パグとダンジョン攻略開始
「忘却の岩山」の入り口は、まるで巨大な獣が口を開けて獲物を待っているかのような、陰鬱な洞窟だった。
一行がその暗がりの前に立つと、冷たい湿気が肌を刺すように吹き付けてくる。
「行くぞ。ここからは何が起きても、俺の背中から離れるな」
ゴンが短く告げると、セドリックとアーチャも無言で頷き、それぞれ武器を手に取った。
エルは、杖を握る自分の手が激しく震えていることに気づいた。杖の表面に滲む冷や汗が、今の自分の緊張を物語っている。
(足が、動かない……)
「エルちゃん、深呼吸して。大丈夫、私たちが前衛を任されてるんだから、あなたの出番までにはちゃんと道を作るわよ」
アーチャが肩を軽く叩いてくれる。
その温もりは優しかったが、エルの心臓の鼓動は早まるばかりだった。
これまで「落ちこぼれ」として座学ばかりを強いられてきた彼女にとって、現実のダンジョンは本の中の怪物たちが牙を剥く、血塗られた世界そのものだったからだ。
セドリックが、エルの方を向かずに力強く言葉を添える。
「背後は俺が死守する。エル殿は、ただ自分の内側の魔力を感じることだけに集中してください。それが、今の戦いにおいて一番の支援になる」
仲間の言葉を受け、エルは懸命に頷く。
ゴンが先頭に立ち、暗闇の中に松明の火が揺らめいた。その背中は、どんな障壁も粉砕して進むかのような、圧倒的な覇気を放っている。
(私には、この人たちの言うような「力」なんてあるのかな) 疑念と恐怖、そしてゴンに見出された可能性への微かな期待。それらが混ざり合い、エルの中で嵐のように渦巻いていた。彼女は震える足に無理やり力を込め、洞窟の暗闇の中へと一歩を踏み出した。
一行が歩みを進めるにつれ、通路はさらに狭まり、天井からは粘り気のある水滴が絶え間なく滴り落ちていた。
松明の灯りが岩肌を舐めるたびに、それがまるで巨大な蛇の鱗のように見え、エルの心拍数は上がる一方だった。
「・・・静かすぎるわね。さっきまでの殺気が嘘みたい」
アーチャが剣を握ったまま、周囲に視線を走らせる。彼女の言葉通り、奥へ進めば進むほど、ダンジョンは静寂に包まれていた。魔獣の咆哮はおろか、虫の羽音一つ聞こえない。ただ自分たちの足音だけが、不気味なほど鮮明に響き渡る。
セドリックは盾を構えたまま、慎重に壁伝いに歩を進める。
「師匠、奇妙です。澱みが溜まっているこの場所なら、小物の魔獣くらい徘徊しているはずですが・・・」
ゴンは足を止めず、鼻を鳴らした。
「ああ。狩られる側が、あえて道を開けている。この先の『ダンジョンコア』に近い領域まで、俺たちを誘い込もうとしてやがる」
エルにとって、その「何も現れない」時間が何よりも苦痛だった。いつ、どこから敵が飛び出してくるか分からない。その得体の知れない恐怖が、彼女の神経を極限まで尖らせる。杖を握る指は白く硬直し、額から流れる汗が目に入っても拭う余裕すらなかった。
(何か出てきて! 怖いから、早く終わらせて・・・)
彼女の心は、極度の緊張で悲鳴を上げていた。だが、どれだけ歩いても目に飛び込んでくるのは古びた石柱と、埃っぽい通路だけ。緊張が持続しすぎて、感覚が麻痺しそうになる。
アーチャがそんなエルの様子を察したのか、わざと大げさに肩をすくめた。
「あーあ、つまんないわね! 楽して進めるのはいいけど、これじゃエルちゃんの魔力を温存しすぎるわよ?」
「アーチャさん、あまり気を抜かないでください」
セドリックが苦笑しながら窘めるが、彼もまた、どこか張り詰めた空気を緩和しようと肩の力を抜く。
ゴンは無言のまま先頭を行く。彼だけは、その静寂の向こう側にある「深淵の意思」を、肌で感じ取っているようだった。
何も現れない。しかし、確実に何かが近づいてくる。
一行は、終わりの見えない緊張を背負いながら、暗闇の最深部へと足を踏み入れ続けていた。




