3、デビュー前のテニスと陰口 ☆ new挿絵あり
『国王の応接間』がデビュタントに開かれるのは、午後七時三〇分。
どんな名家、貴族の娘であろうと、本来は拝謁の順番は先着順となっている。
しかし、各国の王族とも縁が深い名門にして大貴族の娘として生を受けたアニエスは、優先的に娘を紹介できる『アントレー』の特権を母が有しており、一番に国王との拝謁を許された。
ところがだ。
アニエスはその特権を、今はなんとも恨めしく感じている……。
何故ならそのために、世紀の大遅刻をする寸前だったからだ。
隣に立つ母の顔をアニエスは横目でチラりと窺う。
豊かな金髪を結いあげ、最初の子を生んでから三十年以上たつとは到底信じ難いド迫力の美女が、娘が社交界デビューすることが誇らしく、艶然と微笑んでいるかに、表面上はしっかりとそう見える……。
だが、その視線をわずかに顔から下げれば、母の持つ扇子が彼女の握力に耐えかねて、ギシギシと悲鳴を上げるのがアニエスの目の端に映り、震えた。
(……これは、相当に怒っていらっしゃる!)
母の怒りを肌に感じ、背中に流れる膨大な汗で白い衣装が透けてしまうのではないかと、アニエスは気が気ではない。
(陛下との拝謁は夜だから、すっかり油断して昼間は熱くなってしまった……。こんな母の怒りを代償に粘った勝負なのに、結局、決着はつかなかったし……。というか、絶対にアレクサンダーは手を抜いていたのにどうしてあの時、私は勝てなかったの? ああ、やだわ悔しいったらない!)
アニエスは母に怯えつつも、今日のテニス対決で勝てなかったことが悔しくてたまらなかった。
ちなみに自分の専属従者で、かつ幼馴染のアレクサンダーとの勝負が、ひたすらデュースでゲーム延長を繰り返され終わらなかったのが、遅刻しかけた主たる原因である。
彼は世に稀にみる才気あふれる人物で、かなりの力量差がある相手であることは重々承知しつつも……例えそれでも自分が彼の『主人』という立場上、負けるわけにはいかないという信念が彼女の中にはあった。
……まあ、そうは想っていても容赦なく大抵は負けてしまうのだが。
アニエスはだからといって彼への挑戦をあきらめるような性格はしてはいない。
それに彼女だって別段その能力が低いわけではないのだ。むしろ運動能力は一般基準のそれを遥かに凌駕している。
普段から周囲に「脳筋」「筋肉馬鹿一代」「隠れオーク」と揶揄されながらも筋肉をこれでもかといじめに苛め抜き、そのたゆまぬ努力は間違いなく実を結んでいた。
アニエスはこの隣に立つ母から、その特殊な遺伝の恩恵を受け継いでいなければ、今頃その姿はドレスが似合うどころか……むしろドレスがはち切れ、着られるような体形ではいられなかった事だろう!
それに対してアニエス本人は非常に残念がったが、彼女以外の彼女と親しい者は、そのことに手を合わせてみな感謝していた。
(近いうちに必ずリベンジを果たすわ。待っていなさいアレクサンダー!)
再度の挑戦を胸に誓い、アニエスは心の中でガッツポーズをとる。
そんなことをアニエスが考えているとは、この場にいる誰も想像すらできないだろう。
なぜなら、その非常にアホっぽい内面とは裏腹に、彼女の今のその姿は完璧な理想像のデビュタントそのものだからだ。
三、四年をかけ思春期すべての時間を費やし、心血を注いで身につけた王国文化の誇る至高の礼儀、礼節の作法は、アニエスの骨の髄まで染み込んでいる。
多くのデビュタントがデビュー前にわざわざ専用の講師を雇い猛特訓する、トレーンという四・四ヤード(※ほぼ四メートル)もの長い長いドレスの飾り布の扱いすら、アニエスは自分の指先のようにくるりと難なく操れた。
国王陛下に拝謁を済ませ後ろに下がる時すらも、他のご令嬢のようにトレーンを踵で踏んで転びそうになる事態も、一切心配ご無用!
……実に可憐で雅やかだった。
王宮から取材を許されている多くの記者たちが、スポンサーの子女ではない彼女を、新聞には使えないと頭では理解しつつ、胸に迫るひどい興奮と感動からカメラのシャッターを切らずにはいられない。
アニエスはそれが、自分に心奪われた者達からの注目とは思わず、『一番前にいるデビュタントは、とりあえず分かりやすいから写真を撮るのだろうか?』とぼんやりと考え、ただただ、されるがままだった。
この様にデビューの日にたいして緊張もせず、ひたすら余計なことばかり考えていたのはアニエスくらいのものだ。
一番最初の拝謁を無事に済ませ、アニエスはさっさと帰ろうと、他のデビュタントとは反対方向に王宮の回廊を歩きだす。
ある理由から三年以上もここで人質として過ごしていた彼女にとっては、ここはもはや我が庭も同然。
隠し部屋の場所や、どの柱にどんな傷があるのか、眉唾ものの七不思議さえ彼女はよく知っている。
そんな場所は緊張というより、懐かしさの方が先にアニエスの胸をいっぱいにした。
離れてからまだそれ程、時がたっているわけではないのに……。
だがしかし――。
「御立派な家名だけの魔力無しが図々しい。魔力が無いと恥もご存知ないのかしら? 魔法を使わなければどんなに頭が空っぽでも構わないものね!」
「あら、……皆さんたらお可哀想よ。貴族の義務の一つも果たせない上に『魔力無し』は子供にも移るひどい疾患でしょう? そこは心を広く……『障害者』を保護してあげなくては……?」
「ああ、臭い、臭い! 魔力無しが臭くって私の可愛いお鼻が曲がっちゃうわ!」
その温かい気持ちは心無い言葉によって、頭から冷や水を被るように一瞬にして冷める。
それはアニエスの衆目を集める完璧さと、太刀打ちしようがないあまりの美貌に、嫉妬したデビュタントたちの誰かが放った言葉だった。
アニエスはそれにほんの僅かに悲しくなったが、あっという間にその思いも霧散する。
そう言われることや、いつも一定数から向けられるたくさんの侮蔑や敵意や悪意にも、アニエスはすっかり慣らされている。
いちいち気にしていては、それこそ心がもたない……。
だが、その現場に慣らされていないアニエスの母はそうでは無かった。
我が子へのむき出しの悪意にその身を固くし、時が止まったように動けなくなる。
(しまった……!)
アニエスはすぐに母の手を自分の方へと引き寄せた。
「お母様、アークティック・ロールが食べたいわ。早くお屋敷に帰りましょう! お父様やエース達が首を長くして私たちの帰りを待っている。……だって皆で記念の写真を撮るのでしょう?」
アニエスはあえて明るく大きな声を出した。
「え、ええ、そうね……それより今のは、ちょっと聞き捨て……」
「楽しみねー!」
こんな晴れやかな場で騒ぎを起こすべきではない。母に余計な心配と追及をさせないようにアニエスは母の言葉をさえぎり、多少お行儀が悪いのを承知で、母の手を握りしめてズンズンと前に向かって歩く。
普段は躾に厳格で気が強い母も、それに怒りもせずにそのままにしているのは、ショックがあまりに大きく狼狽しているからに他ならない。
「……アニエス……私の、私のせいだわ。せっかくの晴れの舞台を……私が、……ごめんなさい」
アニエスの母は、そうアニエスの背中に向かい、震える小声で謝罪した。
その言葉に先ほどの自分への陰口よりも胸が激しくぎゅうっと締め付けられ、アニエスは涙が出そうになった。
(どうか謝らないでお母様)
本来なら子供の晴れ舞台で誇らしさに胸いっぱいにするであろう場面で、母をこんな悲しく惨めにさせたことに、アニエスは涙が一粒もこぼれないように唇を嚙み、鼻を大きく膨らませて息を吸った。
自分だけが言われるのなら全然へっちゃらだったのに……、アニエスは悔しくて情けなくて目頭が熱くなる。
けれど泣いてしまっては、この後の記念撮影に影響がでてしまう。とても楽しみにして屋敷で待つ面々に、余計な心配をさせてはいけないとアニエスは自分をどうにか必死に励ました。
(そうよ、私は今日から大人になる。だから、もっともっとしっかりしなくては……!)
そう少女は今日、大人の階段を上ったのだ。
その身の厄介事をいまだ胸に抱きながら……。
※白熱テニス アニエス&アレクサンダー
【用語集】
『専属従者』……いわゆる『従僕』にあたる。ロナ家では執事を付けられるのは、その家の当主か御曹司か、前当主とさえているため、令嬢付きのアレクサンダーは『執事』ではない。しかし彼の場合、十五・六歳時点でロナ公爵家の勤続年数十年を超え、また家令兼公爵の執事の仕事を代理できるくらいロナ家内でのどの仕事や事情にも通じており、また発言権もあるため、実質の執事とそう変わらない権限と給与を与えられている。
『デビュタント』……王に王宮での初拝謁をして上流階級の社交界に正式にデビューしたご令嬢の事。通常、十五~十八歳にはデビューする。ここから、大人のレディーとして正式に上流階級の婚活戦線に乗り出す事になる。
『アークティック・ロール』……バニラアイスをスポンジケーキで巻くという贅沢な一品。とっても美味しい。