38
目が覚めると、森は朝の差し染める光に包まれていた。
草むらから身体を伸ばして顔を出す。敵に囲まれていないことを確認して、ほっと胸をなでおろす。
(オレは生き残った…)
ほんの数刻前までの、生死を賭けた闘いがまるで夢の出来事のように感じられる静かな朝であった。
(身体が軽い)
まるで生まれ変わったかのように身体が軽かった。胸の奥にわだかまる疼痛はもうわずかなものだ。起き上がった勢いでそのまま跳ねてしまいそうな、そんな過剰な活力が身体のなかから溢れてくる。
そうして鋭さを増した五感が周辺状況を自然と拾い集めてくる。
肌に触る草の感触。
草と土と、朝露の匂い。
そしてごく近くに潜む獣の汗の匂い…。
「…ッ」
カイは転がるようにして草むらから飛び出すと、おのれの身近に潜んでいるのだろう獣に相対すように身構えた。
臭いの元をたどっていくその目が、草むらの脇に膝を抱えて坐っている鹿人の少女をあっけなく発見する。特に隠れようというふうもなく、立てた膝頭に頭を乗せて、彼女はぐっすりと熟睡している。
目を覚ます前に殺すか、と逡巡したわずかな惑いの間に、少女は目を覚ました。彼女は目の前に立っているカイを見上げて、少しだけ目を丸くした後に、わたわたと慌てたように居住まいを正して、にへらっと笑顔を作った。「敵意はない」とでも言いたいのだろうか。
こういうとき、女は少しだけずるいと思う。笑顔を向けられただけで敵意が微塵もないと信じてしまいそうになる。
「***…」
少女は何事かを語りかけてきた。
しかし鹿人語などカイは知らないので、冷えた目で相手の急所をいかにして効率よく突くこうかと不穏な算段を続けている。剣呑な気配に気付いた少女は、あわてて拙い人族語を話し出した。
亜人種たちは揃いもそろって人族語を覚えているらしい。
「敵、ない。わたし、味方」
胡乱げにじろじろと見やってくるカイに、少女は膝をついて立ち上がった。
鹿人も亜人種の例にもれず二足歩行する。やや毛深いものの人族とつくりのよく似た顔は愛らしい。黒目がちのつぶらな瞳がやや怯えを含みながらカイのほうを見てくる。
薄い栗色の髪の毛の間から伸びた小枝のような角が、彼女がはっきりと鹿人であることを主張している。
「人族の言葉、何で知ってる」
なんとなく人族だけが他種の言葉を知らないバカなのではないかと不安に思ったカイはそんな問いを発して、鹿人の少女をきょとんとさせてしまった。
「わたし、邑長の、娘。知ってる、当たり前」
いわく、時に命のやり取りにさえならざるを得ない異種族間の交渉に、群れの長が言葉に通じていないことは致命的なのだという。だから長の一族は厳しく他種言語を覚えさせられるらしい。
なるほど、たしかに人族の言葉を話したのは『加護持ち』かその係累だけだった。そういえばアルゥエもポレックの孫だった。
つまりは人族でも、ご当主様以下モロク家の人たちはみな亜人種の言葉を話せるということになる。いや、話せなくては人族の沽券に関わるというものだろう。
「そうか」
カイは相手が戦闘力に乏しい少女であると納得して、警戒を一段下げた。
そうして脅威とはなりえない相手だと見極めたことで、関心まで一気に薄れさせてしまった。まあこの場限りの縁ならば、カイが『加護持ち』だということを知られていても子細ないだろう。
そんなことを考えつつ、カイはきょろきょろとしだす。
帰る前になくした装備品を探して回収しなくてはと思いついたのだ。ラグのような貧しい村は、雑兵の装備品と言えども揃えるのに苦労があるのだ。
いきなりおのれから関心を失って、その辺をうろうろと探し始めたカイの様子に、少女はしばらく戸惑っている感じであったが、そのうちになにやらぷりぷりと怒りだし、「話、終ってない!」とうるさくまくし立て始めた。
「…あったあった」
少女のお怒りなど気にも留めずに、失せ物の捜索を続けていたカイであったが、なんとなくそういう日であるのか直感的なものが冴え渡って、ほとんど迷うこともなくおのれの装備品を回収することができていた。
そうして気掛かりがなくなってから、カイは鹿人の少女をガン無視しながら鎧武者の亡骸に近寄って、手を合わせる。命懸けの戦いをした相手である。ここを去る前にお祈りのひとつでもしてやるのが礼儀だろうと思ったのだ。
その魂が迷うことなく輪廻のめぐりに戻ることを祈りつつ、至極当たり前のようにお祈りのあと遠慮も何もなく物色して、いくつか価値のありそうなものを失敬した。
鎧兜はさすがにかさばるので諦めたが、おのれを苦しめた手甲と鉄仕込みの編み上げ靴はいただいた。手甲を外すと指にごつい指輪をいくつも嵌めていたので、それらも全部回収した。腰にも小袋を下げていて、親指の先ほどの金の粒が詰まっていた。むろんいただいた。
鎧武者が、今では半裸の豚人になっていた。敗者の哀れとでも言うべきか。
(お前のものは、オレが使ってやる)
さて、みなのところに帰るか。
カイがおのれを一顧だにせず、その場から立ち去ろうとしたところで、ようやく鹿人の少女はおのれがあっさりと置き去りにされるのだという現実に直面したようだった。
「ま、待つ、です!」
涙目になって追いかけてくる鹿人の少女に、カイは心底迷惑そうに表情を歪めて、逃げ足を早くした。ただでさえ豚人族の『加護持ち』、あの鎧武者とかち合って、無事に逃げてきたというだけでも村ではかなり目立ってしまうのではないかと思う。
そこにもしも鹿人族の生き残りまで連れて行ったらどうなることか。というか、村人たちはおそらく亜人種を忌み嫌っているだろうから、考慮などする余地もなく絶対に連れて帰ったりは出来ないのだ。
あの焼け落ちた鹿人族の集落の生き残りなのだということは分かる。しかしなんでその生き残りの彼女が、カイの後を追いかけてくるのか。
「おまえに、…帰依、するです!」
「………」
「帰依、させてです!」
「………」
「無視、するな、ですッッ」
鹿人の少女の脚力は、ずば抜けていた。
『加護持ち』の逃げ足ならばついてこれるはずもないとカイが先行するのを、あっという間に追い上げて横に並んだのだ。これにはさすがのカイも驚いた。
少女のしなやかな脚は脚力を得るためだけに特化しているようで、本気を出して逃げ始めたカイになんなく追随してくる。
捜索隊として来た道を引き返したときは、ほかの仲間に足並みを揃えていたので一刻ほどかかった道のりであったが、『加護持ち』としてそれを取って返すとなればほとんど一瞬みたいなものである。
蜥蜴人の低湿地を越えたあたりで徐々に足を落とし、仲間に『加護持ち』であることを知られないように少し手前から顔の隈取りも消したカイは、相も変わらず付きまとってくる鹿人の少女を見、その愛くるしいといって差し支えないだろう面に隈取りが浮いているのを知ると、覚悟を決めたように身構えた。
『加護持ち』同士なら、もはや是非もなし。
何の躊躇もなく襲い掛かってきたカイに少女はやや慌てたものの、生来の俊敏さで地を蹴ってその攻撃をかわす。
「ま、待つ、です!」
議論したところで少女がついて来ることを諦めないことは変わらない。ならば話し合う必要など微塵もない。
ちょうど少し腹が減ってきていたところだ、その『神石』をいただいてやろう。短槍を振り回すカイのお腹がぐうぐうごろごろ鳴り出すのに、少女は心底嫌そうに悲鳴を上げた。
「おまえを、お世話、したい。…させて、ください」
「ついてくるな」
「おまえの、群れ、わたし、入りたい」
「いやだ」
「わたし、妾、なる。おまえのもの、なる」
「………」
槍の穂先が、少女の喉をとらえた。
もはや命を握られたのだと悟った少女は、ぶるぶると震えながらも潤んだ瞳でカイを見つめた。
もしもカイがそちらの方面に経験がなければ、少女からの申し入れの意味を理解しかねていたかもしれない。人の形に近いからとはいえ、まったく同じともいえない異人種からのアプローチである。むろん、その行為から子はほとんどなされない。
「…想像がつかない」
カイは思ったことを率直に返した。
人族で亜人種をそのような扱いで囲い込む者などあまり聞いたことがない。しかし亜人種同士にはそのような関係が多く存在しているのかもしれなかった。
「わたし、群れ、入れて」
泣きながら、少女が作ったぎこちない笑み。
カイの浮かべたあからさまにしわい表情に、少女は地団太を踏んでたいそう悔しがったのだった。
更新が遅れてすいません。
飲み薬のせいか眠い上に文章がうまくまとまりません。
次の更新も少し空いてしまうかもしれません。