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巡察使の身体を外に向けて放り投げたカイは、一瞬たりとも迷うことなくその場で回れ右をして、客間から駆け出していた。それはあまりにも短い時間のことで、カイの存在に気付く者は誰もいなかった。
城館2階の長い廊下を、小人族の格好をした男が恐るべき速さで駆け抜けていく。その頃になってようやく客間のほうが騒がしくなったが、あまりに意想外の出来事であったために兵士たちの初動が遅い。カイが行方をくらましてしまうには十分な時間であった。
そうしてやすやすと建物からの脱出を果たしたカイは、夜の暗がりを当てにして最短距離で防壁も飛び越え、おのれの獲物を確保すべく急いだ。
(…あの蛙、意外に弱っちいかもしれん)
まがりなりにも《五齢神紋》の『加護持ち』である。多少手荒に扱ってもたいしたことはないだろうとたかをくくっていたのだが、もしかしたら灰猿人たちにあっさりと討ち取られてしまうかもしれないと、自分で放り投げておいてカイは本気で心配していた。
あの灰猿人の指揮官、『加護持ち』としてはぜんぜんたいしたことがなさそうではあったが、蛙の『神石』を食われて余計な成長をされる展開はあまり望ましくはなかった。
村の外に出たことで、敵と認識されたのか目の前を何度も矢がかすめていく。防壁の直下を猛烈な勢いで駆け抜けていくカイを村の兵士たちが攻め立てる。次々に頭上から矢を打ち込まれて、カイは舌打ちしつつそれらを手で払いのける。
夜闇に紛れてほとんど見えないはずなのに、あっさりと矢を見極めるカイを極めて危険な存在……村の守りの隙を狙う別働の『加護持ち』と見たのか、注意を喚起する叫びが兵士たちの間に交わされる。そのなかに聞き慣れた声があるのに気づいて、そちらをチラ見すると……案の定、カイ班の面々がそこにいた。仲間たちの矢がおのれに向けられていることに、胸がひどくざわついた。
カイは息を詰めてさらに足を速めた。地を蹴って弾むように灰猿人たちの陣を飛び越えて、その背後の暗がりの中に転がるようにおのれを紛れ込ませる。仲間たちからおのれを隠すことができて、ほっとする。
「****ッ!」
「**、***!」
灰猿人たちも、頭上を飛び越えてきたカイの姿にやや狼狽を見せている。服についた土を払っているカイを指さして、なんで小人族がいる、あいつはなんだみたいなことを叫んでいる。
大半の灰猿人たちは、このいくさが目の前の偽小人族の強要によって始められたことをあまりよく分かっていないらしい。
統率が乱れかかるのを、指揮官が吠えるような引き攣れ声で強引に押さえ込んだ。その目がカイのほうを見て、「さっさと用を済ませてくれ」とかなり切迫気味の熱望を伝えてくる。灰猿人族のほうも、かなり旗色が悪いと思っているのだろう。
わかったよ、さっさと済ませようか。
だいたいの目測を付けていたあたりにカイは目を凝らして、それらしきものを発見するや再び駆け始める。放り投げた獲物はどうやらまだ無事なようだった。
夜闇のなかにうっすらと見える、収穫前のこうべを垂れ始めたキビの穂の向うに、起き上がっているらしい小男の頭が見えた。命の危険など皆無であった高みの見物席から、いきなり血なまぐさい戦場に転げ落ちてしまったのだ。相当にびびっているのがその落ち着かない頭の動きでわかった。
まあ腐っても『加護持ち』といったところだろう、身なりがひどいことになっている以外に怪我をしている様子はまったくなかった。
呆然と防壁上のかがり火に照らされるラグ村の夜戦の光景を見、灰猿人たちの動向に怯えている小男は、騒乱の渦中から跳ねるように飛び込んでくる小人族姿のカイを見つけて、腰を抜かしてへたり込んだ。
「やっ、待て!」
手振りで制してくるが、亜人が人族の言葉を分かってやる必要はない。
ラグ村の女たちから蛇蝎のごとく忌避されているその蛙顔が、エルサを切り刻んだときも愉悦に浸っていたのだろうとちらりと思っただけで、カイの心に深甚な殺意があふれ出した。
飛び込む勢いのままに拳を固めて、カイは思い切り顔面を殴りつけた。
硬いものが砕けてめり込む感触の後、セベロは身体ごと一回転した。大切なキビの穂が巻き添えでいくらか倒されてしまって、こいつごときのためにとカイは加害者側のくせに舌打ちしてしまう。
一発入れたことで少しだけ落ち着いたカイは、呼吸を整えつつゆっくりとセベロのほうへと歩み寄っていった。顔面を押さえて痙攣しているその無様な姿には、ただただ違和感しか感じなかった。
(…こいつ、本当に『加護持ち』なのか)
顔を押さえた手の間から、血が流れ落ちている。常人なら死にかねない威力の拳骨であったが、『加護持ち』ならば耐えるぐらいなんでもない程度の単純な怒り任せの攻撃である。怪我したところで加護による回復が作用して、すぐにでも起き上がってくるだろうとカイは待ち構えていた。
が、小男はいつまでも痛がるばかりで、起き上がってこない。
少し苛立ってつま先で転がすように蹴飛ばすと、すでに出血も止まり怪我の跡もなくなっているセベロの顔が露出する。ほら。やっぱり治ってやがる。
「…ま、待で」
セベロは純粋に、カイの暴力に怯えていた。
血は止まっているものの、今度は別の……涙と鼻水の洪水でその顔はえらいことになっている。
「…我輩を誰だどおぼって」
「都のお貴族様だろ」
カイはすげなくそう言って、『息子』を放り出してだらしなく広げられているセベロの足を蹴りつけた。こういう誰からも求められていない男の醜い半裸姿というのは、苛立ちを助長するものであるらしい。
カイが人族語を口にしたことで、何かに勘付いたのだろう。その目に浮かんでいた恐怖が、瞬く間にどす黒い怒りに塗り替えられていく。
「…ぎ、ぎさま、もじや村の人間か」
「………」
あっさりとばれてしまったわけだが、カイはまったく動じない。これから死んでいくやつに知られたからとて何の痛痒もないからだ。
その無反応に、セベロはたくらみを暴いてやったというように場違いな笑みさえも浮かべて、誰に命じられた、異形どもに扮すれば露見しないとでも思ったのかと、鬼の首でも取ったかのように言葉を並べ立て始めた。
「…王命を拝じた巡察じに手をあげで、だだでずむど思っだのが。…どごまで耐えられるがど試じでいだが、…とうとうやっでぐれたな!」
「………」
「もはや堪忍し難じ! きっど厳じいお沙汰がぐだされるよう、吾輩がら国王陛下に奏上じで…」
「……まだ無事でいられると思ってるのか」
カイの心底呆れたというような溜息に、セベロの顔に分かりやすく朱が差した。
つい今しがたまでお化けを見た子供のようにガタガタ震えていたというのに。中央の貴族というのは、人族相手ならば絶対的な優位が保証されていると信じ切っているのかもしれない。
本当にこの男が《五齢神紋》を持っているのだとしたら……噂通りに非常に強力な土地神の恩寵を賜っているというのなら、まあ確かにラグ村にはご当主様をはじめとした格下の3柱しかないわけで、この男が優位を確信できる素地はある。
そしてカイはその背格好から、明らかにご当主様、モロク・ヴェジンその人でないことは歴然としている。もしかしたら小人族の変装の下にある正体を、オルハ様だと半ば断定しているのかもしれない。
《三齢》と《五齢》であるならば、まずは負けない。そう踏んでもおかしくはないぐらいに、その恩寵の強さにはたしかな格差があるだろう。
セベロはようやく垂らしっ放しになっていた鼻水を拭った。
「…《五齢》にはむかうつもりか。まだいまならば、ことによっては見逃してやってもよいのだぞ」
護身のために隠し持っていたらしい懐剣が、そのはだけた服の中から出てきたのには感心したが、まあそれだけのことだった。
金銀宝石をちりばめた装飾過多な懐剣を抜き放ち、もたもたと立ち上がったセベロは、カイの仮面を睨みつけながらようやく隈取りを浮かび上がらせた。その神紋のありようをじっと観察していたカイは、ややして不思議なものでも見るように何度も瞬きした。
「…それが《五齢神紋》というやつか」
「………」
カイの疑問に、セベロは何も応えない。
この小男の顔に浮かんだ神紋は、どう好意的に解釈しようとそこまでの密度があるようには見えない。すでに何人もの『加護持ち』と殺し合いを演じ、いくつもの神紋を見てきたカイには一目瞭然だった。
二齢……いやもしかしたら三齢ぐらいはあるのか。
「…それが《五齢》か」
「…そ、そうだ、恐れ入るがいい……このセベロ家伝来の《五齢神紋》を…」
「ふーん」
「………」
カイのあまりの余裕っぷりに、セベロの額にぶわっと玉のような汗が浮かび出した。
そしておのれの神紋を検分しているふうのカイの目を潰そうと懐剣を振り回してきた。『加護持ち』の必死の攻撃であるから、子供のチャンバラみたいなそれでも十分に脅威ではあったろう。相手が常人であったならば。
刃が目に届く寸前まで余裕をもって待っていたカイは、セベロを瞠目させるような素早さでさっと刃先をつまみ……そして指先の力だけで、懐剣をあっさりと奪い取ってしまった。
そうして、目線だけで自称《五齢神紋》の小男を刺し貫いた。
「…じゃあ、せいぜい証明してみせろ」
そうしてカイもまたおのれの神紋を浮かび上がらせた。
その異形の神紋に、セベロはわなわなと震え出したのだった。
引っ張るのが好きな作者なので(笑)
たくさん感想をいただいて燃えています。