第7話 同じベッドで
黒いセダンは市中心にある、ミニマルな灰白色のマンションへと滑り込んだ。
車はスロープを下り、地下駐車場へ入っていく。
そこは異様なほど静かで、冷たい白色灯が床に広がっていた。
車が止まり、エンジンが切られる。
陸念安が先に降りる。
ローヒールの靴音がコツンと響き、広い空間にかすかに反響した。
その後ろから、夏玖微も降りる。
見慣れない空間に興味津々といった様子で、きょろきょろと辺りを見回している。
陸念安は何も言わず、そのまま彼女を連れて専用エレベーターへ向かった。
カードキーを差し出す。
夏玖微は目を輝かせてそれを受け取り、すぐにかざす。
——ピッ。
エレベーターの扉がゆっくりと開いた。
二人は中へ入る。
片側には、仕立ての良いスーツに身を包み、黒髪を落ち着かせた陸念安。
もう片側には、少し古びた黒Tシャツとカーキのワイドパンツ、白髪が鎖骨まで垂れる夏玖微。
まるで異なる世界の存在が、同じ狭い空間に並んでいる。
そして今——
二人は、同じ場所で暮らそうとしていた。
エレベーターは静かに上昇する。
数字が一つずつ変わり——
9。
——チン。
扉が開く。
目の前には、数畳ほどの玄関スペース。
暖色の照明が柔らかく広がり、先ほどの地下駐車場とは対照的だった。
靴を履き替えたあと、夏玖微が自分からカードをかざし、扉を開ける。
一度振り返り、陸念安と目を合わせる。
確認するように。
次の瞬間——扉を押し開いた。
室内は広くはないが、精巧で温かい空間だった。
まるで——最初から彼女のために用意されていたかのような錯覚すら覚える。
正面には一面の片面ガラスの大きな窓。
その向こうに、夜の都市が静かに広がっている。
窓の前にはコンパクトなリビング。
テレビとソファ、無駄のない配置。
木目調の床が、空間に柔らかな温もりを与えていた。
右側には木製ルーバーの仕切りがあり、その奥にキッチン。
さらに窓側にはシンプルなダイニングテーブル。
左側には廊下が伸び、書斎、寝室、浴室、そして奥にはバルコニー。
夏玖微は玄関に立ったまま、その空間を見つめる。
そして——満足そうに微笑んだ。
それを見た陸念安も、そっと口元を緩める。
「玖ちゃん、今日の晩ご飯、作ってくれる?」
「いいよ!」
夏玖微はOKサインを出し、財布を探そうとする。
それを察した陸念安は、すでに用意していたブラックカードを差し出す。
「これ、使って。」
夏玖微は一瞬驚き、それを受け取り、にっと笑った。
「じゃあ、買い出し行ってくる!」
軽く手を振り、外へ出ていく。
◇
エレベーターが一階に到着する。
夏玖微は小さなロビーを抜け、カードキーを取り出してガラス扉と外側の鉄柵を順に解錠し、マンションの外へ出た。
少し歩いた先には、大型のチェーンスーパー。
上階の窓からでもはっきり見えていた場所だ。
店内に入り、夕食の食材を選び始める。
トマト、バジル、パスタ麺……。
だが、買い物の途中で——
彼女の眉が、ゆっくりと寄っていく。
学校に通い始めた頃から、ずっと感じていた違和感。
説明できない、どこか引っかかる感覚。
ただ——その正体が分からなかっただけ。
そして今——
裏世界を継承したことで、彼女の精神力は3057。
常人の二十倍以上。
それによって——
これまで「曖昧」だったものが、はっきりと輪郭を持ち始める。
七時方向。
およそ十五メートル先、酒棚の裏。
——あの口ひげの男。
今日、これで三度目だ。
一度目は、陸念安と車に乗る前。
近くのレストランの中にいた。
二度目は、マンションを出た直後。
目の前を横切った。
そして——三度目が、今。
夏玖微は振り返らない。
代わりに、胸の奥に溜まっていた違和感を、ひとつの形にする。
極めて小さな黒影——「眼」。
それは静かに開き、彼女の視界の死角から覗き込む。
——いた。
やはり、そこにいる。
彼はずっと、彼女の視線の外側から監視していた。
次の瞬間。
その脆弱な黒い「眼」は圧力に耐えきれず、音もなく崩壊する。
だが——答えは、もう十分だった。
問題は、あの男だけじゃない。
今日だけでも——
交代で尾行していた三台の車。
ポニーテールの男。
そばかすのある眼鏡の女。
すべて、繋がっている。
彼女は何事もなかったかのように買い物を終え、食材の袋を提げてスーパーを出た。
——気分が、わずかに沈む。
◇
マンションに戻る。
扉を開けた瞬間——
視界に入ったのは、風呂上がりの陸念安だった。
柔らかな白いTシャツ。
ゆったりとしたコットンのパンツ。
毛先には、まだ水気が残っている。
その光景はどこか静かで、穏やかで——
「家」という感覚を、淡く滲ませていた。
夏玖微は無言のまま、買ってきた食材を一つずつキッチンに置き、飲み物を冷蔵庫へしまう。
だが——
その表情は、わずかに陰っていた。
「……気づいてるでしょ?」
低く落ちた声。
彼女は分かっていた。
今の陸念安——精神力が七百を超えている状態で、気づかないはずがない。
始まったばかりだったはずの、穏やかな時間。
その夢のような日常が——壊れかけている。
「それがどうしたの?」
陸念安は、静かに答える。
「ただのパパラッチだと思えばいい。」
落ち着いた声。
だが、その裏で——彼女自身も異常に気づいている。
あまりにも「整いすぎている」。
動きが綺麗すぎる。
同じ顔は、ほとんど五回以上は現れない。
普通ではない。
それでも——彼女は気にしない。
目の前にいる人といられるなら、
それだけでいい。
「……自分をごまかさないで。」
夏玖微は彼女を見つめる。
「連中は、私を狙ってる。」
「それに、ああいう尾行——普通の人間にはまず気づけない。」
空気が、一瞬で冷えた。
沈黙。
ほんの短い間。
その中で——彼女は決めていた。
——離れる。
少なくとも、このまま一緒にいれば、彼女を巻き込む。
それだけは避けたい。
踵を返す。
立ち去ろうとした、その瞬間——
手を、掴まれた。
「何するの?」
陸念安の声が、わずかに乱れる。
「なんで行こうとするの?」
握る手に、力がこもる。
「私の人生は……全部、あなたがくれたものなの。」
声が震える。
「あなたがいなかったら、私は今でも——裏世界に閉じ込められたままの、何もできない人間だった。」
「あなたは……私に、全部くれた。」
一瞬、言葉が詰まる。
それでも、続ける。
「だから——」
顔を上げる。
まっすぐな目。
「少しくらい……私に頼ってもいいでしょ?」
「全部、一人で背負わないで。」
その言葉は、強くはない。
でも——逃げ場がないほど、真っ直ぐだった。
「それに、本当に危なくなったら——裏世界がある。」
彼女は手を伸ばす。
髪留めが、一度消え、また現れる。
「見て。」
「もし何かあったら、私はすぐにあっちへ逃げる。」
少しだけ、息を整える。
「その時は——迎えに来てくれる?」
夏玖微は、彼女を見つめたまま動かない。
胸の奥に溜まっていた重さが——
少しずつ、ほどけていく。
彼女はふと気づいた——祖父は自分にすべてを教えてくれた。
だがただ一つだけ、教えてくれなかったことがある——どうやって他人に頼るか、ということを。
もしかしたら、自分が陸念安を助けたのは——
かつて、自分自身も誰かにそうやって引き止めてほしかったからなのかもしれない。
「お風呂、行ってきな。」
陸念安は彼女を浴室の前まで押しやる。
「入れば、少しは楽になるから。」
「大丈夫、私はご飯作りに——」
「ダメ。」
彼女は遮った。
「今すぐ行って。」
少し間を置いて、冗談めいた口調で続ける。
「それとも……一緒に入る?」
夏玖微の顔が一瞬で赤くなる。
「い、いい!一人で大丈夫だから!」
お風呂を終えたあと。
「えっと……安ちゃん。」
「服、取ってもらっていい?」
ドアが少しだけ開く。
陸念安は用意していた部屋着と下着を差し出した。
「これ、買ってくれたの?」
「いつの間に……?」
彼女は思わず視線を落とす——首元から、鎖骨へ、そしてその下へ。
顔が一気に赤くなり、慌てて視線を逸らす。
「そ、その……私……」
頭が真っ白になり、言葉が出てこない。
「ありがとう。」
夏玖微はそれを見て、目を細めながら軽く礼を言った。
ドアが閉まる。
陸念安はその場から逃げるように離れた。
(やっぱり、私って結構大事にされてるんだな)
夏玖微は心の中でくすっと笑う。
——自分こそ、少しずつ攻略されている側だとも知らずに。
夕食はすぐに出来上がった。
ミートソーススパゲッティ、マッシュルームのポタージュ、それからフルーツ酒。
窓の外には夜景、室内には温かな灯り。
二人は同時に、満ち足りたような感覚を覚えていた。
「これ、安ちゃんの。いちご味。」
「いらない。子供っぽいし。」
「いや、絶対好きでしょ。」
「お酒飲めないでしょ、それ私にちょうだい。」
夏玖微はそのままぶどう味のフルーツ酒を開けて、一口飲む。
「まだ十七でしょ。」
「いや、もう四十九歳なんだけど。」
「……」
ひとしきりじゃれ合ったあと、結局二人は飲み物を交換した。
同じ飲み口から口をつけた瞬間——
空気が少し止まったように感じられた。
二人とも一瞬黙り込み、頬がほんのり赤くなる。
夜更けまで、二人は笑い合いながら過ごした。
「そろそろ寝る?」
陸念安が少し戸惑いながら聞く。
「その……ベッド、一つしかないけど。」
「いいよ。」
その一言で、二人の心拍が同時に速くなる。
電気が消え、部屋は暗闇に包まれる。
だが、どちらも眠れてはいなかった。
時間がゆっくり流れる。
しばらくして、陸念安は寝返りを打つふりをして、そっと彼女を抱き寄せた。
心臓は壊れそうなほど速く打っている。
「……まだ起きてる?」
夏玖微が小さく囁く。
返事はない。
——けれど、その激しい鼓動がすべてを物語っていた。
夏玖微はそっと彼女の胸元に身を寄せる。
体の力がゆっくり抜けていき、呼吸も次第に穏やかになる。
やがて——そのまま静かに眠りに落ちた。
【結合度+3%】
【作者からのお願い】
二人の関係が少しずつ動き出しました……!この先の展開や、お嬢様のデレが見たい!と思ってくださった方は、ぜひ【ブックマーク登録】と【評価☆☆☆☆☆】をお願いします!
皆さんの評価一つで、作者のモチベーションが限界突破します。ぜひ、あなたの清き一票を夏玖微に!




