30
まさかこの子が。
あの巡察使が無心したという『生娘』……嫌な話だとは思いつつも、そのことをどこか遠いことのように感じていたカイは、不意にビンタでも食らったように衝撃を受けていた。
腕の中にある少女の温かな身体が、それが現実なのだと告げている。
こそりとかすかに足音がしたのでカイが顔を上げると、様子を見に来たアデリアと付き添いの女たちが食料庫から出て行こうとしているのが見えた。
なんでこの子をオレに押し付けて……口から出かかった文句を、去り際のアデリアのぎこちないウインクが押しとどめた。
(…その子を任せたよ)
そう言っているのだとなぜか分かった。
そうして夜も更けた食料庫の中はカイと少女だけとなり、身じろぎして顔を上げた少女……いくつか年上のはずなのに、不安げな小さな子供のような表情を向けるエルサは強く守られることを欲していた。
「…わたしは、カイくんがいい」
「………」
そんなふうにまっすぐに異性から好意を向けられたことはいまだなかった。
戸惑いつつも、カイの中で本能的に熱を帯びてくる感情がある。男と女というのはそういう理屈ではない本能的な部分で何とかなってしまうものであり、この場のめまいのするような雰囲気はそういう流れになるべく居合わせたみなが用意したものに違いない。
カイはただなにをしていいかも分からずに、エルサを抱きしめていた。
動いたのはエルサのほうだった。
伸び上がってきた彼女の顔が急に近付いたと見えたときには、カイは唇を合わせていた。そこで彼は情けなくも腰を抜かして、壁際に尻餅をついてしまった。
二人の身体が絡み合う。
そうしてふたりは暗がりの中で混ざり合った。
森への遠征隊は次の日の朝、村を出発した。
調査の中心となる真理探究官ナーダと、選抜された4つの班、合計20人の兵士がその護衛として付き従った。村からの出発に際しては多くの村人に見送られ、カイの班も後ろを振り返っては何度も手を振った。
「…おまえ、ぜってーなんかあったろ」
朝方、粉だらけになって兵舎に戻ってきたカイを見て、ピンと来なかったものは誰もいなかった。マンソには黙って背中を叩かれ、「感想は?」と聞かれた。
みな結局一睡もしていなかったらしく、戻るなりすぐに見つかってしまったカイに状況証拠を隠滅する隙などまるでなかったのである。
すでに『経験者』であったらしいマンソがまたほかの仲間をからかうようなことをするものだから、いつまでも噛み付かれてまったく始末に負えなかった。
むろん軽率に白状したりはしない。恥ずかしいというよりもあの子の誇りと、彼自身の男の沽券にかかわる問題だとカイは思った。
「…大丈夫なのか」
「…いい。たぶん、もうこれで大丈夫。みんなもそう言ってたし」
もしもそうしてほしいというのなら、この夜にうちにでもあのいまいましい巡察使を殴り飛ばしてやってもいいと彼は思っていた。
だが、彼女は「いい」と言った。もやもやとした気持ちを引かれつつも、カイは予定通り森の深部遠征隊として村を発ったのだった。
《女会》が守ってくれる約束だし、もうカイの物になった自分に客人は関心はなかろうからと彼女は言うのだけれども……何もしてやれない自分に腹立たしさが向かうのを止めることはできなかった。
ともかくこの仕事を早く終わらせて、村に帰ろう。
そうしてあの子を谷に連れて行ってやろう、と思った。
ラグ村から一番近い森の端まではだいたい1ユルドほどである。
地図の写しらしい羊皮紙を広げて、頭巾姿の坊さんが慎重に方向を定めては進む向き調整している。最初は坊さんが先頭を歩いていたのだが、森に入るあたりでさすがにそれはありえないので、4つの班で坊さんを囲むようにした。
カイの班はそのなかでも一番実力がある班とみなされていたので、先頭を務めることになった。
兵士の中で一番腕が立つということで、カイは坊さんのそばが定位置となっている。当然ながら坊さんがコミュニケーションを取りたがる相手もカイということになり、いろいろと旅の目的やら森についての質問、取るに足らない日常会話などを再三振られることとなったカイは大いに閉口させられた。
「…この匂い袋というのは、なかなか臭いますね」
「これでオレたちの臭い、分かりづらくなる。森にいるあいだは着けておくほうがいい」
「なるほど、亜人種は鼻がいいわけですね。香草の匂いでわたしたちのそれが嗅ぎ分け辛くなる、と……かなり臭いですが」
「臭いのは我慢する」
「肝に銘じておきましょう………さて、このあたりには村人もよく入られるのですか?」
「そうだ。…でも闘えるやつだけだ、こんなとこまで来るのは」
「灰猿族の活動範囲はどのあたりから始まっているのでしょう? この遠征で最もぶつかる可能性の高いのは彼らなのでしょう?」
「このあたりは、まあ、やつらが多い」
「前にわたしも少し接触しましたが、彼らはとても好戦的なのですね。こちらの顔を見るなりいきなり襲い掛かってきました。人族とは常にあのように敵対し合っているのですか?」
「互いに見つけたら即殺す。余裕を見せて放っておくと舐められる」
「亜人種には人族と融和的な者たちもいると聞きますが…」
「小人族とかはそうだな」
「…このあたりに出没するのですか、その小人族は」
「………」
「ほかに遭遇したことのある亜人種は?」
本当に際限がない。
途中からわざとだんまりを決め込んでいたというのに、坊さんがおしゃべりをやめたのはそのずっと後に灰猿人の影を見たときだった。
実際に森に入ってしばらくはこちらが大人数でいることもあって、灰猿人たちは気配を感じただけで不用意に近付いてきたりとかはしなかった。いよいよ彼らが真の意味で『縄張り』だと信じている土地に足を踏み入れたのだと言うことだった。
「いよいよですか…」
「何かを見に行くだけなら、下手に争わないほうがいい」
カイが会話しようとしないために気を遣ってマンソが坊さんの会話に応じた。
たしかにここで戦って何匹かやつらの仲間を殺したら、その復讐心を煽ってその後きりがなくなるだろう。
しばらくの間灰猿人の斥候に後を追われたものの、途中から湿地のほうへ……蜥蜴人たちの影響が強そうな場所を狙って歩くことで、いったん彼らをまくことに成功する。
そうして最初の一日は無事に終えて、鬱蒼と生い茂った藪の中に拠点を設営することが出来たのだった。
藪の奥のあたりを刈り込んで、何とか寝転がれるだけのスペースを作っただけの拠点であるから、快適性などは皆無である。それに火も焚けない。煙で発見されてしまうからだ。
「…だいぶ『目的地』には近づきました。あと一日歩けばどうにかたどり着けるのではないでしょうか」
「片道で2日か……蜥蜴人の縄張りをうまく使えば来れないこともないんだな、深部って」
堅焼きパンをかじりながら、カイは感心したように見慣れない森の風景に見入っていた。
バレン杉の多い植生は変わってはいないものの、圧倒的に巨木が大きくなり、それと同じくしてツタ性の木と地面に低くはびこる低木が増えてきている。
誰かがツタに生った親指ほどの実を取って食べてみたが、芋みたいな食感で食べられないこともないと言っていた。
いつもおしゃべりな坊さんであったが、そのときは何かに集中しているようでわりと静かだった。ときおりはっと我に返っては、地図に何かを書き込み続けている。
「…だいぶんと数が集まっていますね」
坊さんはいちおう護衛にも状況を教えるつもりであるらしく、兵士たちを集めておのれが知り得た情報を余さず伝えてくれた。
いわく、この先に灰猿人族たちが1000匹ほど集まっている。
そしてそれに対抗するように、同じくらいの数の豚のような亜人が……おそらくは豚人族のことだろう……集団でにらみ合っているらしい。
そしてその両者にらみ合いの土地の中心に、坊さんが調べようとしているものが……なにがしかの土地神のものと思しき『墓所』があるという。
「その周りにあった集落は、昨日までにすっかり焼かれてしまったようです。襲ったのは豚の亜人たちのようです」
「灰猿人の村が襲われて、奪われたってことか」
「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません……ただ相当な死者が出ていることは間違いありません。輪廻へと還る霊光がたくさん瞬いていましたから」
亜人種は人族を襲うばかりではない。
彼ら同士もまたこんな人目につかぬ場所で凄惨な殺し合いを続けている。人族も数が減っているが、彼らだってそうなのかもしれない。
「それだけの同胞の死を甘受してまで、欲する土地神とはどのようなものなのでしょうか」
穏やかな口調で話す坊さんであったが、その瞬間に見せた昏い狂気の光に、兵士たちは思わず目線をそらした。やばい坊さんだと皆が思ったに違いない。
ヤバくなければこんな場所まで来るはずもないか、とカイはぼんやりと谷のことを思った。亜人種に囲まれて過ごすことに彼は抵抗があまりなくなっていた。
谷に連れて行ったあの子がどんな顔をするのだろうか、それを想像するだけで心がうずうずとしてくる。
そうしてそのときになってようやく谷に留守番させているもうひとりの少女を思い出して、「あっ」と短く声を出したのだった。
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