14、施術と忙しい日々
「……ハッ!」
いつの間にか眠っていたことに気付き、セオドリックが慌てて目を覚ます。
あまりに心地よすぎて気付けば、気を失うように意識を手放していた。
「セオドリック様、そのまま眠られて大丈夫にございますよ?」
そう言いアニエスは、せっせと、セオドリックの首や背中をぐいぐいと押したり揉んだりしている。
魔脈の通りを少しでも促すため、アニエスはセオドリックにこうやって全身マッサージのような施術を行っていた。
……これが、もう脳みそがダラダラと蕩けるほど気持ちがいい!
セオドリックは人の上に立つべき人物だ。
彼の背筋は槍のようにシュッと伸びているし、居眠りどころか眠気を周囲に悟られたりもしない。
なのにこの気持ち良さの罪深いこと……その鋼の姿勢をも屈するほどの破壊力を持っていた。
「君はその技量だけで、一代で大財を成せるだろうな」
「殿下がお気に召したようで、何よりでございます! 魔脈のついでに血行がよくなるツボも押しました。……だってセオドリック様のこの広い背中……まるで鉄板が仕込んであるみたいに硬いんですもの? これは鉄塊を常に背負ってるのとかわりません!」
アニエスはしばらく揉みほぐしてから、ふうっと額の汗をぬぐった。
「……午前はこれにて、終わりです!」
「ああ……え!? 何なんだこれ……!」
セオドリックはあまりの身の軽さに、背中に大きな羽でも生えたのかと、思わず自分の背中を振り返る。
「今までが異常事態だったので……十五・六歳にしてそれでは先が思いやられますよ?」
アニエスはそう話しながらマッサージに使うオイル類を片付けた。
「それでは夕刻にまた参ります! ……わずかですが魔脈にも変化の兆しがあるように思えますから、まずは順調な滑り出しではないかなと?」
「そうか、ありがとう」
アニエスは深々と頭を下げて、王太子の部屋を後にした。
アニエスは今日これから、まだまだすることが山のようにある。
まずは厳しい王宮の礼儀作法の猛特訓から始まり、宮廷人の嗜みとしての楽器の演奏や詩歌やダンスのレッスン。
手紙の書き方、複数の外国語と古語の勉強に、法律に政治に、地理やそろばん、宮廷行事の勉強。
そして、タニア様のお付きとしての、着替えなどのお手伝いや使いっ走りの数多の雑用。
僅かな自由時間を挟んだら、もはや日課のトイレ掃除。
そしてその日に出された地獄のような量の課題を終えて、湯あみをして正装したら、また夜には王太子のもとへと魔脈開放のためのマッサージに走らねばならない。
まさに、秒刻みのスケジュール! おかげでご飯も食べる暇すら無い。
というか、いつも自分の分だけさっさと片付けられてしまっている……。
けれど悲しいかな。
誰がしているのかもわからないし、それに文句を言う暇すら今は惜しいのだ!
仕方がない。
後でまたキッチンでパンの残りでも貰おう……アニエスが得意の弓矢がここで使えるならば……キジや鳩の一羽、ニ羽、その場で仕留めてさばいて調理しつつ、「いただきま〜す」とモリモリと食せるのだが……。
城では許可された人間以外の、護身用をのぞく武器類の所持・使用は、基本一切NGなのだ!
そうして、アニエスは超特急で課題を終わらせた。
王太子との約束の時間に間に合うよう、広大な王宮内を猛ダッシュで風を切る姿を見られぬよう……アニエスは細心の注意を払う。
その姿、もはやアサシン。
……と言うかそんな心配しなくても、速すぎて、相手の動体ではとても識別不可能だった。
王太子の部屋の前まで来ると、ハンカチでサササッと流した汗をぬぐい、手のひらサイズの手鏡で乱れた髪を直し、いざゆかん! とセオドリックの部屋の扉をノックした。
間もなく出てきたのは、セオドリックの最側近で侍従頭でもあるノートンだ。
「お話は殿下より伺っております。……ただ殿下はまだ公務中のため出払っておいでですので、どうか中で座ってお待ちください」
お話とはどこまで存じているのだろうか? アニエスはノートンに促されるまま、室内で大人しく待つことにする。
最側近だけあり、ノートンの動きには一切無駄がないが、同時に王太子に仕えるだけある洗練された優雅さに、アニエスは「ほほーっ」と感嘆をもらした。
「あの、不躾な質問をしても宜しいでしょうか……ノートン様は、王太子殿下にお仕えしてだいぶ長いのですか?」
アニエスは疲れゆえに、ふかふかな椅子に座っていると、ついに眠ってしまいそうになる。
だから、ノートンにそんな世間話を振ってみた。
「はい、お仕えして五、六年ほどでしょうか?」
「五、六年。……では殿下とは幼馴染みということですね?」
その返しにノートンは目を丸くする。
「幼馴染みという表現は恐れ多いですが……確かにそうですね」
ノートンは笑って肯定してくれる。
「あの……出会った当時の王太子殿下の第一印象は、どのようなものだったのですか?」
王太子についてアニエスはあまりよく知らない。
この先、何においても情報は大事だから、調査対象の身近な相手には聞けるなら聞いておくべきだろう……と、アニエスは予め考えていた。
それにノートンはうーん。と顎に手をやり、当時の記憶を思い出そうと目をつむった。
ノートンが再び目を開けての第一声は……。
「……黒髪に灰色の目をしていて、さすがは王族でいらっしゃる。きっと魔力がとてもお高い方なのだな……。と思いましたね」
「……? 黒髪に灰色の目? セオドリック殿下は亜麻色の髪に緑の瞳ですが、成長していくうちに容姿が変わったのですか?」
海外の血などが多く入ると、子供のころの髪や目の色が変化していくというのは割とよくあること現象だ。
……ただ一般的に薄い色が濃くなる方がその場合は多い。
「いいえ、殿下は髪や瞳をわざと魔法で今の色に変えていらっしゃるんですよ? ですので殿下の本当の髪の色は、タニア姫のような素晴らしき黒髪でらっしゃいます!」
これは思いがけない情報だった。
てっきりタニア様の方が魔力は高いものとアニエスも勝手にそう踏んでいたのだが、どうやらそんなことは無いらしい!
「……余計なことを言わなくていいぞノートン」
「!! で、殿下いつの間にお戻りになられたのですか!?」
ノートンは慌てた様子でバツが悪そうにする。
悪口なんて一切言っていなくても、噂の相手が急に現れるのは心臓に悪い。
「今しがただ……はあ、悪いが水を一つ頼めないか?」
セオドリックは隠し切れない疲れた様子で、アニエスの対面の長椅子に腰を下ろす。
「時間通りか……真面目だな?」
「通常、王族をお待たせするような人間などそうは、いないと思われますが……?」
「ああ、君が普通を語るのは、いささか違和感を覚えるよ」
そう言いながらノートンが持ってきた水を錠剤と一緒に、セオドリックは流し込んだ。その様子にアニエスはぎょっとする。
「あ、あの、どこかお身体が悪いのですか!?」
この疲れた様子は疲れではなく、実は病気のため
なのだろうか?
というか、病人に押すべきでないツボだってあるのだ! もし、それを押していたら……とアニエスが慌てる。
すると、セオドリックはなんてことの無いように言った。
「単なる疲労を軽減する薬だ。別に病気じゃあない」
「……薬に頼らねば回復できない時点で、ご病気と一緒のような……?」
アニエスは、じっと王太子を困惑気味に見つめる。
「ではノートンは、席を外してくれるか?」
セオドリックのその言葉にアニエスは、さらにぎょっとして体が強張った。
「えっ!?」
「どうした」
「……王太子殿下と、こんな時間に二人きりは、あの少し……」
アニエスはセオドリックから距離をじりじりと取った。が、セオドリックは恨めしそうな目でアニエスを見て、ため息をつく。
「あんな目にあったんだぞ!? ……恐ろしくて一切手を出す気にならないから安心しなさい」
「……アニエス嬢。何かあればすぐに私をお叫び下さい。ドアのそばにおりますので、早々にお止め致します。タニア姫にもその辺りは、よくよく伺っておりますので……どうぞご安心を!」
ノートンはこそっとアニエスに小声で言ったが、セオドリックの地獄耳が、それを当たり前に拾った。
「おい、どういうことだ……それは?」
それにノートンは目をつむり、少し考えてから答える。
「それもこれも、約六年の月日の重さが生んだものにございます殿下……」
一方でノートンの言葉にアニエスは安堵し胸をなでおろした。
「その様にしていただけるなら……安心でございますね。ありがとう存じますノートン様!」
ノートンが部屋を出たので、アニエスはさっそくセオドリックに上着を脱ぐようにお願いすることにする。
「ああ、わかった。……それでは君も脱いで良いぞ?」
「ええと、ではさっそく叫びましょうか?」
セオドリックは上着を脱ぎ、引き締まった上半身が露わになった。
「これでいいのか? 背中を向けようか?」
「いえ、今度は正面の魔脈に施術を致しますので、そのまま、お願いいたします。では、失礼します」
そう言って、アニエスは施術をしようとして、固まる。
「どうかしたか?」
「あの、バッスルが邪魔でやりにくくて……」
バッスルとはスカートの後ろを膨らませる補正下着なのだが、正装で来たことが、まさかの仇となっている。
だが午前中ならまだしも午後の……しかも遅い時間に王族に会う場合は、正装が王宮では義務付けられているのだ。
けれど、普通に考えてそんな恰好でマッサージが出来ようはずがなかった……。
「君は案外抜けているのか?」
「申し訳ございません。すぐに着替えてまいります!」
「それでは時間がかかるだろう? そうだ、このシャツに着替えてはどうだろう」
セオドリックは、からかうつもりで先程まで自分が着ていた詰襟の長袖シャツを差し出した。
だが、それをアニエスは笑顔で受け取る。
「それは名案ですね! では少々失礼いたします」
「え」
あっさり受け取り、天蓋ベッドの陰でアニエスが見えないように着替えだした。
それには言い出した手前引けなくなったセオドリックだったが内心、動揺を隠せない。
「お待たせ致しました!」
出てきたアニエスは、男物のシャツだけを身に着けた姿で、まるでラフなミニスカートのワンピースのようである。
袖が余って手は指先しか見えず、可憐な小鹿のような脚が、裾から思いのほか長くまっすぐに伸びていた。
全体的に大き目なシャツの余り具合が、少女の儚さと艶めかしさをやたら強調している。
それを目にして、セオドリックは思わず喉を鳴らした。
しかも……。
「……どうしてドロワーズが見えないんだ?」
「あれだと動きづらいので、私は別なものを身に着けているのです!」
アニエスは動き回ることが多いので、普段から独自に開発した、紐で縛る下着を愛用して過ごしている。
「それでは失礼いたします」
そういうとアニエスは座ったセオドリックの懐に入り、首や鎖骨の辺りからマッサージを始めた。
その距離は近く、息が頬にかかりそうな距離。
「……………」
ああ言った手前、セオドリックは本当にアニエスにこれ以上のちょっかいをかけるつもりはなかった。
だが、今この状況はなかなかに、際どいものがある。
アニエスは十二歳らしく、女性特有の膨らみや丸みのような身体的特徴は見られない。
しかし、しなやかな四肢と明度の高い肌、極めて華奢な骨格が相まって……現実と非現実の境目にあるような軽やかさ――それは色気や完成度とは無縁の、年齢段階に特有の印象。
触れれば崩れそうな、完成前の造形美の瞬間が陽炎のように、そこには存在した。
「こちらが冗談でさせておいて何なのだが、そういう格好を……あまり……そう、特に肉感的なタイプは好みじゃないとか主張する紳士の前では、標的になりかねないから気を付けた方がいい。……明日はこの時間も動きやすい服装で来れるように、こちらで許可を出しておこう」
それを聞いてアニエスはきょとんとした。
「はい……確かに足をあまり出すのは、はしたないですものね?」
これは、あまり分かっていない様子である。
「そんな危機感の無い様では、君の幼馴染み達も気が気ではないだろうな」
あの時見た二人は、はた目にもはっきり分かるほど彼女に入れ込んでいる様子だった。
「殿下はエースとアレクサンダーのことを、存じていらっしゃるのですか!?」
「一応な。あの二人はエールロードと軍部が預かっている『竜持ち』だし、とくに関わりはないが同じ学校の後輩で色々目立つから、噂は私の耳にも届く」
「……確かに、そうでらっしゃいましたね」
「二人のどちらかと……もしかして君は秘かに愛しあう恋人だったりするのか?」
避けていた……というかあえて無視していた話題をセオドリックはいま出してみた。
それにアニエスはあっさりと答える。
「いいえ、そういう関係はありません。アレクサンダーは心許した私の唯一無二の腹心で、エースは頼りになる私の自慢の義理の弟です!」
恋人関係には無いとアニエスはそうはっきりと否定した。
「そうか……。でも相手はそうは思っていないかもしれないぞ? 勘だが、君を慕っている気がする」
というか明らかだった。
けれどそれにアニエスは首を横に振る。
「うーん、それは無いでしょう! 私、あの二人のことは本当に大切に思っていますし、心から頼りにもしています。……ただ、その……大切にしているわりには、いや、だからこその甘えからか……かなりひどい目にも遭わせていて……ええ、本当に……。反省は毎度しているんですが……」
思わず今まで行った数々の蛮行が、彼女の頭に去来しアニエスを改めて深々と反省させる。
「うん……私と比べたら、世の少女や淑女は天使にしか見えません。正直、二人に愛想を尽かされそうになった回数についても……はい、数えるのはさすがに途中で諦めてしまいました」
「……君のその十二年の生は、どうしてそう他に比べてやたら無駄な厚みがあるんだ?」
セオドリックは呆れた。
「……私のことばかりおっしゃいますが、セオドリック様こそ特定のお方。そう、『お妃候補』がどなたかいらっしゃるのではないですか? 大層女性に人気がございますし……周りにも次期国王ゆえ、せっつかれているのでしょう?」
セオドリックはその質問につまらなそうな顔をする。
「候補は何人かいるから、誰かがなるだろう」
まるで他人事だ。
「ご自分のことなのに、まるで関わりたくない親戚の話でもするような、おっしゃりようですね?」
アニエスは腕周りをギュギュっとおしながら、呟いた。
「なかなか的確な表現だな」
「今の話で、殿下のジレンマというものを感じました。……お立場があると色々、私なんかが想像もつかないご苦労があるのでしょうね? まあ、しかし妃を目指す方々の前で今のようなこと、……もしかしたら考えるのも控えた方がよろしいかもしれません。本音は思わぬところでヒョッコリと顔を出します」
アニエスの指は……いや、考えは的確にツボを押す。
「それに努力が一切無駄だと知った時、人の絶望は計り知れません」
「…………」
「うわっ!? で、殿下にとんだ生意気な口を利いてしまいました! どうかお許しくださいませ!?」
「――君は本当は齢三十か、四十なのだろう?」
「なっ、失礼な! 私はサバなど読んではございませんん゙!」
アニエスは心外だとばかりにフガーっと鼻息を荒くする。
それにセオドリックは苦笑しながら、アニエスを見つめる瞳はただ優しかった。
アニエスはその後は黙って、ひたすらマッサージを行った。
アニエスの指先はすでに熟練の動きだ。
「そういえば君のおかげで体が軽くなったせいか、思いのほか仕事がよく進んだよ」
「それで無理をされて薬に頼ってしまったら、元も子もないでしょう?」
「無理でもしなければ、時間など取れない」
それにアニエスは、手をピタリと止めた。
「あ……もしかして、この施術のために無理に公務をされたりは、しておりませんか!?」
「ああ……いや、そうじゃない。遊ぶ時間のためだ」
「反省していたく損をいたしました。……時間を戻して頂けますか?」
アニエスはセオドリックに慣れてきたためか、生意気な口が増える。
しかしセオドリックは怒りもせずに、むしろニコニコと機嫌をよくした。
「君は本当に他の子と違うな。やたらと神経が図太いよ」
アニエスはム厶ッとする。
「つまりは、野蛮で図々しいということですね!?」
「まあ、間違ってはいないな……。でも他の女の子は基本、私を理想の王子様と考えているし、私が何か言っても……腹では違うことを思っていても『YES』としか言わないんだ。だけど君はそういうところが無くて、だいぶ気楽だよ」
「……タニア様は違うでしょう?」
「普通『女の子』に身内は含まない」
確かに……とアニエスはエースとアレクサンダーの顔を思い浮かべた。
「ではセオドリック様はそういう方たちはお嫌いなのですか?」
「いや? 一緒にいて実に楽しく過ごしているよ。ただ、たまにひどく面倒くさく感じるんだ。……まあ、柔らかな肌に触れてるとどうでも良くなるけど!」
「そうですか。それは、ようございましたね。はいはいはい、終わりましたよー。ではでは、夜も遅いのでお休みなさいませ!」
アニエスは先程からセオドリックが薄笑いをするので、からかわれている気がして、ちょっとムカッとしている。
「はは……いやいや、もう少し話をしていったらどうだ?」
「明日も早いので、お子様はお暇いたします!」
それにセオドリックはアニエスの胸をじっと見つめ頷く。
「確かにまだまだ子供だ……」
「セクハラという概念を、ご存じでしょうかセクハラ殿下!?」
赤い顔でアニエスは胸をおさえながら、ため息をついて立ち上がる。
だがその時、目の前に砂嵐のような映像が見えて、アニエスはそのまましゃがみこんでしまった。
貧血だ!
「!! 大丈夫か?」
セオドリックは慌てて膝を床につく。
「い、いえ、大丈夫です。……血が足りなくて少し立ち眩みしただけです」
「血? 吸血鬼か何かなのかアニエスは?」
「いえ、そうではなくて……少し空腹が過ぎて……お腹に力が入らないだけです」
そう言い、アニエスは長椅子の縁を掴み立ち上がる。
「なんで、そんなに腹がすいているんだ?」
「色々とすることが重なって暇が取れなくて……、これも要領を得られない自分のせいですので、どうぞお気になさらず……」
それにセオドリックは強い口調で怒鳴った。
「ただでさえ触れたら壊れる飴細工みたいに薄い身体で、一食でも抜いたら、そりゃあ顔色だってひどくなる! ……ノートンそばにいるか!?」
セオドリックの大声に、外のドア越しに立つノートンはすぐに返事をした。
「すぐに、二人分の温かな食事をこちらへ準備してくれ」
「かしこまりました」
間もなくしてノートンが王太子殿下の自室に食事を整え、腕の一振りでテーブルに花と蝋燭まで飾られる。
「……すごい」
アニエスは自分と大して歳の変わらないノートンの、完璧な仕事ぶりに感動した。
「私も大して夕餉は口にしていなかったんだ。一緒に食べることにしよう」
「申し訳ございません。逆に面倒をおかけしてしまいまして……」
アニエスがひどく恐縮する。
「なに、その薄い胸の見物代だ」
「…………」
たいへん文句を言いたかったがアニエスは黙ってスープを口に運んだ。
そのスープは蟹の旨味が凝縮したもので、アニエスの小さくなった胃を優しく温める。
アニエスはその心地よい温もりに、頬をふにゃりと緩めた。
それからパンを一口ちぎり口にすると、パンからはほのかにクルミの香りがして、あっという間にほろっと溶けるのに、アニエスは思わずニコッと微笑む。
「……なんて、美味しそうに物を食べるんだ君は?」
セオドリックはその様子を見て、思わずそう洩らした。
「私が美味しそうに食べているのではなく、食べ物のほうが本当に美味しいのでございます!」
そう言って今度は肉を一口、口に含み「んんーーーーーっっ!」と目を閉じ、アニエスはその旨味にその身をゆだね震えている。
それに、たまらずセオドリックは噴き出してしまった。
「は、は、ははははははははははつっ!!」
アニエスは驚いて、食器を持つ手を止めた。
「ど、どうされましたか!?」
「……くくっ、そんな風に食事で百面相するご令嬢など、これまで見たことがないっ!!」
実際、晩餐会や舞踏会で各国の姫、ご婦人、ご令嬢は常に口角を上げ、食事中は話でもしない限りその表情はほとんど変わらない。
小鳥の餌のような量を食べたらすぐに口元をフキンでおさえる。
「もう、結構でございますわ」
そうやって食事にはほとんど関心のないような態度をとる。
けれどそれに、セオドリックはいつも気持ちの悪い違和感を覚えていた。
ベッドの上であれほど貪欲極まりないな彼女たちが……果たして同じ欲求である食べることにまるで関心がないなんて、……そんな人として不自然なことがあるだろうか?
けれど、ドレスが今にもはち切れそうなご婦人でさえそんな態度なのだ。
それを目にするたび、何だか本来、生命の喜びである食事でさえ嘘を重ねなければならない……またはそうさせる上流階級の在り方が、虚しく、厳しく、悲しい化物にセオドリックには感じられていた。
しかし目の前のこの少女はそれこそ『生命賛歌』と言わんばかりに食事を楽しんでおり、その嘘偽りのない生命のきらめきが、セオドリックの胸を底からジワリと温めていく。
ただ笑われている当人のアニエスは、王太子のその姿に驚き固まってしまった。
食事を終え、アニエスは明日の施術の約束をして戻ろうとすると、例え宮中でもご令嬢を一人で部屋に帰すわけにはいかないと従者を呼んで送らせた。
セオドリックは満たされた腹と心と、軽くなった身体ですこぶる気分がよく、寝る準備を整えベッドへと入る。
「何だか本日の殿下は表情がとても晴れ晴れとされていらっしゃいます」
「……そうか?」
そう言いながら、アニエスと明日また朝一番で会えると思うと勝手に頬が緩んだ。
実はアニエスの施術は確実に効いていて、正直かなり力めば、あと数日もしない内に魔法が使える気がしたが……セオドリックはあえて黙っていることにする。
こうして施術期間を延ばしに延ばしたセオドリック。
しかし、二週間以上がたち、うっかり魔法を使うのをノートンに見つかり、しかもタニアにすぐさま報告がいった。
「もう、どれほどこっちは心配していたか……言わなくてはダメでしょう。 お兄様!?」
そして、あっけなく、セオドリックとアニエスの蜜月期間は終わりを迎えたのだった。




