇さえもじもじと恥じらう麗しさ。
……けれどアニエスはその笑顔を、じつに胡散臭そうに睨んだ。
「コホンッ……エース、アレクサンダー、先にご挨拶を」
ディアナはアニエスをいったん保留にし、先に二人に挨拶を促す。
「――ヴァルハラ帝国の皇帝陛下。ロナ家が嫡男、エース・ロナ・チャイルズ・アルティミスティアです。お会いできて光栄にございます」
「ヴァルハラ帝国は皇帝陛下。アニエスお嬢様の専属第一従者のアレクサンダー・ライザーマンです。ようこそ当家にお越しくださいました。心より歓迎いたします!」
二人が挨拶するのを見て、アニエスは渋々といった感じでスカートのすそを持ち上げ挨拶をする。
「……ヴァルハラ帝国は皇帝陛下。ロナ家の長子、アニエス・ロナ・チャイルズ・アルティミスティアでございます。…………どうぞお見知りおきを、お兄様」
そう、アニエスが「お兄様」と言った瞬間。
アニエスはいきなりクラウディウスに激しくその唇を奪われた。
――こうしてクラウディウスは、特大級のトラウマをアニエスに植え付けたのである。
◇◇
時は巡りアニエスは十三歳となった。
アニエスは、背筋にただならぬ悪寒をブルっと感じ身体を震わせる。
それは野生の勘が警鐘を鳴らして起こったとは本人すらわかっていない。
だが、取りあえずどこかに身を隠さなければ! という、その意識だけがはっきりとしている。
「アニエス? どうしたの、そんなにそわそわして……何か気になって?」
タニアにおっとりと尋ねられ、アニエスは慌てて首を振った。
「い、いえ、何も!」
「そう? ならいいのだけど……」
アニエスは自分の心臓におちつけー、鎮まれーと言い聞かせる。
しかしアニエスは知っていた。自分のこういう勘は案外、馬鹿にならないということを……。
「本当、夏はアニエスのご実家の別荘にお邪魔できるのが今から楽しみだわ!」
タニアはニコニコと夏の予定に顔をほころばせる。
夏の間の一ヶ月の間。
城は必要最低限の重要機関以外は、長期休暇に入る。
その間、宮廷行儀見習いのご令嬢たちも、実家に帰ったり旅行したり……一年の厳しかった行儀見習いから解放され、羽を伸ばす。
その例に漏れずアニエスも実家……というか、今回は実家の所有する大きな港町と、数々の島、それにエメラルドとサファイア色に輝く海をのぞむ別荘に、避暑で向かうことになっていた。
寄宿学校もお休みなのでアレクサンダーやエースも一緒だ!
けれど、この三人は竜持ちの人質という特殊な存在のため、監視役として軍の一部とタニアとセオドリックが一緒に行動することが、休みの必須条件となっている。
「タニア様……せっかくのご公務のお休みを、このように潰してしまい本当に申し訳ございません」
アニエスはそのことに実は結構、かなり胸を痛めていた。
もともとのご予定もあっただろうに……と。
だがタニアは向日葵のような笑顔で言う。
「何を言うの!? 私はアニエス達と夏を過ごせるのがそれは本当に楽しみで……指折り毎日数えているのよ? ああ、もお、本当に、なんて楽しみなのでしょう!」
タニアは本当に楽しそうに、うふふふっと笑って見せる。
その姿を見て、アニエスはほっと胸を撫で下ろした。
「それでしたら、本当に良かった!」
「アニエス一緒に泳ぎましょうね!! アニエスは泳げて?」
「えへへ、最低限ではございますが一応は泳げます。あまり得意な方ではありませんが!」
「水着はどんなのを着ようかしら? 良かったらデザインを合わせてみないこと!」
それにアニエスは自分の胸を見て、タニアの既にDカップはありそうな胸を見て、縮こまりながらボソボソと言った。
「……いっこうに構わないのですが、一部にからかわれる懸念が……」
「うふふ、お兄様にはよおく言って聞かせるから大丈夫よ。……どうか安心して!」
女の子同士キャッキャウフフとしていたら、アニエスは先程の警鐘がどうでもよくなってきて、ていっ! と頭の隅に投げて追いやる。
まさか、このあと大船団を中心に大船に乗った人物との、恐怖の一ヶ月を過ごさねばならないとは思いもよらずに……。
けれど、それもいた仕方がなかった。
夏休みは万人を浮かれさせる。
その例に漏れず、アニエスもかなり浮かれていたのである。




