11、新人いびりと罰の誤算
「全然なっておりません。一からどうかやり直しを!」
アニエスは、内心『もぉ、いいよお……』と思いながら、表面はかしこまった顔で、はい、お願いします! と再度お辞儀を繰り返した。
こちら、百八十四回目のお辞儀のやり直しである。
アニエスは、つくづく自分が舐めていたことを痛感していた。
破格に破天荒とはいえ、アニエスは腐っても名門公爵家のご令嬢。
礼儀や行儀作法に関しては幼い頃より、それは厳しく躾けられていた。
ゆえに王宮の行儀作法も基本は押さえているのだから、特に問題は無いと高をくくっていた。
しかーし、残念ながらこの王宮という『魔境』……。
ここでの行儀作法は指先の動きどころか、髪の毛一本の動きにすら、神経を研ぎ澄ませなければならない異次元世界なのである。
……というか、髪の毛には神経も筋肉も通っていないのに、果たしてどう操作しろというのだろうか?
「……まあ、よろしいでしょう。明日、もしも元に戻っているようなら、再度、上限なくやりを直させますから、どうかそのおつもりで!」
「はい、本日も長いお時間、私のためにご指導を頂き誠にありがとう存じます」
アニエスは内心『いーっ!!』と舌を出し、行儀作法監督の女官を見送った。
「アニエスは見込みがあるから特に厳しいのですよ……。他の方々は二十回も注意を受けたら、耐えられずに泣き出してしまいますから」
タニアはそう優しくアニエスを慰めるが、いやいやいやいやいやっ……二十回でも頑張ってついてきたお嬢様方は、一般社会においては、かなり気丈な方々だろう。
ちなみにアニエスは二十回超えた辺りから『もお、どおにでもなれ〜!』と、非常にヤケクソだった。
「ふふっ、アニエスは本当に頑張り屋さんですね!」
タニアが感心して言うと、アニエスは困ったような笑顔を作る。
「はい、しかしお聞き下さいますか。タニア様? アレクサンダーとエースは毎回手紙で、『こうゆう新しいことを習った』『こうゆうことがまた出来るようになった』といちいち報告してくるのですよ? それは義姉として主人とて……とても悔しいではありませんか! ですので私も、次に二人に会った時には、それこそ見違えるように成長していなくてはならないのです!」
アニエスは、握りこぶしに力を込め、自分を奮い立たせ、目の前の王女に誓った。
「私も、アニエスご自慢の二人に早くお会いしてみたいものだわ」
タニアはアニエスから、よく話を聞くので、二人のことは既に他人ではなく、たいへん身近な存在のように感じている。
「はい! 二人も手紙にタニア様に、是非お会いしたいと書いておりました。私もタニア様達にどうか親しくなって頂きたいです!」
「ふふふっ、楽しみですこと!」
それは、まこと本心だ。
「アニエス嬢。いつまでそうして、お忙しいタニア様のお手を煩わせるつもりですか? あなたは仕事が他にもまだまだございますでしょう!」
年上で先輩の王宮宮廷行儀見習いのご令嬢が、アニエスに厳しく声を掛ける。
「あ、はい今すぐ参ります!」
それにアニエスはすぐに返事を返す。けれど彼女のお小言は止まない。
「ここでの貴女は行儀見習いで一番下の側仕え……ご実家ではないのですから、ご自覚をもって、立派な家名に傷をつけないようになさいませ!!」
そう言い、徹底した圧をさらに掛けた。
「はい、承知しました! ご指導賜りありがとう存じます。以後、十分に気を付けます」
「…………」
タニアはそっと、アニエスの袖を引っ張って小声で話しかける。
「……貴女の地位ならばもっと上の位から始めて、このような雑用に走る必要はないのですよ? 服もそのような絹地とはいえ…………簡素な服装でなく、仕立ての良い凝ったドレスを着てもいいというのに?」
それにアニエスは首を振り、小声で返した。
「これも私が自ら望んだこと。先程も申し上げた通り私は二人に負けたくありません。……だから、ここで吸収できるものは、できる限りすべて自分の財産にしたい。それには新入りとして下から順当に学び、馴れるのが、端から端まで網羅できて一番効率も良いと思うのです!」
その言葉には強固な意志が感じられ、タニアはそれ以上は何も言わなかった。
ただやはり心配なので一応、念を押しておく。
「けれど何か不都合があればすぐに報告なさい。わかりましたか?」
「御意にございます!」
そう約束させたのだった。
◇◇
「では、お掃除をまかせましたよ?」
王宮宮廷行儀見習いの先輩が、アニエスをある場所まで連れて行く。
そこはいわゆる……。
「王宮の大小、全ての御不浄を……でございますか?」
「ええ、一切、手を抜かないようにね?」
「……」
各省庁を含む宮廷のトイレのある箇所は五十近くあり、どう少なく見積もっても数百の便器が存在するということになる。
しかも普通、トイレ掃除は召使いどころか専用業者に任せる仕事だ。
まして姫付きの由緒正しき行儀見習いがする仕事では無い。
「しっかりね!」
けれどそんな言い訳をする隙も与えられず、アニエスに言いつけると彼女自身はさっさと出て行ってしまった。
もちろん手伝う気など爪の先程もない。
「しかも、明らかに汚されている……」
紙や髪が散らばり、濡れている。
完全なる嫌がらせ。
理由は……心当たりが山ほどあるので、考えても仕方がないだろう。
もし自分に魔力があり魔法が使えたのなら、掃除はすぐに終わるかもしれない。
しかし、アニエスは魔法が使えない呪われた令嬢で、あるのはこの二本の腕のみ。
自ら手で、一から全てやるしかないのだ。
「はっはー……まったく、上等ですね! 床が舌で舐められるくらい、ピッカピカにして差し上げますよ!!」
アニエスは窓を全開にし、三角巾にエプロンと手袋を身に付け、靴を長靴へと履き替えた。
他の人が入ってこれないよう看板を立て、鍵を閉めて、便座に手をつっこみ、ごしごしごしごしオラオラオラオラー!! と無我夢中で掃除をはじめる。
アニエスはそれは夢中でトイレ掃除をした。
だが想像通り、城の敷地はやたらと広大……。
始めたときは昼前だったはずなのに、慣れないせいもあって、気付けば既にとっぷりと日が暮れて、辺りは真っ暗になっていた。
アニエスは最後の床磨きを終え、酷使して赤くなった手を洗い、自分が身に着けていたものも簡単に手洗いすると、城の洗濯室へと持っていくことにする。
果たしてまだ、洗濯室は開いているだろうか?
……どうやら働き者は自分だけではないようだ。
洗濯室はまだ開いていて明かりが点いており、アニエスはほっと胸を撫で下ろした。
「こちらも、洗いに出したいのですが……よろしいですか?」
「はい、ああ貴方は! 頼まれていた服のクリーニングが丁度、終わっておりますよ。今お持ちしますね?」
ふくよかで朗らかな洗濯夫が奥に入ると、先日、無断でお借りしたセオドリックの制服がアイロンをパリッときかせて戻ってきた。
「ありがとう存じます!」
そう言い、アニエスは彼に日給相当額のチップを握らせる。
「いやはや……もちろんこのことは、内緒にしておきますよ!」
そう、洗濯夫は親指を立てたので、アニエスはそれに同じく親指をビシッと立てて応えた。
さあ、人がいない今のうちに、衣装室に返してしまわなければ!
先に鍵を借りて開けておいた衣装室へ入り、アニエスは元あった場所に、クリーニングした衣装を端を揃えて丁寧に返した。
そして、すぐに静かにその場を離れ、音がしないよう慎重にドアを閉めてしっかりと鍵をかける。
「……随分と手馴れているようだけど、そうゆうことはよくするの?」
……これには飛び上がるほど驚いた。
誰もいなかったはずなのに、アニエスのすぐ後ろには、よりにもよって一番見られてはならない相手が立っている。
「名家ロナ公爵家のご令嬢ともあろう者が、随分と手癖が悪いようだ?」
月光に照らされ影の落ちる表情が、妖しいまでに魅力的な王太子セオドリック――。
笑いながら壁に背中をつけ、足と腕を組んで、アニエスの様子を彼は面白そうに眺めている。
「お、おぉぉ王太子殿下……!!」
アニエスは背中にすうっと汗をかく。
「白い顔がさらに青くなって、背景の壁に透けてしまいそうだ」
「も、申し訳ございません……! ここ、これには、事情がございまして、いえ、事情があるからと言って許されることでは……もちろん無いのですが……!」
アニエスは、胸の前で手をぎゅうっと握る。
胸がバクバクして今にも破裂してしまいそうだ!
「そんなにおびえた顔をしないで、責めたくて君をこうして待っていたわけではない」
アニエスはそっと目を開けた。するとセオドリックのエメラルドのような瞳と目が合う。
セオドリックは自分を観察しているようだった。
頭の先から爪先まで、じっと彼の視線がアニエスをたどる。
「……可愛い」
セオドリックがふいに呟く。
アニエスが思わぬ言葉に驚き、えっと顔を上げる。
彼は美しく微笑んだ。
「だけど悪い子には、やはりお仕置きが必要だな」
「お、お仕置き!?」
アニエスは仕置きを想像して青ざめた。それにセオドリックはクスッと笑う。
「そうだよ。例えば……蜜より甘いお仕置きがね?」
セオドリックはそう言うと壁からすっと背中を起こし、スタスタとアニエスの目の前に来る。
背の高い背中を曲げてアニエスに視線を合わせると、目を閉じ、自分の唇をそのままアニエスの唇へとちゅっと押し当てた。
アニエスは突然何が起こったのか理解が追い付かず頭が真っ白になる。
セオドリックは一度唇をそっと離すと、今度は彼女を抱きしめながら、彼女の唇にもう一度しっかりと自らの唇を甘く重ねた。
……だがしかし、これはいったい、どういうことだろう?
かすかに風を切る音がした。
――次の瞬間。
セオドリックはドカンッと壁に叩きつけられていたのである!!
意味が分からず、理解が追いつかないセオドリックだったが、腹に走る鈍い痛みが、これは殴られたことによる衝撃を物語る。
「では、誰が?」と新たな疑問が頭に浮かぶも、そんなのは目の前の人物以外に他ならない。
見ると少女は格闘技の型のような、綺麗な基本の形で左腕を前へと突き出していた。
「……お叱りはもっともですが、ですが、この悪ふざけは、どういうおつもりなのでしょう?」
少女は目を細め静かに問う。
さっきの鍵の手際といい、この玄人じみた戦闘能力といい、いったいこの少女は本当に公爵令嬢なのだろうか?
もしや、それは仮の姿のスパイ。
いや、そうだった。忘れてはならない……。
彼女はたった十二歳で……しかも魔力ゼロでありながらドラゴンを倒し、その身に竜を内に宿した、国にとっては特級重要人物兼、特級警戒対象……。
「まさか、こんな風に殴られることになるとはな」
「そうですか。さすればこうゆうこともあると、どうかその胸に今後はお刻みくださいませ……」
「君がしたことの罰なのに?」
「いいえ、このようなことは罰ではなく侮蔑です。……罰なら罰として威厳を保ち、然るべき形をとるべきでしょう!!」
アニエスは、毅然とした態度で朗々と述べる。
けれどその様子に、セオドリックは内心喜んでいた。
自分の勘に間違いはなく。
この少女は今後、相当、良い女になるに違いないとこのとき確信したからだ。
婚約者もなく、誰かに唾をつけられる前のまだほんの少女の内に見つけられたのは、実にツイていたと言える。
アニエスは壁に打ち付けられたセオドリックに静かに近付く。
「そう……罰とは、こういうものでございますよ? セオドリック王太子殿下……」
アニエスはしゃがみ、壁にうなだれる彼の左わき腹の肋骨下辺りをぐりっと押した。
「?」
痛くもなく、何のためにしたのかまるで意味が分からない。
しかし、そこで目を覚ました様にハッとなったアニエスが慌ててぱっと立ち上がる。
「……で、ですので、罰はまた日を改めてお下しください!!」
アニエスは王太子の腕をひっぱり立たせて、そのズボンの汚れを必死に払うと、本日散々、練習した完璧なお辞儀を見せてから、踵を返しあっという間にその場から風のように逃亡した。
セオドリックは、そのあまりの勢いについ見送ってしまう。
しかし、一方でアニエスは……。
「あ、あ、……やってしまった。やってしまった。やってしまった……!?」
後悔に顔がサーッと青くなり、ぶつぶつ言いながら、ひたすら城内を全速力で走り抜けるのだった。




