32、公爵夫人の過去と愛する者(ニ)
「ご懐妊おめでとうございます!!」
神殿育ちのディアナは、俗世の社交界に戸惑い続けていた。彼女にとって社交界は異国のようだったからだ。
だが夫イライアスの惜しみない支えと支援を受け、ようやく貴族夫人として及第点を得られる頃——彼女は、イライアスの子を身ごもった。
法外の物理法則を無視するほどの魔力を持つイライアスだからこそ、ハーフ・エルフのディアナにも命は宿ったのだという。
――妊娠。
その一言が落ちた瞬間、指先が小さく震えた。
息が、うまく吸えない。
まさか、自分が。
自分の中に、命が。
胸の奥に押し込めていた何かが、ほどけるように滲み出す。
それは、涙よりも静かな歓びだった。
「……参ったな」
珍しく困ったように笑う。
「こんなにも嬉しいと、語彙が役に立たない」
彼女の手を取り、イライアスはそっと額に押し当てた。
「ありがとう、ディアナ。僕等の子を宿してくれて」
一呼吸置いて、声が低く甘く落ちる。
「君も、この子も、僕の世界だ。――ああ、いけない。紳士らしく振る舞うつもりだったのに!」
指先でそっとディアナの頬に触れ、堪えきれずに続けた。
「世界でいちばん愛している。……本当に、どうしようもなく愛している!」
そう言いイライアスは何度も何度もディアナにキスをお見舞いする。
「もう! イライアスったら……恥ずかしい!」
ああ、なんという幸福だろう。
これからはこの子と、イライアスと……いつまでも幸せな毎日が続くと思うとディアナは幸せ過ぎて目眩がした。
妊娠期間中のつわりは酷かったが、それを乗り越えお腹が大きくなり、子供が内側からえいやっ! と蹴ってくると、愛おしくて愛おしくてディアナは胸がいっぱいで、……幸せを何度も噛み締める。
イライアスは帰宅するや否や、上着も脱がずにディアナの前へ跪いた。
「こんばんは、我が宝」
まずは彼女の腹へ丁寧に挨拶をし、それから満足げに頬を寄せる。
「今日もよく頑張ったね。君はこの世で最も尊い存在だ」
そう言って、手ずから茶を淹れ、靴を脱がせ、膝掛けを整え、侍女が慌てて止めるほど細やかな世話を焼く。
「我が愛する姫君に仕えるは、我が誇りなり!」
妊娠は決して楽ではなかった。だが、ディアナは九ヶ月間、王宮でもここまでされまいというほど大切にされた。
ついに、出産日当日。
「く、苦しいいいい!! いや、いや、いやっ!! 死んじゃううううう……あぁん!!」
出産は難産だった。
ようやく五十四時間をかけて、子供は産み落とされる。
「おぁぁ、おああっ!!」
疲れて痛くて、ぐちゃぐちゃ。
だが元気な産声に思わず熱い涙がこみ上げ、こぼれる。
生まれたての我が子を助産婦に渡され、そっと抱く。
(……ようこそ、お姫さま)
小さく赤いその子は、トクトクと心臓の音がして熱いほど温かかった。
――それなのに!!
「いや……いい……いいいああああああああああああああああ!?!」
一週間後、その子は血だらけになって死んだ。
別に世話をしてくれてた者も、医者や看護師や助産師も、何かを失敗したわけではない。
いきなり元気だった赤子は穴という穴から血を吹き出し、苦しみ悶えて亡くなったのだ。
「どうして……どうし、て、えぇ!」
目の前が真っ白と真っ黒を交互に行き交い、あまりのことに呼吸が上手く出来ない。
地上なのにここは、まるで深夜の深海の底。
自分の中にある全ての感情が溢れ出てきて、脱水と貧血を起こす。
……それくらい、壊れたようにディアナは泣き叫び続けた。
(どうして死んだの? どうしてなの?!??)
先程まで絶対だった幸福が目の前でガラガラと崩れ落ちていく。
まるで愚かだとディアナをあざ嗤うかのように……。
間もなくして原因は明らかになった。
けれどそれは、あまりに残酷過ぎるもの。
「魔力が高すぎて、体が……持たない?」
人間離れした魔力はハーフ・エルフならまだその身体が耐えられる。
しかしその血が四分の一……クォーターだと、その身体はほとんど人間のものだ。そうすると、どうなるか?
もともと“半神”とまで言われ魔力は、その器である人間の身体に収まりきらず、魔力が溢れすぎて破裂しはじき飛び、器そのものをズタボロに切り刻む。
……そのため生まれて初めて魔力が発動した『魔力初動』と呼ばれるその日。
ディアナの最初の子は己の“ギフト”で死ぬことになったのだ。
女の子で、生まれながらにエレガントな風貌から『ジゼル』と名付ける予定だった……。
部屋には、ジゼルのために選び抜かれた品々が並んでいる。
小さな靴下を撫で、リボン一つにすら悩み、揺り籠の位置まで何度も夫婦で確かめた。
一つ一つ、真剣に迷い、笑い、未来を思い描きながら揃えたものばかりだ。
——だが今。それらは静かに整った新品のまま、誰にも触れられることなく、ただ置かれている。
持ち主のいない部屋は、完璧なまま、空だった。
恐ろしいほどの心の空洞。
けれどディアナは強かった。そのボロボロの亡骸をひしと抱きしめながらその子に誓う。
「……負けないわ……ママは負けない。……ええ、負けるものですか! 絶対に次は、私の赤ちゃんを……神にだって奪わせない! ――もう、絶対に死なせたりしないわっ!!」
けれど運命はそんなディアナを虐め抜いた。
授かった子は周囲を笑顔にしたその度に、次には一番深い奈落へと突き落とす。
天国から地獄の底に叩きつけるのだ。飽きもせず、何度も……何度も……何度でも…………………。
『オリアーナ』『メルティオール』『ヨハン』
新しい子どものための、揺り籠がやってくる。
使われずに処分する。
繰り返す。
『ダナディ』『セルバンテス』
ディアナは子供を失う悲しさと苦しさ、情けなさ、やるせなさ、不甲斐なさから――食事が喉を通らず、体重が三十ポンドも減り、ついには立っていられなくなった。
自慢の金髪も老婆のように真っ白である。
「忘れなさい」
「若いから次があるわよ」
「貴方は生き残ったんだから、本当に良かった」
「赤ちゃんのうちでよかった」
「これも試練だよ」
「前向きに考えよう」
「運命だったんだよ」
「次は気を付けて」
「そんな悲しんで……貴方より不幸な人なんて、たっくさんいるのよ?」
思いやりから来た無神経で無知な発言も……。
「子供がいると実際は大変よ? ほら、こんなに手を焼かせるのだから!」
「あら……ちゃんと自己管理してたの?」
「いいわね。これからも優雅な公爵夫人じゃない?」
「貴女は完璧だけど、子どものことが残念な唯一の欠点よね?」
そういう思いやりのフリをした、優越や意地悪の数々も……ディアナの心にひたすらに鞭打つ。
けれど、やがて奇跡は起きた。
七番目の子供は男の子。
生まれた時に元気に産声を上げる。が、ディアナはひたすら警戒した。
そして、『魔力初動』を起こした日……その子は溢れる魔力をすぐに魔法に変換し発動させたのだ!!
それは、ゼロ歳児が計算し字を書いてみせるほどのあり得ない光景。
だが、確かにその赤子はやって見せたのだ……魔法を……。
ディアナは驚きながらも、あることに気が付いた。
「この耳の形は……」
◇◇
「現象から判断するに、先祖返りと考えるのが最も妥当でしょう……」
言った本人もにわかに信じられない様子で、額に汗を流しながら続ける。
「魔力容量は歴代記録を大きく上回り、制御精度も異常な水準にございます——いえ、才能というよりは本能に近い」
一礼し、静かにこう結ぶ。
「恐れながら申し上げます。御子は、人の域を明らかに超えておいでです。神格、あるいは高位精霊に比肩する存在と推察いたします」
秘密裏に呼ばれた、口の堅いその専属専門医師は、そう診断を下す。
ほとんど人間ではない子供……だがディアナにはそんなこと、どうでもよかった。
(これでこの子は死ぬことがないんだわ。ずっと、一緒にいられる……!!)
我が子が死なない! それだけで今のディアナには十分である。
男の子の名は『クラウディウス』と名付けた。
ディアナはその後も二人の子供を妊娠出産したが、その子達もやはり早く亡くなる。
『マクシミリアン』と『エミー』と名付けていた。
悲しみは深かった。
だが、クラウディウスの存在が、彼女を辛うじて繋ぎ止めていた。
喪失が重なるほどに、ディアナの意識は彼へ集中していく。
守るという名目のもと、その関わりは次第に過剰になった。
「クラウディウス」
「クラウディウスッ!!」
「…………クラウディウス?」
――ほとんど、依存と呼んで差し支えないほどに。
クラウディウスはエルフの先祖返りらしく、容姿も知性も抜きん出ており、加えて底知れぬ強かさを備えていた。
「七歳にして、極大魔法と第一等級魔法を使いこなすなんて!?」
幼くして「神童」と呼ばれるに足る、恐るべき魔法の使い手だった。
クォーター・エルフである事実は厳重に秘されたが、その異能は隠しきれず、噂は国境を越える。
七歳にして、彼はすでに名を知られる存在となっていた。
ディアナは、そんな唯一の息子を溺れるように愛した。
それが、余計にいけなかったのだ。
ある日ディアナは国で唯一『魔女』の立場と尊称を許される姑に呼び出された。
彼女は通常、王宮の離宮に独自の居を与えられ、ほぼそこに暮らしている。
そのため会う機会は、嫁でありながら年に数える程度。
……いったい、この彼女がディアナに何の用事があるというのだろう?
「ローゼナタリアと同盟を結んでいる『ヴァルハラ帝国』が、政権争いに揺れ、一刻を争う状況にあるのは貴女もご存じですね?」
「……うわさ程度には」
ディアナは答えた。
(超大国の事情が無縁でないのは理解している。でも、それが今ここで語られる理由は?)
表情は崩さず、ディアナは内心で静かに身構える。
(まさか、ただの雑談ではないでしょう)
この人が、無意味な話をするはずがない。そういう確信がディアナにはあった。
「内戦となれば、多くの民が路頭に迷うでしょう。現状は、皇帝に相応しい後継者が不在であることが原因です」
魔女の口調は淡々として事務的だ。
それから話は続く。
「周辺各国で協議を重ねた結果、正統なる血筋を持つ我がロナ家から——」
一拍も置かずに続ける言葉は……。
「クラウディウスをヴァルハラ皇帝の養子とすることで合意いたしました」
「えっ?」
ディアナは言葉を失った。
「親なら子の将来を思うもの。大国の皇帝などという大出世。……親ならば当然、喜ばしいとは思わない?」
ディアナは何を言っているんだろう、この人は? と頭の片隅で思いながら、あまりのことに脳の処理が追い付かない。
「ですから明日にもクラウディウスを帝国に向かわせます」
「ま、……待ってくださいませ。クラウディウスは私の子で、まだたったの七歳ですよ? それなのに……!」
「あら? ……貴女こそ何を言っているのかしら」
国の大魔法使いは、さもつまらない戯言を聞かされているような、不快そうな顔で冷たく言い放つ。
「クラウディウスは貴方の子であるより前に……『ロナ』の血を引く者。最終的な決定権は『ロナ』家にありますよ?」
「――――っっ!!」
「そうでしょう? イライアス」
「!? あなた……」
「…………」
イライアスもいつの間にか魔女の離宮へ来ていたのだ。
ディアナは夫に縋るような視線を送る。
これまでずっと自分の味方で……どんな時も支え合い。
一緒に泣いて励まし、自分にひどい言葉をかける人間を容赦なく排除し、時に無情に処分した。
妻であるディアナのためなら、悪魔にも聖人にもなり、ディアナを愛した、たった一人の一生の伴侶。
「イライアス――いいえ、ロナ公爵」
魔女は静かに告げる。
「内戦の行く末は見えず、民の犠牲は甚大。さらに大国の混乱は周辺諸国の均衡を崩し、大火へと発展する可能性も高いです」
魔女は立っている自分の息子にチラリと視線を投げた。
「バランサーたるロナ家には、それを未然に防ぐ責務がございます」
その視線を逸らさずにさらに告げる。
「それとも、その義務を否定なさいますか?」
イライアスはディアナを見た。
真っ暗な悲しそうな目。しかし答えに一切の迷いは無かった。
「わが民はわが子も同然。民を苦しめるは『ロナ』としてあるまじき姿。クラウディアスを……皇帝の養子に出すことに、私に異論はございません」
「…………!!」
ディアナはよろめき床にへたり込んだ。
やっと生き残った最愛の息子を奪われる……そして、ずっと味方だった夫の思わぬ裏切り。
ディアナは、自分の中にぐるぐると渦巻く、どす黒い感情が、自分を飲み込むのを抑えきれなくなるのを感じた。
積み重なった怒り、哀しみ、喪失が、限界を越えた。
押し殺してきた感情が一気に噴き出し、魔力が彼女の内側から暴走する。
空気が震え、白い魔力が煙のようにもうもうと立ち上る。
「……凄い魔力。流石はハーフ・エルフだわ」
自分には無関係な出来事を、見物するように魔女は言う。
「イライアス。こうなることは予想して、ちゃんと準備はしてありますね?」
「……はい」
ディアナの体中からあふれ出る魔力が、やがて重みを増して、ミシミシと圧力がかかり、部屋の壁や床や柱をバキバキと潰していく。
魔女の小姓達が叫んだ。
「完全魔力防壁の……大結界のお部屋が!」
恐ろし気に、召使いや小姓たちがディアナをみつめる。
「ディアナ……」
イライアスはポケットから水晶を取り出した。
それを手の中で宙に浮かべて、まるで紙のように扇状に広げ、早口で古語の呪文を唱えだす。
扇になった水晶には古の魔方陣が浮かび上がり、ぽうっと光りだした。
壁が完全に壊され空が見えると、急に空の雲行きが怪しくなり、雲間に稲光が走りだす。
雷がゴロゴロと鳴り、ディアナに向けて稲妻が走ると、それは球体状にディアナの周りを走り、バチバチとディアナを取り囲む守りの結界となった。
「絶対に渡しなんかしないわ!! クラウディウスは私の息子なのだからーーーーッッ!!!」
イライアスの詠唱は続いていた。水晶はじっくりとその力を貯めている。
ディアナは手を振りかざし姑である魔女に向かい素早く雷を走らせる。
だがそれを魔女はあっさりと避けた。
美しかった完璧な世界が――崩れていく。
避けた雷は彼女の半壊した部屋の家具に当たり、火が着いてワッと勢いよくメラメラ燃えはじめる。
「どこも嫁姑の関係は難しいものですね。本当に」
そう言って魔女は右手を開き、ぐっと握る。
すると火は物理的に押さえつけられたように、シュウウと黒く焦げた跡だけ残して、消えてしまった。
ディアナは次々と雷を飛ばす。
それを今度は小姓五人で五重の壁にして抑える。
小姓達みなが死を間近に覚え、瞳孔が開ききって、フー、フーと息が上がっていた。
しかし威力の激しさで、五枚の壁のうち四枚はあっという間に吹き飛ばされた。二人の小姓も一緒にふっ飛ばされている。
小姓の一人が死に物狂いで叫ぶ。
「……閣下!! ご、ご準備は、まだですか!! もう、こちらは限界です!?」
イライアスの詠唱は続いていた。
けれどそう呼びかけられた十秒後。ようやく最後の呪文を言い終えると、イライアスは静かに目を開いた。
「ああ、ちょうど整った」
そう言い水晶をディアナに向けて鋭く飛ばす。
飛んでいく水晶が透明な巨大な網になり、ディアナを守る雷の球体に、あっという間に絡みつき、網から湧く虫が隙間なく結界を吐き出す透明な糸で埋め尽くした。
「…………!!」
ディアナは驚いて、それを見上げる。
「イライアス……これは“盟約者”にして“誓約者”としての命令です。今すぐ彼女を封印なさい」
しかしイライアスは止まって動かない。
魔法の発動のために右手を掲げてはいるが、その手は固定されたように動かなかった。
「イライアス……今早くっ!」
「……御意」
母の顔も一切見ずに、イライアスは掲げた右手をすうっと下ろした。
ディアナの結界はそのまま、しゅうううううっと収縮し、繭玉の大きさになる。
時は一瞬なくなった。
パンっと弾けて、繭は元の水晶へと還った。
中心にはディアナの姿が薄っすらと見え、空中でしばらくキラキラと光っている。
イライアスは、空から静かに降ってくるそれを走って手にすると、ぎゅっと壊れないように抱きしめた。
イライアスの目からは、一粒の冷たい涙がこぼれている。
「約束を破って……守れ、なくて……ごめん。ディアナ」
イライアスの背中が絶望に震えていた。
彼が真に望むものは、肩書きに比べて……あまりにちっちゃく、ごく当たり前のものだったのに。
その次の日、ロナ家嫡子であるクラウディウスは、ヴァルハラ皇帝陛下の養子になるため、母の顔も見ずに、ローゼナタリアをそのまま後にしたのだった。




