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第9話 視姦-耳かき嬢~ただの仕事のはずなのに、その視線にまとわりつかれて~

耳かきの仕事は、主にお客様の耳掃除を行うサービスだ。


自宅近くの秋葉原で、早乙女は風俗的なサービスを扱わない耳かき専門店を選び、この仕事を始めた。

数週間の研修を終えたあと、新しい仕事への期待を胸に、彼女は正式に働き始める。


毎日、誰よりも早く店に入り、道具を準備し、店内を整え、開店前には自主的に掃除までこなす。

その姿勢のおかげで、彼女はすぐに職場に馴染んでいった。


耳かきの仕事は、単なる耳掃除にとどまらない。


施術の前には浴衣に着替え、耳かきの際にはお客様に膝の上で横になってもらう——いわゆる膝枕。

さらに、予約時間内では軽い首のマッサージや会話の相手も務める。


早乙女は特別目立つ容姿ではない。

けれど、所作は丁寧で、話し方は柔らかく、細部にまで気を配る性格だった。


その積み重ねによって、店内で少しずつ評判を得ていき、やがて指名してくれる客も現れるようになる。

指名料による収入のおかげで、家計の不安もようやく落ち着いた。


——もう少し頑張れば、この家を支えられる。

彼女は、そう信じ始めていた。



——その客が現れるまでは。


最初は、他の客と何も変わらなかった。

決まった時間に来店し、一定の間隔で通う——いわば理想的な常連。


だが、いつからか様子が変わり始める。


来店頻度が、不自然に増えていった。

二週間に一度が、週に一度へ。

そして——ほぼ毎日へ。


彼の名前は、佐藤恒一(さとうこういち)


三時間以上の長時間コースを取ることも増えた。

耳かき自体は二、三十分ほどで終わるため、それ以外の時間はマッサージや会話で埋めるしかない。


最初は、ただの雑談だった。


けれど——次第に、質問の内容が変わっていく。


「俺って、どう見える?」


その瞬間、早乙女の手が止まった。


少し痩せた顔。

そして、どこか濁ったような細い目。


彼女は一瞬だけ迷ってから答える。


「……普通、少し上くらい、ですかね」


空気が、すっと冷えた。


相手の表情が固まり、やがて歪む。


「毎回ちゃんと整えて来てるんだけど? 俺、もっとカッコいいはずだよな?」


声の温度が、消えていく。


早乙女はすぐに笑顔を作り、取り繕う。


「いえいえ、上のほうってかなり高い評価ですよ。私も普通ですし……」


その一言が、何かのスイッチになった。


彼はふっと笑う。


「じゃあ、俺たちお似合いじゃん」


その瞬間、早乙女は初めて感じた。


——これは「お客様」じゃない。

何かが、まとわりついてきている。


笑顔を保ちながらも、指先がわずかに冷えていった。



七月十五日。

彼女の誕生日。


その日の朝、いつものように駅を出ると——


彼が、いた。


佐藤は出口のそばに立ち、まるで最初から待っていたかのように動かない。

スマホを見るでもなく、周囲を気にするでもなく——ただ、彼女を待っていた。


目が合った瞬間、彼は笑った。


「これ、あげる」


差し出された紙袋。

中には、たくさんのゼリーが入っていた。


その瞬間、背筋にぞっとしたものが走る。


——意味がわかってしまった。


彼女はほとんど反射的に背を向ける。

歩き出し、やがて早足になり、最後には走り出していた。


店に駆け込み、扉を閉めたとき、ようやく自分が震えていることに気づく。


店長に事情を説明する声も、少し不安定だった。


そして——


入口に立っていた佐藤は、それをすべて聞いていた。


何も言わず、ただ彼女を見ている。


その視線は静かで、だからこそ不気味だった。


やがて彼はカウンターへ向かい、予約をキャンセルする。


それだけだった。



その日を境に、彼女は恐怖を覚えるようになった。


SNSで助けを求める投稿をした。

すると間もなく、佐藤が再び店に現れた。


施術の最中、彼は不意に口を開く。

「この前の投稿、見たよ」


その一言で、血の気が一気に引いた。

彼女は何も答えられなかった。


三時間。

その間、ひと言も発することができなかった。


施術が終わると、彼女はすぐに店長へ異動を願い出た。

離れれば、終わると思ったからだ。


配属先は新宿。秋葉原から十キロほど離れている。

——これで安全だと思った。


だが、違った。


やがて、メッセージが届き始める。


「今どこにいるの?」

「今日は出勤してないの?」


電話も鳴るようになった。

毎回、違う番号。


けれど——声は同じだった。


彼女はSIMを変え、アカウントを変え、帰宅ルートも変えた。

それでも——連絡は止まらない。


むしろ、正確さを増していく。

距離が、近づいてくる。


まるで——背後に誰かが立っているかのように。


「今日は帰り遅いね」

「ルート変えた?」

「どう変えても、無駄だよ」


振り返ることも、立ち止まることもできなくなった。

やがて——「見られている」という感覚すら、疑えなくなる。



ある日、新宿の店で——彼を見た。


何事もなかったかのように、そこに座っている。


その瞬間、理解した。

この距離に、意味はない。


それからの日々は、地獄だった。


彼は一日中、時間を押さえるようになる。

彼女は必要最低限のことしか話さなくなった。


だが——彼は触れてきた。


指先。手首。服の裾。

少しずつ、少しずつ——境界線へと近づいてくる。



「仕事終わりに映画、どう?」

返事はしない。


「じゃあ、食事は?」

沈黙。


「じゃあ、俺が行くよ」


その一言で、体が固まった。


それ以降、彼はもう尋ねない。

——行動するだけになった。



そして、ある日。

ついに——見てしまった。


人混みの中で。

ガラスの反射の中で。

電車の窓に映る景色の中で。


——あの目が、ずっとそこにあった。


隠れることも、逃げることもなく。

ただ、こちらを見ている。


視線が交わった瞬間、佐藤はゆっくりと近づいてきた。


「ずっと見てたよ」

静かな声だった。


「君って、ほんと優しいよね」

「毎日、君のこと考えてる」

「俺たち、付き合うべきだよ」


その瞬間、世界が空っぽになった。


息ができない。

思考も止まる。


ただ一つの衝動だけが残る。


——逃げなきゃ。


彼女は振り返り、走った。

家に飛び込み、鍵を閉め、カーテンを引く。


それでも——


「見られている」という感覚は消えなかった。

むしろ、強くなる。


壁も。天井も。スマホの画面も。

すべてが——目に見えた。


現実と、それ以外の境界が崩れていく。


そして——彼女は壊れた。



話し終えたあとも、早乙女の手は震えていた。

無意識に服の裾を握りしめ、指先が白くなる。


あの感覚は消えていない。


振り返れば——どこかにいる気がする。

見えない場所で、じっと見ている気がする。


沈黙が、しばらく続いた。


やがて——


夏玖微の目が、わずかに輝いた。


次の瞬間、口元に浮かぶのは——どこか歪んだ笑み。


「解決できるよ」


軽い口調だった。

まるで、大したことではないかのように。


「それどころか——」


彼女は首を傾げる。


「“見られる側”ってどういう気分か、あいつにも味わわせてあげる」


「ただし——私の指示には、ちゃんと従ってもらう」


早乙女は小さく頷いた。


次の瞬間——


空間が、静かに裂けた。


夏玖微、陸念安、そして早乙女直美。

三人は一瞬で、彼女の自宅へと移動していた。



深夜。


早乙女は、はっと目を覚ました。


隣を見る。

——誰もいない。


部屋には、自分一人だけ。


さっきまでの出来事は、現実から切り取られたように消えていた。


呼吸が浅くなる。

指先が震える。


「……夢?」


そう呟いたが、自分でも信じていなかった。


もう、会いたくない。

あの感覚も、二度と味わいたくない。


それでも——


「見られている」感覚だけが、消えない。


ベッドに戻り、目を閉じる。

けれど浮かぶのは——あの目だけだった。


あの、ずっと自分を見ていた目。


結局、一睡もできなかった。



時間が過ぎ、やがて朝になる。


光がカーテンの隙間から差し込む。

それでも彼女は、動かなかった。


天井を見つめたまま、何も考えられない。


外に出たくない。

この部屋から、一歩も出たくない。


——出た瞬間、また見つかる気がするから。



「……あ、時間差のこと忘れてた」


夏玖微は頭をかき、少し気まずそうに笑った。


珍しく、その笑みにぎこちなさが混じる。


隣で、陸念安の表情がわずかに変わる。


何も言わず、すぐに動き出した。


部屋、リビング、廊下——

足取りが、次第に速くなる。


そして、最後の扉を開けた。


ベッドの上の姿を見た瞬間——

ようやく、息を吐く。


押し殺していたものが、ゆっくり抜けていく。


彼女はベッドに近づき、声を落とす。


「……大丈夫?」


早乙女は一瞬、固まった。


その声に、覚えがあった。


ゆっくりと顔を向ける。


陸念安の姿が目に入った瞬間——


張り詰めていたものが、一気に崩れた。


喉が詰まり、息がうまくできない。


そして——涙が溢れた。


止めることができなかった。


——もう、一人じゃない。


そう思えたから。



陸念安はしばらく何も言わず、ただそこに立っていた。


数秒後、ようやく口を開く。


「……ごめん」


小さな声で。


「来るのが、遅くなった」

【作者からのお願い】


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