第5話 審判~慈悲なき裁き。逃げるつもりか?それは許されない~
「域」の中で、怨念から生まれた黒い影たちが、夏玖微の足元で蠢いていた。
「あなたたちが相手にするのは——あれじゃないよ。」
彼女は軽く地面を踏む。
今にも溢れ出しそうだった黒影は、見えない力に押さえつけられるように、ゆっくりと地面へ沈んでいった。
「お前……俺たちに何をするつもりだ?」
一人の保護者が前に出て、彼女を指差す。
強気な口調。
「訴えられたくないだろ?」
周囲の生徒たちはその様子を見て、徐々に表情を緩めていく。
中には、あからさまに嘲るような笑みを浮かべる者もいた。
——所詮、ただの学生だ。
大人たちもすぐに同じ結論に至る。
顔に浮かんでいた恐怖は、いつの間にか根拠のない余裕へと変わっていた。
空気が、次第に軽蔑へと傾いていく。
夏玖微は足元の黒影を一瞥し、小さく息を吐いた。
(多すぎる……でも、足りない)
そのまま、自身の中にある怨念を——ゆっくりと、自分の影へと流し込んでいく。
少しずつ。
確実に。
影が膨れ上がる。
平面だったはずのそれが、立体的に歪み始める。
そして——
巨大で歪な怪物が、彼女の背後の影から浮かび上がった。
黒い怪物は、さらに分裂する。
一体が二体に。
二体が四体に。
それぞれが、夏玖微の半身以上は高い異形。
笑顔は消えなかった。
ただ、そのすべてが——夏玖微の顔に集まっただけ。
「皆さん。」
穏やかな声。
「まだ、何か言い残すことは?」
空気が、一瞬で冷え切る。
「な、夏玖微くん……」
校長が無理やり笑みを作る。
声が震えていた。
「私たち教師は……ずっと君の味方だったじゃないか……」
「見ての通り、処分もしなかったし、退学にもしていない……」
「保護者からの圧力も、全部こちらで抑えてきた……」
「人として……恩は忘れるべきじゃないだろう?」
言いながら、無意識に後ずさる。
夏玖微は彼を見つめた。
ほんの一瞬、沈黙。
「そう?」
首を傾げる。
「トイレで囲まれてた時——あなた、どこにいたの?」
「階段から突き落とされた時——見てた?」
「それとも……」
声が、静かに落ちる。
「見えてるのは——寄付だけ?」
誰も答えない。
彼女の視線が、ゆっくりと全員をなぞる。
保護者。
生徒。
教師。
「安心して。」
指を一本、立てる。
「半分は——帰してあげる。」
一同が固まる。
「残りは——自分たちで決めて。」
そう言い残し、彼女は扉へ向かう。
バン——!!
古びた木の扉が閉まる。
その直後。
激しい衝撃音が爆発する。
「開けろ!!」
「出せ!!」
「選ばせるんじゃなかったのか!!」
叫び声は次第に混乱し、鋭く、狂っていく。
だが——
その扉は、びくともしなかった。
◇
「域」の別側。
裏世界に引き込まれた生徒たちと、陸念安の担任教師は——
真っ白な、閉ざされた空間に転送されていた。
「ここ……どこ? 先生、怖い……」
女子生徒が震えながら担任を見る。
「くそ……陸念安のやつ、俺を倒したと思ったらここかよ。」
男子生徒が苛立ちを隠さず首を鳴らす。
「まさか……これ、陸念安の仕業……?」
誰かが恐る恐る言う。
「あり得ない。」
担任が即座に否定した。
断言するような口調。
「陸念安みたいな内向的で抑圧された生徒に、こんなことができるわけがない。」
「家庭に迷惑をかけるのを極端に嫌うタイプだ。」
「ああいう扱いやすい“いい子”が、大それたことなんてできるものか。」
そう言って、周囲を落ち着かせようとする。
「——へぇ?」
その空間に、不意に声が響いた。
どこか楽しげな声音。
全員が息を呑む。
気づけば——
一人の少女が、人混みの中に立っていた。
「……誰だ?」
誰かが反射的に問いかける。
少女は軽く首を傾げる。
「それは、どうでもいいよ。」
淡々とした声。
唇が、ゆっくりと弧を描く。
「でも——」
「私は、陸念安の友達。」
夏玖微は、両手をわずかに広げる。
迎えるように。
宣告するように。
「私の“お友達”のみなさん。」
静かな声。
「私の世界へようこそ。」
その笑みを見た瞬間。
生徒たちの背筋に、寒気が走る。
「き、君……何をするつもりだ?」
担任が作り笑いを浮かべる。
だが声は隠しきれずに震えていた。
「話せば分かる——」
夏玖微は思い出していた。
「結合」のときに流れ込んできた、あの絶望。
その冷たさ。
そして——
目の前の人間たちが、さらにそれを煽っているという事実。
彼女は、ゆっくりと首を横に振る。
「あなたたちがやってきたことは——もう言うまでもないよね。」
静かな声。
「後は、自分で償って。」
その言葉と同時に。
白い空間が、ゆっくりと広がっていく。
形を持ち始める。
やがて——学校の構造へと変わっていく。
閉ざされた、処刑場。
無数の黒影が、夏玖微の足元から溢れ出す。
すべて、「域」に溜まった怨念から生まれたもの。
一体一体の力は高くない。
だが——
数が、圧倒的だった。
「ちゃんと償ってね。」
意識を動かす。
次の瞬間。
夏玖微の姿は、雪に覆われた小さな洋館へと移動していた。
この「域」は三つの空間に分けられている。
二つは“処刑”のため。
そして最後の一つが——今、彼女がいる場所。
◇
裏世界は、彼女が離れている間、時間が停止する。
だから——
陸念安は、ほとんど待たされていない。
暖かな洋館の中。
静かに、夏玖微の姿が現れる。
「……おかえり。」
陸念安が小さく言う。
「待たせてないよね?」
夏玖微は軽く笑う。
そのまま手を振る。
すると——
どこからともなく、古い映写機が現れた。
光が空間に映像を映し出す。
そこに映るのは——
“審判”。
逃げ惑う姿。
泣き叫ぶ声。
命乞い。
崩壊。
陸念安は、ただ静かに見ていた。
目を逸らさない。
嫌悪も、同情もない。
ただ——
ゆっくりと手を伸ばす。
夏玖微の手を、そっと握る。
——今度は。
彼女はもう。
置いていかれる側ではない。
◇
それからの二年間、二人はずっとその洋館で暮らしていた。
裏世界に大きな変動は起こらず、時間もまるで意図的に遅くされたかのように、静かに前へと進んでいた。
夏玖微は陸念安に寄り添い、これまで誰にも一緒に叶えてもらえなかった願いを、一つずつ埋めていった。
そこに劇的な理由はなく、記録を残す必要もなかった。
幼い頃の空白が完全に埋まったわけではない。
けれど、その空白はもう彼女を傷つけなくなっていた。
陸念安は時折過去を思い出すことがあったが、それに長く囚われることはなかった。
なぜなら、今の生活は——過去よりもずっと現実だったから。
そして夏玖微は、ずっとそこにいた。
◇
ある、ごく平凡な午後。
裏裏が久しぶりに《裏世界管理手冊》から姿を現した。
「主人、S級任務の達成を確認しました。
『域』は完全に浄化されています。」
小さな体が空中で揺れ、珍しく興奮した声を出す。
「現在、あなたは完全な権限を獲得しています。
裏世界と融合し、さらなる力の向上も可能です。」
「融合を実行しますか?」
夏玖微はすぐには答えなかった。
ただ、自分のものとなったこの世界を見つめていた。
少しの沈黙の後——
静かに頷いた。
次の瞬間。
裏世界全体が“目覚めた”ように揺れた。
力が四方八方から押し寄せ、音もなく彼女の体へと流れ込む。
彼女と繋がっている陸念安にも、その一部が分け与えられた。
だがその直後——
別の“何か”が混ざり込んだ。
それは力ではなく、むしろ「声」に近かった。
無数の囁きが彼女の脳内で弾ける。
抑えきれない怨念のようなもの。
痛みが一気に広がる。
陸念安もまた同じ衝撃を受け、表情をわずかに変えた。
「これは……何?」
夏玖微は眉をひそめた。
裏裏は視線を落とし、小さな頭をゆっくり振る。
「主人、この世界の裏世界は本質的に巨大な“域”です。」
「その声は残留した怨念です。」
「処理しなければ、徐々に思考へ干渉してきます。」
少し間を置き、続ける。
「十分な精神力で封じ込めれば問題ありません。」
「そうでなければ、感情が不安定になります。」
夏玖微は静かに聞き終えると、少しだけ間を置いた。
そして問いかける。
「普通の人は、どの程度で壊れるの?」
裏裏は小さな表を取り出し、淡々と差し出した。
「参考データです。」
00〜20% —— 正常稼働
20〜40% —— 軽度疲労、集中力低下
40〜60% —— 明確な倦怠、思考混乱
60〜80% —— 判断力低下、日常機能に支障
80〜90% —— 精神崩壊寸前、外部支援または介入が必要
90〜100% —— 完全崩壊
夏玖微がその表を読んでいると、陸念安がふと彼女を見て驚いたように言った。
「……髪、どうしたの?」
「ん? 私の髪?」
鏡を見た夏玖微は、思わず口を少し開けた。
——黒髪が、すべて白に変わっていた。
「終わった……」
小さく呟く。
「でも綺麗だと思う。」
陸念安が静かに言った。
「本当?」
夏玖微はじっと彼女を見つめる。
「本当。」
陸念安は頷いた。
夏玖微は少しだけ安心したように息を吐き、口元に笑みを浮かべた。
「じゃあ問題なしだね。」
彼女は軽く笑いながら立ち上がる。
「ふふ、新しい姿で——最初の“お客さん”を迎えないとね!」
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