18、アニエス ☆※new挿絵あり
アニエスドレス②
アニエスは、本日タイルの目地のカビとの正面対決に挑んでいた。
見えにくいところに生えていて、普通に御不浄を利用する者はきっと誰も気付かない。
しかしアニエスは、馬鹿正直にカビ取り剤を染み込ませた綿棒で、ちょちょいと、なぞったりたたいたりと……わずかな敵も見逃すまいとしていた。
王宮の御不浄――つまりトイレは、ため息が出るほど豪華だった。
タイルには職人の手描きの模様が一枚一枚焼き付けられ、窓には複雑な飾り枠。
洗面台の器は真珠貝のような形をしており、排水管が通るはずの台座には、神獣や魔獣が柱にじゃれつく彫像まで施されている。
もはや用を足す場所ではなく、「御不浄」という名の芸術空間。
――が、その分、細かな凹みや突起、隙間や枠がやたらと多い。
掃除する側にとっては、悪夢のような構造だ。
アニエスはそれらをごまかさず、さぼらず、もくもくと磨き上げる。
……普通、トイレ掃除は家来はおろか外から雇われた専用業者がするもので、アニエスのような生粋の貴族のご令嬢たる行儀見習いがすることではない。
アニエスもそのことは承知していた。
しかし、彼女はふと考えるのだ。
貴族に下々と呼ばれる人々もそう思っているのではないかと……。
「何で自分たちばかりが、このようなことをせねばならないのか? ……自分たちだって、貴族のやるようなことだけをして暮らしたい」
そう、こんな風に……。
アニエスは自分の手をじっと見つめた。
アニエスはこの手に貴族が人間とも見なさぬ人々との、違いを見出すことは出来ない。
ましてや実際に自分には魔法が使えないのだから……。
そうなると魔法を使える人の優位性がまざまざと浮きあがり、自分を見下しているのにも一理あるなと頷けた。……もちろん、切なくはあるが。
それにアニエスは決して掃除は嫌いではなかった。
一見まったく汚く見えないところでも、しっかりと掃除をすると前後で明らかにワントーン空間が明るく感じる。
それが何だかとっても気持ちが良いのだ。
黙々と作業に集中していると、なぜか頭の方が冴えてくる。
考えは次々と整理され、掃除が終わる頃には、自分で出した課題の答え――時にはそれ以上の成果まで、すっきり手に入っている。
アニエスは掃除をしていると、よく実家の公爵家の家令兼、父の第一執事のアーネストのことを思い出した。
彼は忙しく使用人をまとめる傍ら、父と関わっていない時のそのほとんどの時間を、自ら銀器を磨いていた。
彼がくすんだ銀器を手にして磨くと、あっという間に満月ような白銀に輝きだす。
幼いアニエスはそれが好きでいつもいつも……まるで日々成長する花や虫でも見るように、毎度ワクワクしながら眺めに行っていた。
そんなアニエスをアーネストは、アニエスがアレクサンダーやエースに出会う前から、いつも気にかけて尊重し、大切にしてくれた。
「お嬢様……そんなに泣きはらして。どうか今は、テリーサのことをお忘れください。あの者は分を弁えず、幼いお嬢様に嫉妬しているのです。ロナ家に生まれたアニエス様に……。必ず手を打ちます。どうか、今少しのご辛抱を……!」
テリーサは子守を統括するナース長……ナニーだった。
躾という名目のもと、彼女は大人げないやり方で、繰り返しアニエスを傷つけていた。
アーネストはそのたびに抗議した。
しかし、子守の領域は屋敷の中でも特別に独立しており、しかもテリーサは大奥様……ガブリエラが直接雇い入れた人物だ。
そう。
すぐに正しさが、通らない場所がある。
誠実な人間ほど、それを痛感させられる――それは、この世にある理不尽の一つだった。
白い肌を桃に染め、涙で目を赤く腫らしながら、アーネストを見つめる幼いアニエスは聞く。
「どうしてテリーサが、そんなにロナ家を……我が家のいったい何がそんなにすごいの?」
「はい……ロナ家がこれまでしてきた偉業は数限りなく、上げればキリが無いのですが……。まず第一に王家や国よりもその起こりははるか昔……魔法を創始した一族と言われているからです。かつて消えた遥かなる文明。『起こりの帝国』の末裔ともいわれております」
「えっ!?」
「あくまで神話や伝説のように一部の人々が語っているもので、歴史が古すぎて文献にもほとんど残ってはおりません。……ですがそれを知る者はそれを疑うことなく信じております。……ミスリルの発掘や精製など、ロナ家しか所持しえない技術や秘術が数多く現存し……世界各国の王族には、大なり小なりロナ家の血が流れているからです」
アニエスはまるで本の中のお話のような話に、口をポカンと開けた。
「だからテリーサのように己の魔力に底なしの自信があり、魔法を絶対と考える者には、ロナ家にカルト的な強い憧れや信仰心を持つ者も少なくないのです。『ロナ』といった、名字の二つ名を各国の王族以外で許されているのも、貴族では『ロナ』家のみでございます。それは各国の王家もこの名家を別格と見ているからでございます」
幼いアニエスはあっけにとられながら、胸の奥が冷たい風にさらされたような心地になる。
「それなのに……そんなお家に生まれた私はどうして『魔力無し』なの? 私は魔法を一つも使えないのに……。それには意味があると思いますかアーネスト?」
アニエスは俯いて、床の模様を視線でなぞった。
「あらら、お嬢様はご存じでない? ……実は魔法に近い奇跡なら誰にでも起こせるのですよ!?」
アーネストは茶目っ気たっぷりにウィンクする。アニエスはそれを見て目を大きく瞬いた。
「大変時間は掛かりますが、本当に奇跡が起こきてしまうのですよ? それは、どうするかというと……」
アニエスが固唾をのんで見守る。
「すぐに飽きられてしまうこと」
「皆が避けたがる、面倒で手間ばかりかかること」
「必要不可欠なのに、地味で目立たず、誰の目にも留まらないこと」
「苦労が多く本来は称えられるべきなのに、当然のように扱われ、空気のように見過ごされること……」
「それでも、目を背けず、逃げず、ただ愚直に続けるのです。時には“馬鹿になったつもり”で」
アニエスは、言葉一つひとつを受け止めるように、静かに聞いていた。
「誠実に正直に。心を折らず、未来を見据えて動き続ける」
耳よりも、直接心に打ち込まれる。
「そして最後に自分を奮い立たせ、正しいと思うことのために、一歩を踏み出す。――ありったけの勇気を携えて!」
アーネストは話しながら言葉を噛みしめているのが幼いアニエスにもわかる。
「すると必ず光明が見え、己の願いを叶えることが出来るのです。……そしてその奇跡でもって、魔力などほとんどない労働者階級だったこの私も、大名家『ロナ』家の家令兼、旦那様付きの第一執事になるという異例中の異例の快挙を成し遂げるに至ったのでございます」
アニエスの胸が火を灯したみたいに熱くなり、何故か無性に涙が出そうだった。
「もちろんそのことに黙ってられず、ある魔力の強い自信たっぷりの男が、私と銀器磨きの勝負をして勝ってその座を私から奪おうとしました。――私はその勝負を快く引き受けました」
勝負では、男はアーネストの十倍の速さで銀器を魔法でピカピカにしたらしい。
けれど、その仕上がりの差はあまりに歴然だった。
「……魔法というものは、使い手の知識や想像力に、想像以上に左右されるようなのです」
彼は一拍置いて、静かに続けた。
「その男は、きっと銀器を自分の手で磨いたことがなかったのでしょう。取っ手の縁や内側の窪み、裏側の目立たない部分――そうした細部が、まったく磨き切れていませんでした。一見すると同じに見える食器でも、長年使い込めば、それぞれに癖や個性が生まれます。ただ均一に磨いただけでは、同じ輝きにはならないのです」
少し間を置き、アーネストは淡々と結論を告げる。
「……結局のところ、自分で触れてみなければ分からない、ということなのでしょう。奥様はこう仰いました。『銀器磨きは食事に間に合えば十分ですもの。これではアーネストが圧倒的過ぎて、勝負にもなりませんね』と。そうして男は、何も言えずに去っていったのです」
ふふっとアーネストが微笑んだ。
「お嬢様。……お嬢様は最悪この先も一般的に呼ばれる魔法が一生使えないかもしれません。……けれどお嬢様がそのような生まれであることは『ロナ』家にとっても、お嬢様自身にとっても絶対にかけがえのない意味がございます」
アーネストの瞳はひたすらに優しく、全く揺るがない。
「なぜならお嬢様がお生まれになった……そのことがそもそも、この『ロナ』家にとってまさに奇跡といえるのですから」
アーネストの声は、ひどく静かで、深くて、温かかった。
アニエスはアーネストの銀器磨き勝負の話がいたく気に入り、それからは辛過ぎることや、腐った気持ちになりそうになると、いつも思い出すことにしている。
このトイレはきっとアーネストにとっての銀器磨きと同じなのだ。
アニエスが磨くトイレは魔法で綺麗にしたものとは比較にならないほど床は鏡のように光り、アニエスの姿を下からはっきりと映すほどである。
アニエスは思えばあの頃から自分が『魔力無し』に生まれついた意味を考え続けていた。
『魔力無し』の自分が凄まじい力を持つ彼らと渡り合うには、いったいどうしたら良いのだろうか?
どうしたら皆に――自分自身に、認められるのか?
果たして、自分はこの生まれに報い、自らの義務を果たせるのか。
どうすれば、この生まれを呪いでなく祝福にできるのか?
運命とは……切り開けるか?
他人を変えることは無理だとアニエスは幼い日に早々に知った。
だったら自分の行いによって自分が変わるしかない。
アーネストの言う奇跡を起こす準備をして……。
アニエスは自分が受ける誹謗中傷や悪口を、冷静に見て、悲しいがそれらがある視点においては事実なのだと悟っている。
それが正しいか正しくないかは別として、その考えは、どこかでは信じられている考えで『鏡』なのだ。
それに気付いてからというもの、アニエスはそれらの言葉にも耳を傾け、意味を探る癖がついしまっている。
掃除をしながらアニエスはとめどなく考えた。
今、昔、未だに気持ちに決着がついていない様々なこと。
やがてそれは竜を倒しに行った、あの日へと記憶が向かう。
あの時アニエスは本当に最初は一人でそれを実行するつもりでいた。
……それはずっとずっと昔から決めていた、己への誓い。
『魔力無し』の自分が竜を倒しうることが出来れば世界は自分を認めざる負えないだろう。
そのためには何をおいても自分だけで実行する必要があった。
もちろん究極の代償がともなうのも覚悟の上で……いやむしろ、それで死んでも本望だとさえ思って。
だから最初二人がついて来た時に、喜びや驚きよりも――自分だけの……たった一つの心の聖域を泥の付いた靴で踏みにじられたと感じ、アニエスは、自分でも驚くほど激しい憤りに震えた。
それこそ一瞬。我を忘れる位に……。
けれどアニエスは瞬時に冷静になり、その怒りを素早く自分の奥に隠した。
アニエスは目を瞑り、この二人が来てしまったら、例え自分がどのように活躍しても、世間は「二人が居たからこそ『魔力なし』の子は竜を得られた」と見るだろう……。
そう、ひっそりと覚悟した。
でもそれは決して間違いとは言い切れず、彼女だけでは、竜はまず得られずに死んでいたに違いない。
ただ、その残りの砂粒のような欠片に、アニエスは自分の全てを賭けたかったのだ……。
アニエスは急遽第二プランを練らねばならず。
竜持ちの『人質』として王宮に入り、何かしらの王族との繋がりを得て、別にもともと考えていた計画を一緒に遂行出来るのであれば……と他に用意していた計画とサクッとまとめる。
……起きてしまったことを、グダグダ言ったところで変えることは出来ない。ただ臨機応変に対応するしかない。
とはいえアニエスだって、覚悟があっても、感情は従ってくれない。
理性を越えて本能や感情が溢れて失敗することは沢山あるのだ。
先日のセオドリックの魔法を使えなくした件にしても、寂しさが募って二人に会いに寄宿学校に忍び込んだ件にしても、自分をちっとも抑えられていない……。
そして、いじめにあっている件についても、ここまで大事にせずに、本当は早々に終わらせたかった。
(いまだ儘ならず……己の精神を制するのは今後の最大の課題ね。さあ、しっかりするのですよ。アニエス・ロナ・チャイルズ・アルテミスティア!)
ボーーーーーーン。……ボーーーーーーーーーーーーン。
十二時の鐘が鳴る。
アニエスは掃除道具を片付けた。
間もなく自分を貶めた者たちの断罪裁判が、王太子たちの手によって始められる。
急いで準備しなくてはならない。
はてさて……今回、自分はどう持っていくのが理想なのか?
――そう、逃げない。
自分と世界に新たなる革命を起こすために。




