第10話 視姦-異常~彼が信じていた甘い幻想は、やがて深淵へと引きずり込まれる~
佐藤恒一の人生に、大きな起伏はなかった。
彼は電子部品の加工工場で働いている。
毎日、同じ工程を繰り返す——出勤、退勤、食事、睡眠。
家族はいない。恋人もいない。
そして、特に責任を負うべき相手もいない。
給料は高くも低くもない。
ギャンブルもしないため、生活は単純だった。
だから彼には、少しばかり余剰の金があった。
そしてその金の多くは、ある一点に消えていく——女性だ。
彼にとってそれは堕落ではなく、「合理的な消費」だった。
金を払ったのなら、それに見合う応対を受けるべきだ。
彼はずっとそう考えていた。
◇
最初のきっかけは、同僚の話だった。
秋葉原に耳かき専門店があるという。
「すごく優しい女の子がいる」
「手つきが丁寧で、客のこともよく覚えてくれる」
「話していると落ち着く」
その時は特に気にも留めなかった。
だがある日、仕事帰りに偶然その店の前を通り、何となく入った。
それが、早乙女直美との初対面だった。
彼女の容姿は、特別に目を引くものではない。
しかし声は静かで、所作もまた静かだった。
彼が彼女の膝に頭を預けたとき——
彼の中に、久しく感じていなかった感覚が生まれた。
金でこの感覚が得られるのなら、通わない理由はない。
二回目、三回目、四回目。
最初はただの客として、決まった時間に予約するだけだった。
彼女はいつも通り微笑み、「おかえりなさい」と言う。
すべては正常だった——少なくとも、彼の認識では。
だが、いつからか変化が生まれる。
彼は彼女の声を期待するようになった。
自分のことを覚えているかどうかを期待するようになった。
そして——自分が特別なのではないかと期待するようになった。
何しろ、自分は他の客よりも頻繁に通っている。
誰よりも真剣に、この関係を扱っている。
ならば、少し特別でもいいはずだ。
「俺のこと、どう思う?」
それは初めての探りだった。
深い意味はなかった。ただ確認したかった。
彼女の中で、自分が「特別」なのかどうかを。
しかし返ってきた答えは——
「普通。中の上くらいですね」
その瞬間、頭の中で何かが裂けた。
普通?
彼は毎回きちんと身なりを整えている。
わざわざ準備までして来ている。
金も時間も使っている。
誰よりも真剣だったはずだ。
それなのに、普通?
「俺、結構イケてる方だろ?」
口調が変わった。
だが本人は気づいていない。
彼女はすぐに補足した。
それはかなり高い評価だと。
自分も同じく普通だと笑ってみせた。
その言葉に、彼はなぜか安堵した。
そして少しだけ嬉しくなった。
「じゃあ、俺たち相性いいじゃん」
彼の中では、それが自然な結論だった。
それ以降、彼はさらに頻繁に通うようになった。
◇
彼女の出勤時間、退勤時間、出口の位置まで記録するようになった。
最初はただ遠くから見ているだけだった。
やがて距離は縮まっていく。
それを彼は「関心」だと思っていた。
関心を持つということは、当然の行為だと考えていた。
そしてある日、彼は贈り物を用意した。
関係をもう一歩進めるために。
誕生日という日は、特別であるべきだ。
駅の出口で彼女を待った。
しかし、彼女の表情は喜びではなく、恐怖だった。
その瞬間、彼はすぐには理解できなかった。
ただ少し距離を縮めただけのつもりだった。
それに、彼女の仕事はそういうものではないのか。
なぜ逃げる必要がある?
さらに彼女は店内で、自分のことを話していた。
その全てを、彼は聞いてしまった。
その日、彼は初めて「拒絶」というものを理解した。
彼女は店を辞め、場所を変え、電話を変え、生活を変えた。
まるで逃げるように。
だが彼は見つけられる。
ずっと、見つけられるのだ。
だから、どれだけ変えても、どれだけ逃げても——
彼はまた彼女を見つけてしまう。
佐藤恒一は、ずっと彼女を見ていた。
「ずっと見ていたよ」
その言葉を口にしたとき、彼の声は確かに真剣だった。
しかし、彼女の反応は——まるで怪物を見るようだった。
その瞬間、彼はようやく理解する。
彼女の中で、自分は「特別」ではなかった。
それどころか——「人間」ですらなかったのかもしれない。
何かが、静かに断ち切られた。
もし受け入れられないのなら。
ならば——壊すしかない。
その考えは静かに生まれ、そして消えなかった。
◇
翌日、彼は準備を整えた。
バッグの中には刃物が入っている。
時間、場所、動線。
すべては既に計画されていた。
次に彼女に会えたとき、それで終わるはずだった。
家を出ようとしたその時——スマホが鳴った。
本来なら無視するつもりだった。
しかし、なぜか通話ボタンを押してしまう。
「……もしもし?」
一瞬の沈黙。
そして——彼女の声。
「佐藤さん、ですか?」
呼吸が止まる。
「早乙女です」
何事もなかったかのような、静かで柔らかい声。
「今日の仕事が終わったら……」
「一緒に映画、行きませんか?」
世界が、突然色を取り戻したように感じた。
彼は気づいていない。
自分の手が、震えていることに。
「……いいよ」
外の空気は冷たかった。
しかし彼は、それを感じていなかった。
その口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいた。
出かける前、彼は入念に準備をしていた。
近くの薬局で睡眠薬を購入し、服装も何度も確認する。
襟元から袖口まで、すべて整えた。
今度こそ、彼女を手に入れる。
もし家に連れて行ければ——
たとえ一度でも関係を持てば、きっと慣れていくはずだ。
その想像だけで、心拍は加速し、口元は歪んでいく。
しかし、その横で影がわずかに揺れたことには気づかなかった。
◇
昼過ぎには新宿の耳かき店付近に到着していた。
彼女の退勤は夜9時。
それでも彼は安心できなかった。
逃げるかもしれない。
だから彼は、ずっとそこにいた。
◇
そして21時。
彼が店の前で苛立ち始めた頃——
二人の少女が現れた。
一人は黒髪、もう一人は白髪。
年齢はまだ若い。
「ねえ、佐藤さんですよね?」
白髪の少女——夏玖微が少し身を乗り出す。
街灯が彼女の影を長く伸ばす。
その影の中に——赤い瞳があった。
佐藤は戸惑った表情を浮かべる。
「私たち、ミちゃんの高校の友達なんです」
黑髪の少女——陸念安が自然に続ける。
「今日、彼女から頼まれてて。佐藤さんがちゃんとした人か見てほしいって」
夏玖微は軽く手を振る。
一瞬で、佐藤の胸に優越感が広がった。
「実は、ミちゃんってずっとあなたのこと好きなんですよ」
夏玖微がふと呟く。
「ただ、ちょっと恥ずかしがり屋なだけで」
陸念安も続ける。
「だから、ちゃんと受け止めてあげてくださいね」
「でも……彼女、僕を見ると逃げるんです」
佐藤が言うと、夏玖微は首をかしげた。
「逃げてるように見えました?」
その視線は鋭い。
佐藤は考え直す。
逃げていたのではない。
ただ、恥ずかしかっただけだ。
そうに違いない。
その時だった。
「佐藤さん、お待たせしました」
柔らかい声。
さっきまでとは違う、落ち着いた声色。
◇
映画館へ向かう途中、佐藤は違和感を覚える。
背後から視線。
振り返る。
黒い影の中に——赤い瞳。
だが次の瞬間、それは消えていた。
◇
映画館に入る。
席に座ると、隣の早乙女は静かにスクリーンを見ている。
微笑んでいるようにも見えた。
彼は手を伸ばした。
指が触れる。
拒まれない。
温度がある。
柔らかい。
しかし——
両手でポップコーンを食べている彼女の姿。
その手は、今ここにある。
では、自分が握っているのは——誰の手だ?
背筋に冷たいものが走る。
彼はゆっくりと視線を落とす。
そこには何もなかった。
「……さっき、手、繋いでましたか?」
「え?」
早乙女が首をかしげる。
「佐藤さん、手を繋ぎたかったんですか?」
少し恥ずかしそうに、彼女は手を差し出した。
彼はその手を握る。
しかし頭の中は、すでに混乱していた。
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