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最近、空腹に苦しむことの減ったカイは、夕食時に領主家の食卓をうらやましげに眺めることがなくなった。
谷がもたらす森の恵みは滋養にも富み、万年欠食児童であったカイの肌艶をかなり良くしていた。全身から活力が溢れ、その表情も飢えからくるしみったれた雰囲気とは縁遠くなった。
そういう変化に敏感なのはやはり男よりも女であるわけで、飢えていないと言うことは食事の配膳で十分な便宜を図られているということの裏返しに捉えられていた。
複数の女性が『贔屓』し始めている証であり、女性とはそうした同性の見せる機微に敏感なものである。有望株と多くの女性が見做したのだから、この男はたしかに買い時であるのに違いない。彼女らはあまり深く考えることなくそんな『流れ』に感覚的に乗ろうとする傾向があった。
「…おい、さすがにそれは」
仲間から言われて、カイは手にした皿の上に盛られた料理の山にいまさらのように瞬きする。
飢えていないと言うことが、さらなる食い物を呼び込むという皮肉。
いつもなら嫉み半分にからかわれる程度のものであったのに、その日はさすがにドン引きされてしまって、突っ込みさえもしてこなかった。
「…少しずつ分けるよ」
「あ、ああ」
もともと優遇されているマンソにまでおすそ分けして、どうにかいつもと同じくらいの量になる。それでも仲間からは感謝の反応はなく、気まずい食事となってしまったのだった。
配膳係の女たちは、食堂の領主席の近くに並んで立っている。
カイのもの言いたげな視線を受けて、そのうちの何人かがアピールするように小さく手を振ってきた。
紛れもない、モテ期の到来である。
「これはもう、空気を読んでくれねーとな」
「最近白姫様とも普通に挨拶するそうじゃねーか。どんな手使ったかはしんねえけど、おまえちゃんと手ぇ抜けよ」
そうそうと頷き合う仲間たち。
それはこの朝食の後、村の兵士たちを集めて行われるといううわさの『掃除当番決め』の選抜戦のことを言っているのだ。
月に一回、ラグ村を治めるモロク家では、『墓所』の掃除を行うのが決まりだった。モロク家にはご当主様、オルハ様、白姫様の3人の『加護持ち』がいて、その数の分だけ土地神が眠る『墓所』が存在する。
ご当主様の本村神、『ラグの守り神』の墓所はまあ当たり前というか、ラグ村の中心にある城館の地下にある。ラグ村はその土地神の墓所を中心に生まれた集落であり、城館はその墓所を守るために建てられたに過ぎないのだとカイは教えられながら育った。
むろん、オルハ様と白姫様に加護を与えている土地神の墓所は別にあるわけで……度重なる亜人族の襲撃で再建を放棄した村がモロク家には他にふたつあった。
ひとつはかつてラグ村の半分ほどの人が住んでいたというエルグ村。
いまひとつはさらのその半分ぐらいの小村で、エダ村。
どちらも10年以上前に廃村となり、いまではほとんどが雑草で覆われ、広がりつつある森にじわじわと飲まれかかっている。
『三邑(村)の主』と呼ばれたかつてのモロク家は、辺土でも指折りの有力家だったそうである。
集落そのものは失われても、モロク家は執念深くその土地の墓所だけは奪われまいとした。墓所を覆う祠を建て、それを盛り土して亜人族の目から隠してしまったのだ。
むろんひどい扱いを受けると土地神の加護は弱まったりする。土地神の不興を買わぬよう、モロク家は村がなくなってからも定期的に墓所の供養を行っていた。
「『白姫班』の競争は厳しいからな」
「おまえが遠慮すれば、席がひとつ空く」
「………」
白姫様に加護を与えている土地神の墓所は、そのエダ村だった。
供養はその恩寵を受けた当主が行わねばならないので、エダ村には絶対に白姫様も向わねばならないのだ。その護衛役をつとめることが、女日照りの男たちのささやかな夢だった。
むろん特に思うところもないカイは、簡単に承諾した。
それは朝食後に兵士たちの間で密かに行われる『選抜戦』への挑戦を行わないと言う約束であった。カイはたしかに、白姫班の護衛に手を挙げたりはしなかった。
(…なんでこうなった)
カイは自問しつつも、横に並んだ白姫様からの語りかけに耳を傾けていた。
護衛役に手を挙げなかったのは本当だった。まさか白姫様から逆指名がかかるなどとはだれも想像などしていなかったに違いない。
「…あなた、ちゃんと聞いてる?」
「…ん、ああ」
「いっつもこんなに大がかりに護衛なんて集めなくてもいいのに、おとうさまったらわたしのことをいつも子供扱いして……わたしだって『加護』をちゃんと使いこなしているんだから。そのために訓練だってしてるし、灰猿人の民が襲ってきたって、わたし一人でも十分対処できると思わない? わたし十分に槍とかも使えるのよ? あなたなら見てるからわかるでしょ?」
「……まだ力任せだけどな」
「…うっ」
白い面に血を昇らせて、白姫様は不服げに頬をぷくっと膨らませた。
遠くから見ているだけなら領主家の品の良い姫様にしか見えないのだけれども、近くでこうしてともに息をしていると、意外なほどに表情豊かな少女の素顔を見ることができる。
なびく白い髪からはいい匂いが漂い、後ろをついてきている若い兵士たちはすっかりと鼻を伸ばしている。行く手を見るその赤い紅玉のようなきれいな瞳は、前からちらちら振り返ってくる前衛の奴らの鼻息を荒くさせている。
前後を挟まれた形の仲間たちから彼に送られてくるものは、嫉妬という名のチクチクと痛い視線だった。
「でもわたしだって素早く動けるし、力だってあるわ。どっちもカイよりも上よ? それでどうして…」
「どれだけ早さを誇っても自分から武器に当たりに行く間抜けは死ぬし、どれだけ力に自信があっても空振りばかりで敵に当てられなければただのバカだって、ご当主様も言ってた」
「………」
「多少の力の差は武技で補える。兵士はみんなズーラ流を習ってるし、たぶん半分くらいのやつは加護がなくたって姫様相手に勝てると思う」
「…だけど」
「姫様は守りの固さもご当主様やオルハ様には及んでない。それは姫様自身のせいじゃないと思うけど、土地の神様の『加護』に大きな差があるのはみんな知ってる」
「………」
悔しそうに口をつぐむ白姫様。
彼女の持つ土地神の加護は、年々弱っていっている。モロク家がその土地を支配していないことが、恩寵を失わせている原因なのだと言われていた。
「…そんなの、分かってる」
分かっているからこそ、ご当主様も『白姫班』に多くの護衛を配している。人数をかけて墓所を丁寧に掃き清めよ、ということなのだろう。供物として今年採れた芋と蕪、それに村で作った貴重な果実酒も持ってきている。果実酒など、口にしたことのある村人を数えた方が早いくらいに贅沢品だ。
そうして歩いていくうちに、村の廃墟が見えてきた。
丈高い草に覆われたその無人の集落こそがエダ村だった。
白姫様の土地神のおわす場所であり、12年前にまだ赤子だったカイが両親と暮らしていた本当の生まれ故郷でもあった。亜人族の襲撃によって破壊された村は、亡くなった大勢の村人とともにそのまま土に還されることになった。本村であるラグ村に人を集めて、亜人族の襲撃に対抗しようとご当主様が決定を下したからだ。
カイの両親もこの村に葬られている。
だが時が立ち過ぎて、墓の場所はもう分からなかった。土まんじゅうでしかない村人の墓は、風雪の厳しい時期がめぐる辺土ではすぐにこぼたれて他と分からなくなってしまう。そういう自然への還り方を辺土の民たちは人生の一部として受け入れていた。
生活した記憶もない廃村に、カイもそれほど思い入れはなかった。路傍で摘んだ花をほかの兵士たちと一緒に崩れ落ちた門の礎石に並べて置いた。
「…さあ、墓所を塵ひとつないぐらいにきれいにするぞ!」
フリンという猫背で歩く男が、手振りで兵士たちに指示を飛ばした。マンソみたいに違う班のリーダーを務める男だ。
亜人族が棲みつかぬよう、家はすべて屋根を落とされ、壁を突き崩されている。その廃墟の中を進むと、村の中央付近にかなり大きめの建物の基礎がむき出しになっているところがあり、そこが村の集会所でもあった拝所の跡地であった。人族の土地神信仰が宗教の形をとったもので、たいていはその土地の神と、都で崇められている王家に恩寵を与えているというとても力の強い3柱の大神の姿を描いた摺り絵が額に貼られ、村人が手を合わせる場所になっている。ときおり辺土を回っている僧侶が立ち寄ったときに、簡単な法要が営まれる。
ラグ村にも同じような拝所がある。ただしもう少し立派な作りで、巡回僧のための宿坊を備えているので、そこは拝所ではなく正式な僧院とみなされている。
建物跡の中央付近を浅く掘り返すと、中から石の蓋が出てきた。そいつを数人がかりで持ち上げると、エダ村の墓所へと続く地下通路が姿を現した。
エダ村の土地神は、その地中に隠されていたのだ。
蓋を開けた時に臭い立ったカビ臭に、カイは顔をしかめた。これでは神様がかわいそうだ、と彼は思った。