第9話 視姦-耳かき嬢~ただの仕事のはずなのに、その視線にまとわりつかれて~
耳かきの仕事は、主にお客様の耳掃除を行うサービスだ。
自宅近くの秋葉原で、早乙女は風俗的なサービスを扱わない耳かき専門店を選び、この仕事を始めた。
数週間の研修を終えたあと、新しい仕事への期待を胸に、彼女は正式に働き始める。
毎日、誰よりも早く店に入り、道具を準備し、店内を整え、開店前には自主的に掃除までこなす。
その姿勢のおかげで、彼女はすぐに職場に馴染んでいった。
耳かきの仕事は、単なる耳掃除にとどまらない。
施術の前には浴衣に着替え、耳かきの際にはお客様に膝の上で横になってもらう——いわゆる膝枕。
さらに、予約時間内では軽い首のマッサージや会話の相手も務める。
早乙女は特別目立つ容姿ではない。
けれど、所作は丁寧で、話し方は柔らかく、細部にまで気を配る性格だった。
その積み重ねによって、店内で少しずつ評判を得ていき、やがて指名してくれる客も現れるようになる。
指名料による収入のおかげで、家計の不安もようやく落ち着いた。
——もう少し頑張れば、この家を支えられる。
彼女は、そう信じ始めていた。
◇
——その客が現れるまでは。
最初は、他の客と何も変わらなかった。
決まった時間に来店し、一定の間隔で通う——いわば理想的な常連。
だが、いつからか様子が変わり始める。
来店頻度が、不自然に増えていった。
二週間に一度が、週に一度へ。
そして——ほぼ毎日へ。
彼の名前は、佐藤恒一。
三時間以上の長時間コースを取ることも増えた。
耳かき自体は二、三十分ほどで終わるため、それ以外の時間はマッサージや会話で埋めるしかない。
最初は、ただの雑談だった。
けれど——次第に、質問の内容が変わっていく。
「俺って、どう見える?」
その瞬間、早乙女の手が止まった。
少し痩せた顔。
そして、どこか濁ったような細い目。
彼女は一瞬だけ迷ってから答える。
「……普通、少し上くらい、ですかね」
空気が、すっと冷えた。
相手の表情が固まり、やがて歪む。
「毎回ちゃんと整えて来てるんだけど? 俺、もっとカッコいいはずだよな?」
声の温度が、消えていく。
早乙女はすぐに笑顔を作り、取り繕う。
「いえいえ、上のほうってかなり高い評価ですよ。私も普通ですし……」
その一言が、何かのスイッチになった。
彼はふっと笑う。
「じゃあ、俺たちお似合いじゃん」
その瞬間、早乙女は初めて感じた。
——これは「お客様」じゃない。
何かが、まとわりついてきている。
笑顔を保ちながらも、指先がわずかに冷えていった。
◇
七月十五日。
彼女の誕生日。
その日の朝、いつものように駅を出ると——
彼が、いた。
佐藤は出口のそばに立ち、まるで最初から待っていたかのように動かない。
スマホを見るでもなく、周囲を気にするでもなく——ただ、彼女を待っていた。
目が合った瞬間、彼は笑った。
「これ、あげる」
差し出された紙袋。
中には、たくさんのゼリーが入っていた。
その瞬間、背筋にぞっとしたものが走る。
——意味がわかってしまった。
彼女はほとんど反射的に背を向ける。
歩き出し、やがて早足になり、最後には走り出していた。
店に駆け込み、扉を閉めたとき、ようやく自分が震えていることに気づく。
店長に事情を説明する声も、少し不安定だった。
そして——
入口に立っていた佐藤は、それをすべて聞いていた。
何も言わず、ただ彼女を見ている。
その視線は静かで、だからこそ不気味だった。
やがて彼はカウンターへ向かい、予約をキャンセルする。
それだけだった。
◇
その日を境に、彼女は恐怖を覚えるようになった。
SNSで助けを求める投稿をした。
すると間もなく、佐藤が再び店に現れた。
施術の最中、彼は不意に口を開く。
「この前の投稿、見たよ」
その一言で、血の気が一気に引いた。
彼女は何も答えられなかった。
三時間。
その間、ひと言も発することができなかった。
施術が終わると、彼女はすぐに店長へ異動を願い出た。
離れれば、終わると思ったからだ。
配属先は新宿。秋葉原から十キロほど離れている。
——これで安全だと思った。
だが、違った。
やがて、メッセージが届き始める。
「今どこにいるの?」
「今日は出勤してないの?」
電話も鳴るようになった。
毎回、違う番号。
けれど——声は同じだった。
彼女はSIMを変え、アカウントを変え、帰宅ルートも変えた。
それでも——連絡は止まらない。
むしろ、正確さを増していく。
距離が、近づいてくる。
まるで——背後に誰かが立っているかのように。
「今日は帰り遅いね」
「ルート変えた?」
「どう変えても、無駄だよ」
振り返ることも、立ち止まることもできなくなった。
やがて——「見られている」という感覚すら、疑えなくなる。
◇
ある日、新宿の店で——彼を見た。
何事もなかったかのように、そこに座っている。
その瞬間、理解した。
この距離に、意味はない。
それからの日々は、地獄だった。
彼は一日中、時間を押さえるようになる。
彼女は必要最低限のことしか話さなくなった。
だが——彼は触れてきた。
指先。手首。服の裾。
少しずつ、少しずつ——境界線へと近づいてくる。
「仕事終わりに映画、どう?」
返事はしない。
「じゃあ、食事は?」
沈黙。
「じゃあ、俺が行くよ」
その一言で、体が固まった。
それ以降、彼はもう尋ねない。
——行動するだけになった。
◇
そして、ある日。
ついに——見てしまった。
人混みの中で。
ガラスの反射の中で。
電車の窓に映る景色の中で。
——あの目が、ずっとそこにあった。
隠れることも、逃げることもなく。
ただ、こちらを見ている。
視線が交わった瞬間、佐藤はゆっくりと近づいてきた。
「ずっと見てたよ」
静かな声だった。
「君って、ほんと優しいよね」
「毎日、君のこと考えてる」
「俺たち、付き合うべきだよ」
その瞬間、世界が空っぽになった。
息ができない。
思考も止まる。
ただ一つの衝動だけが残る。
——逃げなきゃ。
彼女は振り返り、走った。
家に飛び込み、鍵を閉め、カーテンを引く。
それでも——
「見られている」という感覚は消えなかった。
むしろ、強くなる。
壁も。天井も。スマホの画面も。
すべてが——目に見えた。
現実と、それ以外の境界が崩れていく。
そして——彼女は壊れた。
◇
話し終えたあとも、早乙女の手は震えていた。
無意識に服の裾を握りしめ、指先が白くなる。
あの感覚は消えていない。
振り返れば——どこかにいる気がする。
見えない場所で、じっと見ている気がする。
沈黙が、しばらく続いた。
やがて——
夏玖微の目が、わずかに輝いた。
次の瞬間、口元に浮かぶのは——どこか歪んだ笑み。
「解決できるよ」
軽い口調だった。
まるで、大したことではないかのように。
「それどころか——」
彼女は首を傾げる。
「“見られる側”ってどういう気分か、あいつにも味わわせてあげる」
「ただし——私の指示には、ちゃんと従ってもらう」
早乙女は小さく頷いた。
次の瞬間——
空間が、静かに裂けた。
夏玖微、陸念安、そして早乙女直美。
三人は一瞬で、彼女の自宅へと移動していた。
◇
深夜。
早乙女は、はっと目を覚ました。
隣を見る。
——誰もいない。
部屋には、自分一人だけ。
さっきまでの出来事は、現実から切り取られたように消えていた。
呼吸が浅くなる。
指先が震える。
「……夢?」
そう呟いたが、自分でも信じていなかった。
もう、会いたくない。
あの感覚も、二度と味わいたくない。
それでも——
「見られている」感覚だけが、消えない。
ベッドに戻り、目を閉じる。
けれど浮かぶのは——あの目だけだった。
あの、ずっと自分を見ていた目。
結局、一睡もできなかった。
時間が過ぎ、やがて朝になる。
光がカーテンの隙間から差し込む。
それでも彼女は、動かなかった。
天井を見つめたまま、何も考えられない。
外に出たくない。
この部屋から、一歩も出たくない。
——出た瞬間、また見つかる気がするから。
◇
「……あ、時間差のこと忘れてた」
夏玖微は頭をかき、少し気まずそうに笑った。
珍しく、その笑みにぎこちなさが混じる。
隣で、陸念安の表情がわずかに変わる。
何も言わず、すぐに動き出した。
部屋、リビング、廊下——
足取りが、次第に速くなる。
そして、最後の扉を開けた。
ベッドの上の姿を見た瞬間——
ようやく、息を吐く。
押し殺していたものが、ゆっくり抜けていく。
彼女はベッドに近づき、声を落とす。
「……大丈夫?」
早乙女は一瞬、固まった。
その声に、覚えがあった。
ゆっくりと顔を向ける。
陸念安の姿が目に入った瞬間——
張り詰めていたものが、一気に崩れた。
喉が詰まり、息がうまくできない。
そして——涙が溢れた。
止めることができなかった。
——もう、一人じゃない。
そう思えたから。
陸念安はしばらく何も言わず、ただそこに立っていた。
数秒後、ようやく口を開く。
「……ごめん」
小さな声で。
「来るのが、遅くなった」
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