パグとセドリック
壁の凹みに身を預け、セドリックは血の混じった唾を吐き出した。胸を抑える手は細かく震えている。
彼の瞳に焼き付いているのは、敗北の恥辱よりもさらに深く、根源的なもの――理解を拒絶する「絶対的な強さ」への恐怖だ。
練兵場に流れる沈黙は、重く、淀んでいる。剣を交える音も怒号も消え失せ、ただセドリックの乱れた呼吸だけが、場違いなほど執拗に繰り返されていた。
ゴンは、砕け散った魔剣の破片が散らばる地面を、ゆっくりと踏みしめて歩き出した。
その足取りはあまりにも静かで、まるで獲物を追い詰める捕食者のそれだった。
「・・・セドリック」
ゴンの低く地を這うような声が、冷たい風に乗って練兵場に溶け込んだ。周囲の騎士たちは、意識を失いかけていながらも、その響きに反射的に身を震わせる。
「俺の拳は、暴力の道具などではない。お前たちの、その薄っぺらな矜持を叩き直すためのものだ」
ゴンはそこで立ち止まり、背中を向けたまま空を見上げた。 夕闇が迫り、空は紫から黒へと塗り替えられようとしている。彼は振り返ることなく、淡々と告げた。
「これでもう、この茶番は終わりだ。次に俺の前に立つなら、剣ではなく・・・お前自身の意志を磨いてから来い」
ゴンはそのまま、振り返ることなく歩みを進めた。
後に残されたのは破壊された剣と、傲慢に振る舞っていた男が、ただ泥にまみれて喘いでいる無残な光景だけだった。
その背中を、練兵場の入り口から数人の影が見守っていた。
王国軍の重鎮たちだ。彼らの表情には恐怖と困惑、そしてかすかな期待が入り混じっている。彼らはゴンの強さを目の当たりにし、言葉を失っていた。
「あれが、獣人か」
一人が呟く。しかし、それはもはや侮蔑の響きを含んでいなかった。ゴンの圧倒的な実力を見せつけられた今、彼らにあったのは、この男を飼い慣らすことができるのか、それともこの男によって既存の秩序が塗り替えられてしまうのかという、根源的な問いだけだった。
静まり返った練兵場。若手騎士が恐る恐る伸ばした手を、セドリックは拒絶するように激しく振り払った。
「・・・触るな」
掠れた声は、刃のように鋭く空気を裂いた。
彼は血走った瞳のまま、ゴンが消えた闇の深淵を射抜くように睨みつける。胸中に渦巻くのは、単なる敗北の屈辱ではない。蹂躙された自尊心の裏側で、初めて触れた「本物の強さ」が、毒のように彼の血を駆け巡っていた。
あの力を、この手で掴めるのなら。
セドリックは泥を噛むように歯を食いしばり、震える足で立ち上がる。その瞳には、かつてない異様な熱が宿っていた。プライドも地位も、騎士としての体裁すらどうでもいい。ただあの背中を追わなければ、自分は一生、このまま終わる。
その渇望は、もはや狂気と言ってよかった。




